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8.黒太子は素敵

「……珪己。どうしたの?」


 ふと顔を上げれば、向かい合う温忠が少し眉をひそめて珪己を見やっている。今は昼食の時間だ。


「何度も呼んだのに返事をしないし」

「……あ、すみません」


 龍崇への怒りで無意識に箸を強く握りしめていたようだ。手のひらがかすかにしびれている。朝から疲れることばかりだ。


「そういえば。どうして龍崇様は黒太子と呼ばれているんですか?」


 一瞬、『え、そんなことも知らないで官吏補やっているの?』とでも言いたげな表情を見せた温忠は、けれどすぐに好青年らしく誠実に答えた。


「お母上が市井の者であるらしくて、それが理由だそうだよ。嫡子である異母兄、皇帝陛下に対して、その色で帰順の意を示しているという説もあるね。いずれにせよ、黒太子が自ら望んで身に着けているそうだよ。黒太子という呼び方も、ご本人が気に入って用いているというくらいだから。でもって、そういう庶民派なところが黒太子の人望が厚い要因の一つなんだよね。……ところで、どうしてそんなに黒太子のことを知りたがるの?」


「え?」


 突然の追及に、咀嚼していたごはんが喉につまった。ごほごほと咳込み、あわててお茶で流して事なきを得る。苦しくて少し涙目になってしまった。


(……あからさまに挙動不審な態度だわ)


 まさか、黒太子と知り合いです、なんてことは言えない。ではどうして黒太子についてそんなに無知なんだ、そのくせどうして今更知りたがるんだと訊かれでもしたら、出会いの経緯から話さざるを得なくなるし、その出会いの元である初任務・女官時代のことまで暴露してしまう恐れがある。


 じっと珪己を見つめる温忠の瞳が、ただの好奇心から思慮深い色に変化していく気配を感じ――珪己は腹をくくった。


「……だって、黒太子って素敵じゃないですか」

「え?」


 ぽかんとする温忠に珪己は続けた。


「この前、黒太子が歩いているところを偶然見かけて、すっごくかっこいい人がいるなって思って。いいですよねー、黒太子。見ているだけでどきどきして幸せって感じ!」


 少し大げさに身をくねらせながら語りつつ、珪己は内心吐き気すら感じていた。


(くっ……。こんなこと、口が裂けても二度と言わないんだから)


 対する温忠は、とたんに目を細めてにかっと笑った。


「はは、珪己も年頃の女の子だったんだね。肉体労働ばっかりしているから、色恋沙汰には興味ないものだと思ってたよ。いやー、お兄さんはうれしいよ。まあ、黒太子に見初められるなんてことは天地がひっくり返ってもないだろうけど、それでも、好きな人を見るだけで幸せだっていう気持ちは分かるなあ」

「ですよねー。また会えるかもって思うとそれだけで宮城に来るのが楽しいんですー」


 調子を合わせつつ、実は珪己にはまだよく分からない心境である。恋にはとんと無縁だし、武殿の稽古場で最強の武芸者集団の稽古に胸をときめかせた経験しかないからだ。

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