曇天の騎士 ①
私の大切な友人の話をしよう。私にとっては大切でも、君たちにとっては大切ではない男の話だ。
人によっては不快になるかもしれないし、涙を流したり、ある種の義を感じることもあるかもしれないが、私にとってその男は掛け替えのない友人というだけであり、そこにはその種の特別な感情はなかった。
だが、私は君たちがそういう感情を持つことをよく知っている。
だからなにを思っても私は気にせず、君たちに解釈を一任するから、なにを思ってもなにを感じても良い。
私にとって大事なのは、私の大切な友人がいたのだということ、その一点を君たちに伝えることなのだ。
そしてその男がなにを成そうとしたのか、なにを求めていたのか、なにと戦っていたのかを覚えておいて欲しい。
もう何十年も前の話になる。
誰もが忘れて古ぼけた時代だと嘲る時代の話だ。
まだ人間が人間を完全には効率的に殺すことができなかった時代の話だ。
友人の名はベルンハルト・シュレーゲル。
ドイツ空軍第11戦闘航空団所属の士官であり、26歳の若さで1945年曇天の空に散った。
―――
薄闇を切り裂いて朝日が昇る光景は誰しもが神聖さを抱いてきた普遍的なものだが、1945年のドイツにおいてそれは夜間爆撃の惨状を曝け出すスポットライトのようなものでしかなかった。
そのスポットライトは、目立ちたがり屋のアメリカ陸軍航空隊第8航空軍の銀翼たちがやって来る前触れでもあった。
夜中、マーリンエンジンの轟音を響かせてやって来るイギリス重爆編隊とその護衛であるモスキート夜間戦闘機は、人々の安眠と命を奪っていく。ドイツ空軍の夜間戦闘機部隊は果敢に立ち向かうが、Bf110やJu88といった鈍重な機体ではモスキートと対等に渡り合うことは至難の業であり、そのような芸当が出来る搭乗員の備蓄はドイツ空軍にもはや残されてはいなかった。
機上レーダーのイタチごっこも戦況と同じように劣勢となり、宣伝ばかりが先んずる新型機体開発計画はその目的を失いつつある。
万一お披露目となり試験飛行をしたところで、ドイツ空軍にとってもはや安全な空域など存在せず、西はイギリス、アメリカ、自由フランス、自由ポーランド、その他連合国が、東は社会主義の帝国ソヴィエトがドイツを押し潰さんとする万力のように迫りつつある。
西方でも東方でも川を渡河されぬように踏ん張ってはいるが、それもいつまで持つか分かったものではない。
燃料は枯渇し、人材は死に絶え、安然は消え去り、惨めな寒さと死と空腹がドイツ全土を覆っていた。
ベルリンの地下深くは、また別かもしれないが。
少なくとも、彼の知る範囲において敗北の冷たさがドイツを覆っていることは確かだった
敗北主義者として告発されるやもしれぬ事を何度も繰り返し考え、答えを導き出してもなお、ベルンハルト・シュレーゲルは煙草を吸いながら、乗機であるBf109G-6の垂直尾翼の一点を見つめている。
斑模様にグレー、ホワイトが交じり合い、識別用の黄色のラインが描かれたBf109G-6はその滑らかな肢体を草原に横たえている。
まるでベッドの上に横たわった裸婦のようになめかましく、それでいて剣のような剣呑さを併せ持つこの機体も、内面は合成獣のように醜いものだ。数のあるG型から共食い同然で掻き集められたパーツは、いつ限界を迎えるやら知れぬものなのだ。
整備中隊はあちこちにパーツを探し回ってメッサーシュミット社を糾弾し批難し、どこからかパーツを調達するので忙しい。
それでもBf109G-6は優美であり妖艶であり、剣呑であり続けた。
その中にあってその垂直尾翼の一点だけが、乱雑にグレーの塗料で塗りたくられている。
そこにはドイツ空軍の航空機であれば大抵よく描かれている鉤十字があったのだが、今はない。
その鉤十字も塗料の下で窒息していることだろう。街からいなくなったユダヤ人と同じように。
「少尉殿、C3燃料の手配ができたそうです」
整備中隊の古参がシュレーゲルを呼ぶと、彼は煙草を吐き捨てブーツで踏み消した。
ここはドイツ本土の外れも外れ。森を切り開いて出来た開けた野原。
そこには急ごしらえの野戦滑走路が延び、周囲には偽装ネットを被せられたBf109が駐機していた。
東部戦線でも似たような光景は見てきていたが、ここの偽装の度合いは異常でどれだけドイツ空軍がヤーボを恐れているかが透けて見えるようだ。
もっとも、ヤーボの目を欺けても爆撃機編隊はその地区一帯ごと野戦滑走路やBf109を吹き飛ばすのだから、意味があるのかどうかは疑わしかった。
「そうか。3センチの手配はできたか?」
掠れた声で、シュレーゲルは言った。
古参の整備兵は口元に笑みを浮かべて白い歯を見せる。
シュレーゲルは肩透かしを食らったような顔をした後、カナルヤッケのポケットから煙草を取り出すと、一本整備兵に投げ渡した。手に入りっこないと思っていた。
「少尉のG-6に満載できる程度には都合できました。他のG-6はみんな2センチを使ってますから、都合するのは苦労しました」
「やってくれたな。で、点火プラグの方はどうだった?」
「あともうちょいで手に入りそうです」
「まったく……、どこから手に入れようとしてるんだか」
「それは聞かないほうがよろしいかと」
煙草に火をつけながら、整備兵は真顔で言った。
それがどういう意味かシュレーゲルは分からなかったが、とりあえず聞かぬ方がいいのだと判断し、ただ肩を竦めて見せる。
連日昼夜を問わぬ戦略爆撃と搭載弾薬を投棄しなければならない規定でもなるのかと疑いたくなるような機銃掃射は、ドイツ空軍の燃料輸送網、生成施設を完膚なきまでに破壊し、今や真新しい機体や真新しいパイロットがいたところで飛べるだけの燃料がないという有様だった。
もし飛べたとしても古参の野兎ですら命の保障のない空を、飛行時間数十時間の大人にもなり切っていない様な男たちが飛べばどうなるか、シュレーゲルは嫌というほど知っている。
そういう手合いに限ってあのゲーリングの言葉を真に受けるものだから、弾を打ち切ると体当たりする敵を探してきょろきょろと無警戒に爆撃機を探すのだ。
そして上空から迫るあの銀翼、P-51Dマスタングの12.7mmの掃射を喰らって機体ごと穴だらけになって墜ちる。
勝利者は着陸前にエルロンロールをうって勝利を誇示するだろう。五年前のドイツ空軍の腕利き達のように。
古傷のように閉じてしまったかつての栄光の日々の思い出から目を背け、シュレーゲルは紫煙を吸い込む。
総統閣下はこの煙草が嫌いだそうだが、シュレーゲルにはいまいちよく分からなかった。
なぜ彼が煙草を嫌うのか。酒も肉も嫌うという。では、彼はいったいなにを楽しみに生きているのか。
女癖も悪くはないのだ。では、彼は同性愛者かといえば、そうではない。
むしろ総統閣下はそれらを軽蔑している。
では、なにを楽しんで彼は生きているのか?
シュレーゲルには分からず仕舞いだ。
なので、この考えにも彼は目を背け、一番近しい者に目を向けた。
黒い男達と呼ばれる整備兵たちは、どんな状況でもよく働いていることをシュレーゲルはよく知っている。
白髪交じりの坊主頭を撫で付けながら煙草を吸うこの古参整備兵も、良い仕事をする。
なぜ分かるのか? それはこの整備兵がシュレーゲルのBf109G-6の機付長だからだ。
シュレーゲルがこの砲船に乗り始めたのが1943年の夏頃。
それからかれこれ三機を失っている。防護機銃による損傷により一機、着陸時の事故により一機、そして新任整備兵のミスにより一機が丸焼けに。
もう少しでシュレーゲルはあの燃え盛る愛機と共に火葬されるところだったが、寸でのところでこの古参整備兵が助け出してくれたのだ。
その際に彼は髪を少々失ったため、坊主頭になった。
彼は「腕利き一人と整備兵一人の髪なら誰もがあなたを選ぶでしょう。後者の毛根の先行きが暗そうならなおさらそうします」と失敗をしでかした新任の整備兵の肩を強めに叩きながら笑って言った。
「今ある点火プラグの数はどうなんだ?」
「常備定数には届きませんが確保できてます。少尉の機体には最優先で回してますから大丈夫です。マイヤー殿に知られたら大目玉でしょうが」
「あの太っ腹じゃ俺たち下々の確認なんてできやしないさ……」
そう言うとシュレーゲルはカナルヤッケのポケットから煙草を取り出し、火を点け、紫煙を吐く。
ゲーリング元帥のことを今更上辺だけの敬愛で語る意味などなく、今やあの太っ腹の男はただのマイヤーだった。
あの男にあるのはBf109G-6の塗装のような、上辺だけの騎士道精神であり、その心の中には人間の野蛮な欲望が、野心が渦巻き、敵味方の判別すら失ってただ怒鳴り散らし、自らの保身に駆け回る無様な白い豚と相変わらない。
最早敬愛や尊敬、先の大戦のエースパイロットという華々しい無形のものは彼から剥がれ落ち、今や彼の所持する華々しいものといえば、趣味の悪い金色のP-08ルガーとあの白い軍服、そして元帥杖だけだ。
時代は1944年12月、新たな年月の到来がすぐそこまで迫り、東方では赤い津波がオーデル・ナイセ川へ、そして西側では連合国陸軍がライン川へと迫っていた。
―――
1940年、まだBf109が空力的に無駄の多いE型だった頃、シュレーゲルはフランス上空で初撃墜を上げた。
その頃から彼は第54戦闘航空団『グリュンヘルツ』の所属で、今と同じようにより大口径の銃火器に執着する大砲屋だった。
その時にはBf109-E4に描き込む自分専用のマークを思案して、イギリス人やフランス人との稚拙な空戦技術を鼻で笑ったこともあったが、時折撃墜される戦友たちを見ていくとそのような下賎な気持ちは遠のいていった。
腕を撃ち抜かれて脱出しようにもできないパイロットもいた。
その最期の瞬間までシュレーゲルは見守り、そして彼が「運が悪かった」と言い残してフランスのどことも知れぬ土地に墜落して機体と一緒にぺしゃんこになったのも見た。
不思議と復讐心は湧かず、そのままシュレーゲルはBf109E-4についての理解を、そして敵側の戦闘機の性能への理解を深めていった。
フランスが陥落しヴィシー・フランスと自由フランスに引き裂かれた頃になると、シュレーゲルは機体の垂直尾翼に五機目のスコアを描き込んでいた。
シュレーゲルは1919年、西部戦線で左腕を失くした大学講師の父と従軍看護士をしていた母の子供として生を受けた。
生まれはヘッセン州のダルムシュタットだった。
程なくして戦後の混乱期に入り世界恐慌が直撃し、シュレーゲルが生まれた頃、ドイツは列強の名を冠した国とは思えぬ貧困に喘ぎ、ダルムシュタットもまた同様だった。
しかし、シュレーゲルは幼い頃、人々がファシズムに反対して行進したりしているのを見たことがあった。
だが無駄だった。1933年、アドルフ・ヒトラーが政権を握ると、当時十四歳だったシュレーゲルはフリードリヒ・エーバート広場がホルスト・ヴェッセル公園に、ルイーゼン広場はアドルフ・ヒトラー広場になり、ファシズムのイデオロギーが故郷を染め上げていくのを呆然と見ていることしかできなかった。
そしてユダヤ人だ、共和主義者だという理由で何組もの家族が親衛隊(SS)や突撃隊(SA)に連行され、あるいはその場でリンチされ痛めつけられているのも見ていた。
父はそういった暴力的な事柄はすべて戦争だと既定し、諦めている人だったが、母はそうではなかった。
母はシュレーゲルに説き続けた。それは大まかに言えばキリスト教の教義にも似ていた。
そして母は「父のように表面だけでもファシストの振りをしなさい」ときつく言いつけた。
シュレーゲルの空への渇望は彼が少年の頃から存在していた。
飛行機やグライダーを見ていつかこれに乗るんだと強く抱き、読めもしないのに海外の航空雑誌を父にねだって酷くぶたれたこともあった。
しばらくしてグライダークラブで滑空士免許を取ると、ヒットラー・ユーゲントのグライダーグループで飛行のひの字すら知らない見栄っ張りたちに、動力飛行よりも滑空というのは楽しいものだと教えたり、文字通り叩き込んだりする日々になった。
グライダー乗りとしてなら、彼は既に一級の飛行機野郎だった。
ギムナジウムを卒業し、空軍に入隊して訓練学校を出、錬成部隊に入ってからは、ファシストとして振る舞う必要もないかった。ここには精力に満ち満ちた仲間がいた。
戦友が、上官がいた。
全力を尽くして競い合う、敵がいた。
ドッグファイトがあり、一方的な空戦があり、腕利きとの熱い決闘があった。
空軍を磨り潰したあの恐ろしい英国本土の戦いでは、忌々しいホーカー・ハリケーン――不思議とそれはフランスで戦ったハリケーンよりもよく動いているように思えた――に撃墜され、ドーバー海峡で海水浴を四十分ほど続けたこともあったが、それでも救難捜索隊は辛抱強くシュレーゲルを探し出し、救い出した。
あの水上機乗りたちにシュレーゲルは今でも感謝している。彼らがいなければ今の自分は恐らく存在していなかったに違いない。
だが、ゲーリングやヒトラーはそんな命がけの戦いになど興味はなかったのだ。
彼らが欲しかったのはイギリス人の血と領土であり、玉座から王を引き摺り下ろして屈服させることであり、その願望というのはローマ帝国の領土を荒らしまわっていた我らが祖先ゲルマン民族の頃となんら変わりないものだったのだから。
―――
東部戦線のエースパイロットも、ここ西部戦線の高高度を飛ぶ米陸軍航空隊第八軍の四発重爆撃機B-17『フライング・フォートレス』の重弾幕航空戦術を前にしては素人同然だった。
低中高度で単発、もしくは双発機を相手とすることの多い東部戦線では通用した戦術も、ここ西部戦線の四発重爆撃機には通用しない。
慣れ親しんだ同軸機関砲のマウザーMG151/20一門と7.92mm機関銃だけでは、あの重爆連合の槍衾を突き破れるだけであり、その中で暴れまわるには火力が足りない。
実質、あの空飛ぶ要塞――ゲッベルスは空飛ぶ棺桶と呼ぶが、十数丁の12.7mmで武装した装甲化された棺桶などかつてあっただろうか?――に通用するのは2センチ機関砲のみであり、薄殻榴弾であっても撃墜するのには十発ほど撃ち込まなければならないのだ。
それを、重爆同士が防護機関銃で相互支援しあう重弾幕に晒されながら行わなければならない。
一瞬でも撃墜という名誉に取り付かれて敵の真後ろにつけてしまったら最後、死に物狂いになった敵機関銃手が12.7mmで機体ごとパイロットを蜂の巣にする。
そうして東部戦線のエースは西部の空に散っていく。
五十機だろうが、百機だろうが、それは同じだった。
シュレーゲルが知る中でこうした戦いの中で生き残り、あの忌々しいP-51Dマスタングすらを撃墜した東部戦線のエースは、かつての第11戦闘航空団戦闘航空団司令ヘルマン・グラーフ大佐くらいなものだ。
彼は不運な衝突事故で負傷し、今は古巣の東部戦線にいるというが。
「今夜もまた眠れそうにない」
飛行場近くの接収した民家の中で、ベルンハルト・シュレーゲルは窓際に立って空襲警報のけたたましいサイレンを聞きながら夜空を見上げる。
サーチライト回廊に高射砲群の打ち上げた砲弾が炸裂し、大羽根を広げた爆撃機共が腹に溜め込んだ爆弾を投下し、周囲を警戒するモスキートたちが夜間戦闘機を返り討ちにし、暇を見つけては手当たり次第に地上を機関銃で掃射していく。
制空権などあったものではない。
ここはドイツの空だというのに、ドイツ空軍の空ではないのだ。
騎士然として華々しく綺麗に死ぬことすら許されない戦場がここにある。
『グリュンヘルツ』で味わった東部戦線にも飛行士同士の絆は敵味方に微かながらにも存在していたというのに、ここでは誰もがそんな余裕もなく相手を殺し、殺され、地上へと墜死する。
不時着した敵機に機関銃掃射を食らわすP-51Dマスタングなどはもはや見慣れた存在で、ベルンハルトはそれで何人かの腕利きが地面に突っ伏したまま動かなくなるのを目にしていた。
ここにはもう誇りも名誉も存在しない。
ただの殺し合い、ただの戦争が空を侵食し始めている。
いずれそれは空を、そして世界を飲み込むだろう。
「いつものことだ。どうせもう慣れただろう」
詰まらなそうな口調で言うのは、椅子に座ってボトルを弄んでいるギュンター・アイク曹長だ。
彼はシュレーゲルの列機でもある。着崩したジャケットはドイツ空軍正規のものではなく、どこからか鹵獲してきたアメリカ軍のA-2フライトジャケットで、薄くなった頭髪を隠すように略帽を頭に乗っけている。
シュレーゲルも背はあまり高くない方だが、アイクはさらに背が低く、顔つきはどこかチャップリンめいて見えた。
そのうち、あの顔だけでゲシュタポが検挙するのではないかと開戦からこのかたずっと言われているそうだが、幸運にしてゲシュタポはこのドイツ産空飛ぶチャップリンにはあまり関心を持っていないらしい。
アイクはどこからか持ち出してきたブランデーのボトルをラッパ飲みすると、アルコール臭い息を吐き出し、口元を歪めて天上を見上げた。
「吹っ飛ぶときは一瞬だ。12.7mmでスイスチーズみたいにされるよりはずっと良い。一方的にやられるむかつきは昼間に晴らすさ」
「その前に死なないと良いがな。……昼間も昼間で雛たちが満足に飛べれば、もっと効率的な攻撃方法を実践できるんだが」
「何を言っても航空学校は増えないし、錬度は上がらないよ少尉」
なにかを嘲るようにアイクは笑った。
なにを嘲るにしてもドイツではそれを反逆罪と言う狂信者たちがいたが、シュレーゲルはその狂信からもっとも遠い僻地にいる男だ。
なにも言わずに彼のボトルを引っ手繰ると、僅かに残ったその中身を一気に飲み干し、空になったそれを突き返した。
アイクは不機嫌そうに眉間に皺を寄せたが、少し思い悩んだ後溜息を吐き出し、禿げ上がった頭頂部を略帽でごしごし擦りながら言った。
「少尉、新人たちの大半は雲の層すら突破できない。今更何を言っても無駄なんだ」
そう怒るなよと、アイクは言外に告げながらボトルを両手で転がし、唇を噛む。
雲海の中で着氷しその重みで失速、というのならまだマシな方だった。
雲中で失速し錐揉みに入ったBf109のコクピットは、予想以上の困難と絶望が待ち構えている。
狂ったように動き回る計器に、周囲は灰黒い雲で覆われ、どこが上でどこが下なのか、どこが空でどこが地上なのか分からなくなる。空間失調症だ。
そんな中、たった一人で冷静に錐揉みから回復できる新米飛行士たちは極僅かで、その極僅かな飛行士ですら野戦滑走路の凹凸に主脚を取られて、最悪死んでしまう。
きちんと育つ事もなく、雛たちは次々に死んでは生まれ補充されていた。
飛行時間が百時間にも満たない多くの若者たちが、敵機との遭遇ではなく事故によって失われていく。
悪循環は巡りに巡り、最早修正しようのないところまで行き着いていた。
まるで燃えながらプロペラを回すエンジンのようだ。
「……そうだな」
申し訳なさそうに呟くと、シュレーゲルは深呼吸をしてソファに横になり、目を閉じた。
あちこちで爆音が響き地面が揺れていた。夜間戦闘機たちが空を飛びまわり、爆撃機編隊の間で闇夜の中を戦っている。
だが、シュレーゲルたちにはなにもできない。Bf109は夜間戦闘機ではないのだ。
そうするだけのスペースも時間もない。
しばらくして、アイクも椅子に座ったまま目を閉じた。
しかし二人は朝まで何度か転寝した程度で、本格的な眠りはついに一度も取ることができなかった。
―――