僕の中の猫
小冊子で配布していた作品です。
とある晴れた夏の日、僕は一匹の猫に出会った。
あれは小学校五年生のとても嫌なことがあった日の帰り道で、太陽はじりじりと照り、気温はいつものように高かったと思う。暑さを逃れるため、また気落ちしたまま家に帰りたくないという気持ちもあり、僕は家の近所の神社で時間を潰すことにした。
お社から少し離れた場所にある木陰に腰を下ろした僕は、今日に起こった嫌なことを思い出していた。
きっかけは些細なことで、僕としては何の悪気もなかったことだ。友達に遊びに誘われた。けれど、めんどくさいから断った。なんでこんな暑い日にわざわざ外でサッカーなんてしなきゃいけないんだよ、という気持ちでいっぱいだった。もともと運動は好きじゃない。苦手、というわけでもないけれど、好き好んでしようとは思わない。運動よりは、むしろ家でゲームをしたり、本を読む方が好きだった。
誘いを断った僕にかけてきた、あいつの言葉が思い出される。
「習い事とかじゃないんでしょ? だったらいいじゃん。一緒に遊ぼうよ」
お前今の僕の「めんどくさい」って発言聞いてなかったのかよ。僕の予定は、家に帰ってごろごろすることで埋まってるの。別に暇なわけでもないし、わざわざお前らと遊ぶ義理なんかねえよ。行きたい気分のときは、今までも参加してきたし、とにかく放っておいてくれ。
――なんて言えるはずもなく、
「いや……、うん、ごめん」
とりあえず言葉を濁した。ていうか、上手い言い訳が頭に浮かんでこなかった。そんな曖昧な僕の態度を見たあいつは、不快感を隠そうともせず、
「あっそう」
と言い、僕から背を向けて去っていった。
思い出すだけで腹が立つ。なんであんな態度を取られないといけないのか。家でごろごろすることは犯罪なのか、予定がなかったら誘いを断っちゃいけないのか。
悶々とした気持ちで、足元にあった石ころを蹴飛ばす。石ころ転がっていくのを、何気なく視線で追うと、こっちをじっと見つめてくる一匹の猫を見つけた。
その猫は黒かった。体全体が真っ黒な毛に覆われて、こちらを見つめてくるその目は、薄い緑だった。
じっと目を合わせる。黒い猫に横切られると縁起が悪いというけれど、別に横切られてないから大したことないな、みたいなことを判然としない状態で考えた。
黒猫は何をするでもなく、ただこちらをじっと見つめ続けている。
――それは、きっとただの気まぐれだったのだと思う。イライラした気持ちをどうにかしたかったとか、この猫は他の野良猫みたいに目が合った瞬間どこかにいかなかったとか、そういうことの重なりで。
「おーい」
僕は猫に話しかけていた。声をかけるついでに手招きもしてみる。すると、黒猫はニャーとかいいながら、こっちに向かって歩いてきた。
「にゃー」
とりあえず黒猫の真似をしてみる。僕の声を聞いた黒猫は、甘えたようにニャーと返事をした。
その姿を見ていると、今まで苛立っていた気持ちが嘘みたいに、薄くなっていることに気が付いた。
「君の名前は?」
答えられるはずのない問いを投げかける。黒猫は首をかしげるような動作で、僕の方へとさらに近づいてきた。
「名前なんてどうでもいいか……」
ぽつりとつぶやく。黒猫はそんな僕にお構いなしという風に、突然、ぴょんと僕の太腿へと飛び乗ってきた。
「ちょっと、おい」
黒猫は僕の膝の上で、気持ちよさそうに目を細めながら体の力を抜いていた。半ズボンから下の足に直に触れる毛並みは気持ちよかったけれど、如何せん太陽は煌々と照り付けていて、僕は夏の暑さを逃れるために木陰へとやってきていた。
「暑い」
声に出すことで何かが変わるわけでもないけれど、声に出さずにはいられなかった。
「暑い」
もう一度、同じ言葉を声に出す。
まあいいか。黒猫のおかげで、嫌な気分が薄れたし。しばらくは、このままにしといてやろう。
葉の間から指す、キラキラした光を浴びて、思いの外汗をだらだらと流しながら僕はじっと座っていた。
それから一週間後、僕はまた神社へと足を運んだ。先週あった黒猫のことは、記憶の片隅の方に押しやられていて、ただまた先週と同じような嫌なことがあったからここに来ただけだった。
今度の原因も似たようなことだった。ただ立場が違うだけで。放課後みんなが、これから吉野の家に集まってゲームしようぜと言っていたので、僕も混ぜてもらおうとした。そうしたら、先週僕を誘ってきたあいつが、いきなり、「お前は別に来なくていいよ」とか笑いながら言ってきたのだ。他の子もなぜかにやにや笑っていて、僕はとても嫌な気分で、そのまま飛び出すように神社へとやってきた。
「はあ」
ため息をもらす。どうしてこうなったんだろう……。今でもあのじめじめとした気持ちをはっきりと思い出せる。あいつだけじゃなくて、他のみんなもにやにや気持ち悪く笑っていた。僕だけが輪の中から外れていて、どうしようもなく嫌な気持ちでいっぱいだった。
「どうしよう」
本当にどうしよう。どうにもならないなあと思いながら、ぼうっとする。今の気分は最悪だ。明日からどうしようという気持ちでいっぱいになる。一人でいることは好きだけれど、それはみんなの中から外れていいということじゃなかった。僕は孤独が好きだけれど、孤立が好きなわけじゃなかった。
「はあ」
もう一度、今度はさっきよりも浅いため息をつく。考えたって仕方がない。今色々考えたって、どうすることもできないし。
足元の石ころを蹴って、木陰に腰を下ろす。すると、先週と同じように黒猫は姿を見せた。
「なんだ、また君か」
またなんとなく話しかけてしまった。
黒猫はニャーと返事をすると、とてとてと僕の膝の上までやってきた。
「相変わらず図々しいやつだな君は」
まあいいや。どうにでもなれ。
綺麗な毛並みの感触に触れながら、でもやっぱり暑いなと思った。
気が付いたら、嫌な気分はどこかへ行ってしまっていた。
そのまた翌週、学校帰りに僕は神社へと立ち寄った。今日は終業式だったから、みんなは昼から遊ぶ約束をしていたみたいだけれど、僕は案の定先週と同じようにみんなと遊ぶことはできなかった。
どうにかしたい、という気持ちはあったけれど、それは決して大きいものじゃなかったように思う。寂しい気持ちはあった。だから自然と足は、この場所へと向かっていた。
今日は僕の方から呼びかけてみることにした。
「おーい。僕だよー」
きっと、いや絶対。黒猫は現れるだろうという確信があった。
ニャーという、もうそこそこ聞きなれた返事とともに、黒猫はこっちにやってきた。僕の手招きに、とことこと応じて膝の上に座ってきた。
綺麗な毛並み、ぎりぎり耐えられるくらいの暑さ。気が付けば、また僕の気分は凪いだ海みたいになっていた。
それからは毎日のように神社へと足を運んだ。どうせ遊んでくれる友達なんてもういなかったし、家にずっといるというのもなんだか退屈だったから。
黒猫は毎日のように僕の前に現れた。首輪をしていないから野良猫なんだと思う。野良猫には近寄っちゃだめよ、とお母さんに言われていたけど、僕はあんまりそのことを気にしていなかった。
僕と黒猫はお互いニャーにゃー言い合ったり、暑い中くっついてぼうっとしたりして、日々を過ごした。学校で感じていた嫌な気分なんか、少しもこの場所では感じなかった。ただずっと、穏やかな時間を過ごしていた。
そして、長い夏休みが終わった。今日からはまた学校に通わないといけない。夏休み前のことを思い出して少し怖くなった。けれど、きっと大丈夫。何かあっても、また神社へと行けばいい。夏休みをずっと一緒に過ごしたあの黒猫なら、また僕を慰めてくれるはず。
そんな不安と少しの自信を胸に、僕は学校へと向かった。
始業式が終わり、教室ではみんながわいわいと騒いでいる。夏休みの宿題はちゃんとやったのかとか、自由研究のテーマ何にしたのーとか、どこどこに家族で旅行に行ったんだーとか、そんな、他愛もないこと。
僕はその光景をただぼうっと見つめていた。相変わらず一人な自分に、胸が少し締め付けられるのを感じながら。
また神社に行こう。そうしたらきっと黒猫に会えるはず。
そう思い、ランドセルを背負って席を立とうとしたときだった。
「なあなあ、今日これから一緒に公園で遊びに行かない?」
僕に声をかけてきたのは、あいつだった。夏休み前、にやにや笑いながら、僕を仲間外れにしてきたあいつ。まるで、あのことがなかったみたいに、あいつは僕を誘ってきた。
「公園で何するの?」
感情が追い付かず、どうでもいいようことをとりあえず口にする。
「さあ、まだ決めてない。他のやつも来るし、何人か集まったらサッカーでもやるかな」
僕の動揺に全く気付く素振りを見せず、何でもないようにあいつは告げる。
「あ、そうなんだ」
「それじゃあ、昼飯食べて、十三時半に公園に集合な」
それだけ言い残すと、あいつは他の人の方へと行ってしまった。
今のはいったい何だったんだろう。ていうか僕、一言も行くって言ってないよな。
――まあいいか。
そのあと、僕たちは、夏休みにはいいる少し前みたいに遊んだ。楽しかったかはよく覚えていない。ただ、何かこのことが僕にとってはとても衝撃的だったことだけ覚えている。
なんだこんなもんか。そう、ただ思ったことを覚えている。
それから数日後、僕は学校帰りにあの神社へと足を運んでみた。
「おーい」
夏休みのあの日々のように、僕は黒猫に呼びかける。黒猫は、やっぱりいつもみたいに姿を現した。
ただ、そこからがいつもと違っていたのだけれど。
ニャーと一鳴きして、黒猫は僕に背を向けて、素早くどこかへ歩いて行ってしまった。
一瞬何が起こったかわからなかった。ただ、木陰に腰を下ろして、黒猫が乗ってきてくれるのを待っていた。
黒猫が消えてしまった方向へと、視線を向けながら、呆然と思ったことを今でもよく思い出せる。
――“なんだこんなもんか”
あの夏のことは今でもよく覚えている。それは、あの夏が僕に何か大事なことを伝えていてくれたからだと思う。あの時の気持ちを忘れずに、僕は今をなんとなく生きている。
読んでくださりありがとうございました。