校長の独白1
鴻上校長は、コガニに赴任して20年になる。ここに来る前は公立高校の進路指導の責任者を五年ほど務めた。
進学校だったので、生徒の成績には敏感だったが、生徒自身には興味がなかった。成績の飛び抜けて良かった子や、どうしようもない子は覚えているが、その他多数の生徒の顔は全く覚えていない。
小金第二高等学校は元々、教育特区に作られる予定だった。自由な校風、自由なカリキュラムが許され、高校なのに選択単位で学べるという、当時は画期的な試みも検討されていた。
鴻上は公立高校の限界を感じていたので、先鋭的なこの高校の募集を見つけたときは理想郷を見た気がした。
しかし時代が悪かった。
他府県で教育特区が次々に失敗をし、
小金第二高校の教育特区構想も破断になってしまった。鴻上の赴任が決まってからだ。
それでもこの学校に期待して赴任した先生たちは熱心な先生が多く、鴻上も前任校のノウハウをふるい、なんとか創立当初は進学校と呼ばれても良い成績を収めた。
創設間もない高校から旧帝大に進学する子を何人も出すのは奇跡的だった。
だが、彼の情熱を削ぐような事件が起きた。
学年主任を8年ほど務め、そろそろ昇任が見えて来たとき、生徒間のイジメが発覚する。それはとても陰湿で、結果自殺者が出てしまった。
しかも前後して、運動部での体罰が発覚した。痛恨だった。
新興の私立ということで閉鎖的なイメージもあり、報道で大きく出た。
熱心さが裏目に出たともいえるが、なんとか学校の名前を全国区にしようと、運動部が張り切りすぎたきらいもあった。
理事長をはじめ、学校法人幹部はコガニの主要な教諭を総取っ替えすることにした。
もちろん鴻上もその中に入っていた。
しかしここで奇妙な運命の交差があった。
生徒の一人、清水谷が鴻上先生を辞めさせないで欲しいと理事会に嘆願書を書いたのだ。
清水谷は鴻上のクラスで出来は普通。担当をして二学期になっても鴻上は顔が覚えられなかったくらいだ。
しかし清水谷は鴻上がいたからここまで頑張れた、その指導でいまの自分があるなど、まるで熱烈なファンのような、それはそれは熱い文面で嘆願書を書いていた。
理事長らはそのような〝恋文〟を受けて無視する訳にもいかず、とりあえず鴻上は生かすことにした。
しかもそれだけではなく、幹部連中は鴻上に今後の高校の方針を委ねることにした。
生徒に慕われる先生が高校を立て直す。
このフレーズが欲しかった。
鴻上が校長になったのは翌年だった。異例の飛び級だった。ちなみに清水谷はその後、受験に失敗、浪人をしたはずだが、その後はわからない。鴻上はなぜ清水谷がこのような嘆願書を出したのか、結局理解できなかった。
鴻上は高校の方針を180度改めた。
進学よりも、生徒の自主性を育むことを重点とした、いわゆる〝普通〟の学校にした。
彼の情熱は進路指導から離れた。