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10.大切な人のために

 珪己が李家を退去する頃には、夜もとばりが降りている時分であった。比較的明るく輝く星が先走るようにちらほらとそのまたたきを見せている。


 ここ開陽は、夜、女人でも安心して出歩ける街ではあるが、侑生が楊家まで送り届けてくれると言うので珪己は素直に甘えることにした。元々暗い場所は得意ではない。


 二人、行き交う人々のざわめきの中、店から漏れる灯りを受けながら並んで歩く。


「侑生様。先ほど清照さんが言っていた『あの話』って一体どういうことですか?」

「あの話?」

「そうです。あの話です」


 あの話とは、皇帝が侑生の熱意に負けて云々のことを指している。隣を歩く侑生を見やると、視線に込めた意味に気づいたようで「……ああ」と困ったように口角を下げた。


「……すみません。陛下が珪己殿を東宮に召した話は止める間もなく宮城内に広まってしまったもので。元々あれは皆に広めるために作られた話でしたし、その翌日のあの事件については表ざたにしないよう手を尽くしたのですが、一夜で渦中の人となった珪己殿が後宮から姿を消したことは隠し切れぬまま口伝えで広まってしまいました。で、黒太子から、今回は陛下が私に負けたことにしておいてくれと頼まれまして。めっそうもないことではあったのですが、それほどまでにあの事件を隠匿したいようで……」


「それで私はまた利用されたというわけですか。……龍崇りゅうすう様ったら。今度会ったら絶対に文句を言ってやるんだから」


 珪己の最後の言葉はつぶやきであったため侑生の耳には入らなかった。皇帝の異母弟・龍崇と珪己の接点について知り得ていないのだから、もしも聞こえていたら仰天したことだろう。とはいえ、珪己の前半の言葉は聞こえたようで、侑生はますますしょげた顔になった。


(こういう時の侑生様って、なんだかかわいいのよね)


 普段はひどく大人びて優美で威厳のある方なのに。


 そんな侑生の言動の一つ一つが、知り合ったばかりとはいえ珪己にはおもしろく思えてしまう。自然と笑みが浮かんだその顔に、侑生は明らかにほっとしたようだった。それでも確認するように、「珪己殿、怒っていませんか」と問うてくるあたりが珪己にはさらにおもしろく思えて仕方ないのだ。


「ふふ、怒ってませんよ。命令だったのでしょう? 仕方ありません。それよりも、また私のために侑生様にご迷惑をおかけしてしまって。本当にすみません」


 開き直れば珪己にも特段困るようなことはない。なんといっても父親公認の噂であるし。それよりも、婚姻適齢期も半ばにあり、恋のない生活とは無縁そうな侑生にとって、珪己との嘘の関係の継続の方がどれほどの損害を与えているか。それくらい、恋愛にうとい珪己にもなんとなく想像がつく。


 しかし侑生は意外なほどあっさりと否定した。


「いえいえ、迷惑だなんて。そんなことはないですよ。ほかならぬ玄徳様の娘御のためですからね」


 この事件が終わったら嘘の恋をやめて本当の恋をしろ、そう侑生に言った玄徳だが、今回の件は不承不承受け入れている。そして、すまないとも言っていた。


 だから、侑生はそれを免罪符にして枢密院で働き続けている。だから全然迷惑などしていない。それどころか、珪己にはただ感謝するばかりだ。


 珪己が心底感心したように言った。


「父のためにそこまでしてくださるなんて、侑生様って本当に父のことが好きなんですね」

「はい、敬愛しております」


 断言する侑生に、珪己はとうとうこらえきれずに噴き出した。


「だから侑生様には恋人がいないのですね」


 まるで玄徳のような物言いだと、今度は侑生が目を丸くする番であった。



 *



 その日、夜だというのに後宮には珍しく皇帝・趙英龍の姿があった。


 英龍は先ほどまで、淑妃であり幼馴染でもあるれいの元を訪れていた。帰り際、麗に「菊花きっかの寝顔って本当に可愛いのよ」と、顔を見ていくように勧められたのである。


 そして今、飽かずに娘の寝顔を見つめている。


(……寝顔というものはいつまで見ていても飽きないな)


 ほんの少し唇を尖らせているのも、小さく開いた口から見える舌も、なんとも可愛い。


(こんなに可愛いのに、余に似ているというのが不思議だ)


 閉じられたその瞳のまなじりはややつり上っており、長いまつげがきれいに頬の上に影を落としている。鏡で見る自分の特徴が菊花の上に一つ発見できるたびに、こそばゆい気持ちになる。この透き通るような命に自分が反映されていることが、申し訳ないような、誇らしいような不思議な気持ちになる。


(この頬など、上等な餅のようにふくらんでいるではないか)

(それに触るとすべすべとしてなんとも心地いい)


 親でなければ、なんとも問題のある発想ばかりが浮かぶ。


 と、頬に異物を感じたのだろう、不快気に菊花の眉間にしわが寄った。うう、とうなりがら、菊花は英龍に背を向け――そしてまた深い息継ぎが聞こえだした。


「おお、危なかった」


 一人嘆息する。

 でも寝息までもが愛らしい。


「……毎晩でも見たいものだな」


 寂しげにつぶやく英龍の声が、灯り一つの薄暗い部屋に吸い込まれ、いずこかに溶けていった。


 王美人の件以来、英龍は少しの暇をみつけては後宮に通っている。もちろん、麗と菊花に会うためだ。


 ただ、夜に訪れることはめったにない。


 英龍は今、政局的にも個人的にも、新しい妃など不要だと思っている。だが、一人の女官を愛し東宮に召した件は周知の事実となっている。なので、王美人の件が落ち着き始めれば、後宮に妃を入れようとする輩が増えるのは目に見えていた。


 なので、英龍は『相も変わらず夜も忙しくやはり妃どころではない皇帝』を演じ続けている。まるであの女官に執着した自分が一時の夢まぼろしであったかのように。今夜も後宮を出れば、昇龍殿の自身の執務室に戻り、そこに置かれた貧素な寝台で夜を明かすつもりだ。寝台の硬さには慣れているので別段問題はない。


 ――ただ。


 こうやって夜にしか見られない宝の価値の一つに気づけば、一人寝の夜が辛くなりそうで……怖い。


 知らなければよかったのか。ふとそう思うこともある。


 寝台のほうに目をやれば、菊花の小さな肩や背中が呼吸に合わせてゆっくりと上下していた。体は小さいのに、そこから放たれるにおい立つような生気はなんとも力強い。


 英龍は小さく首を振った。


(知らなくてよかったなんてことはない)


 たとえ毎日毎晩会えなくても。

 思うだけで胸を温かくする存在など、麗と菊花、この二人しかいない。


 二人と生きていくためであれば、一人寝ることなど雑作もないことだ。どんなことでも不可能には思えない力がみなぎり、この胸を熱くする。


 いつか二人のために善と悪のいずれかを選ばなくてはならない日が来ないように、今は皇帝として善処するのみだ。

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