8.面倒見のよい上司
仁威が何とも言えない気持ちで枢密院を出ると、目の前に濃紺の袍衣をまとう者が立ちふさがった。衝突する寸前で踏みとどまると――相手は楊珪己であった。
両手いっぱいに文箱を抱え、その顔は額すら半分も見えるかどうかといった具合ではあったが、それがさすがに今朝方会ったばかりの珪己であることは分かった。
どうしてここに、と思う間もなく文箱の向こうから声がした。
「すみません、そこの扉開けておいてもらえますか」
仁威が扉を押さえてやると、珪己は礼を言いながら仁威の前をするりと通りすぎた。その背中にはこれまた両手で抱えるほどの大きさの袋を背負っており、袋の形から、中には書物や文が大量に詰め込まれていることが見て取れた。袋のひもが珪己の右の肩にずっしりとくいこんでいる。
「……おい」
「はい?」
振り向いた珪己は文箱の合間から仁威を見てとると、ぱっと明るくほほ笑んだ。そのことが気配で伝わってきた。
対する仁威のほうは、珪己の顔をよく見れば難しい顔をせざるをえなかった。
「わ、袁隊長だ!」
仁威が目を細めると、珪己は即座に理解したようで「仁威、様」と言いにくそうに訂正した。
私的な知り合いを隊長呼びするのは不自然でよろしくないと、今朝がた、名前で呼ぶように命令したのだ。本当は呼び捨てか妥協してもさん付けだろうとの命を与えたのだが、隊長相手にそんな恐ろしいことはさすがにできないと丁重に固辞された経緯がある。気軽に口を聞けるからといって、珪己にとっての仁威はやはり第一に隊長なのだ。
「仁威様はどうしてここに?」
「枢密院に武官の俺がいるのはおかしなことではない。それより、お前こそどうしてここにいる? ここは礼部ではないぞ」
「もう、そんなことくらい分かってますって。今はお仕事中なんです」
「郵配物を配ることが、か?」
「そうですよ。私は見習いなんですから、これくらい当然なんです」
つん、と顔を横にそむける珪己に、仁威は懐から手ぬぐいを取り出すと、こちらに向く頬を無言でぬぐった。
「な、なんですか突然」
突如、加減を知らない力で頬を目いっぱいこすられ、当の珪己は嫌そうに身をすくませ逃げ腰となった。だが仁威は珪己の二の腕をつかむと、顔だけを仁威のほうに向けた珪己に近寄って覗き込み、無遠慮にその顎をつかんだ。そして、もう一方の頬を、鼻を、力強くぬぐっていった。
「わ、わわ」
珪己が身をよじると、仁威は逆に顎をつかむ力をより強めた。そうなると両手に荷を抱える珪己にはこれ以上抵抗するすべもなく……満足した仁威の手が降ろされたところで、ようやく一息ついた。
「いきなり何するんですか……!」
こすられた部分を赤くし、珪己は少し涙目になっている。
「見ろ」
仁威が手ぬぐいを珪己に示した。もとは白かったであろうその布は、いたるところが墨で塗られたかのように黒くなっている。
「あとで一度顔を洗っとけ。官吏補とはいえ宮城で働く者であれば身支度には留意しろ」
指摘され、当の珪己にも思い当たるところがあったようだった。唇をかみしめ、「すみません」と一言つぶやいた。
(まだ初日だというのに仕事に実直なのは娘も父と同じだな)
ふっと笑みがもれた。
すると珪己が口をとがらせた。
「ひどいです、私の顔を見て笑うなんて。いつもひどすぎですよ!」
仁威は手ぬぐいを懐にしまうと、珪己の頭をぽんと一つ叩いた。
「ああ、すまなかったな」
珪己は上目づかいに不審げに仁威を見上げていたが、やがてはっとした表情になった。
「あ、こんなことをしている場合じゃなかった。急がなくっちゃ。それでは失礼します」
「ああ」
仁威は一度珪己に背を向けて歩き出したが、一つ思い出して珪己のほうに振り返ると、その背中に声をかけた。
「おい、今夜は一人で帰れるか? 俺は急な仕事が入ってな」
珪己は仁威に振り返ることなく、
「大丈夫ですよー! 私はいつだって一人で大丈夫ですー!」
大声で返しながら駆け足で去って行った。




