第46話【続・ヒジリ】
椿山学園高等部美術科では、夏期補修中の金曜日は1週間かけた静物デッサンの講評が行われる。その後1時間、一般課程の科目の補習を行い、昼過ぎに終了する。その後昼食を取り、午後から部活のあるものはそちらへ向かうことになる。
昼から部活に向かう予定も、どこかへ出かける予定もないエイジとレイ、そして市ヶ谷は昼食を終えた後も、通称芸術学部の学食で窓際の丸テーブルを囲みながら、馬鹿話を続けていた。
はずだったのだが、突然、市ヶ谷がまじめな顔でぼやく。
「今日の講評さ、カナタのヤツ、べた褒めだったな。今回、自信あったのにな、オレは」
講評の際、明確に順位を決めることはない。しかし、先生のほめ方、取り上げ方、順番で生徒達は自分のクラス内の大体の位置づけを知ることになる。特に、実技の際は2クラス合同で行われるから、人によっては必死になる。
大概のことは器用にこなすカナタが、上位に来るのはいつものことだった。
「別に受験が近いわけでもないし、そんな気にするこたないんでない?市ヶ谷のだって、誉められてたし」
だから良いじゃないかと言わんばかりのレイ。今回自分はさんざんだったのに、と逆にぼやく。
「いや、まあ、そうなんだけど。何というか……ずるいよな。オレだって頑張ってんのに、あんな飄々としてるカナタが、勉強も出来て運動も出来て、絵もうまいって?あいつが努力してる姿とか、見たことないし?どうよ、エイジ?」
カナタのことについて、あまり語りたくはなかった。けれど仕方なくといった感じで、エイジは向かいに座る市ヶ谷をちらっと見た。
「その件に関しては、全く否定出来んけど。でも、こないだの中間テストの時とか、ノートとか、過去問とか作ってくれてたし、勉強はしてるんじゃねえのかな?さすがに何もしてないってことはないだろうよ」
「何で憶測みたいな言い方なんだ。同じ部屋なのに」
「……いや、見たことないから。ノートも過去問も、いつ作ったのか判らん」
確かに彼は、標準よりも出来は良い。何事も余裕で、飄々とこなしているようにも見える。けれど、突出して良いということはなかったし、だからこそ今回のようにたまたま明らかに「1番」になってしまうと目立ってしまう。
「何つーか、素直にすげえと言いづらいって言うか……。そんでもって背も高くて、顔もそこそこで、彼女は超可愛いってか?」
「いや、あの二人はつき合ってないって。ホントに。初々しくて恥ずかしくなるけど」
そこか。と思ったレイは、思わず嘲笑してしまいそうになったが、隣で無言のままのエイジの様子を伺って、何とか堪えた。
「……マドイのこと?」
訝しげな目で市ヶ谷を見るエイジに、二人して引いてしまった。
「……えと……あれ?ええと……レイ……何かこの人、怖いんですけど。オレ、地雷踏んだ?」
「いや、多分……踏んでないと思うけど……。だって、市ヶ谷じゃあるまいし、エイジはマドイさんのことは、何か妹みたいで女として見れないって言ってたし」
「オレじゃあるまいし、って!?つーか地雷、そこ?!」
びくつく二人に、笑い出すエイジ。その笑みは、悪意に満ちていた。
「なに?!怖すぎ!エイジ!!」
「何だよ、市ヶ谷も。気にしすぎじゃねえの?マドイのこと気に入ったんなら、カナタのことなんか気にしなけりゃ良いのに。取ったもん勝ちだろ?大体、今日だって、カナタはマドイと二人じゃなくて、うちの兄貴と3人で会うんだぞ?」
「何それ、マジで?!」
「マドイもカナタも言ってたから。ホントだし?」
市ヶ谷は必死でエイジの兄の顔を思い出そうとするが、黒ずくめなことと、カメラをまわしていたことしか思い出せない。彼の顔を真正面から見た記憶はなかった。妙なインパクトはあるのに、姿が思い出せない。
「エイジの兄貴って、どんなんだっけ?カメラをまわしてたっつーことと、お前とガキみたいなケンカをしてたことくらいしか覚えてねえ。弟はこんなにでかくて存在感あんのに」
「オレのことはほっとけ。あのバカ兄貴と比べんな」
「なんかすげえの?エイジの兄貴て」
エイジに聞いても無駄と踏んだのか、市ヶ谷はレイを見ながらそう聞いた。
「……スゴイって?」
「優秀な遺伝子を欲するのは、女の本能らしいぞ?」
「……真面目に彼女作れば?意味判んない、いちゃもんつけてないで」
「うっせーな。お前が言うな。なんか無いのか」
どうやら引きそうにないので、考えてる振りをするレイ。その様子をエイジが黙って伺っているのが少しだけ怖かった。
「優秀な部分……。うーん……エイジの兄ちゃん、中緒凪と同じ大学部。……くらい?」
「それ、すげーじゃん!」
ナギがこの学園に来た頃、市ヶ谷が彼の作品を見たという話を思い出したので、大学の話を振ってみただけだったのだが、予想以上の食いつきにレイが驚いていた。
「同キャラバカ二人って感じだけど。学歴がなんぼのもんだ?」
冷たく言い放ったのは、弟であった。
「あれ?だからマドイのヤツ、妙に懐いたのか?あのバカ兄貴に」
「懐いた、って犬じゃあるまいし。そんなんだっけ?マドイさんとエイジの兄貴?」
「どうだろ。そんな感じ?」
笑い飛ばしたエイジに、市ヶ谷が不愉快な顔を見せた。
「なんだよそれ。ブラコン?そんなの」
「そんなのっつーなら、お前も行けば? カナタ自身が気にしなければいいって言ってたんだ。ただ、敵視はされるかもしれないけど」
「なんだそれ。カナタもこええし」
めんどくせえ。なんて言う思いと、悔しさが、市ヶ谷の中で混じる。そんなものを乗り越えてまで、手を出したくはなかった。
学園都市の西の外れにある私鉄の駅前に、カナタとマドイは二人で並んでいた。15時という時間せいなのか、この都市に来る者も出る者もいないからなのか、駅にはほとんど人がいなかった。二人も滅多に駅に来ることなど無かったのだが、エイイチロウが指定したのだから仕方がなかった。
「マドイの私服姿、初めて見た。……おしゃれだ」
なんと言って誉めて良いか判らず、思わず出た言葉に照れていた。そのせいか、彼女も照れたように俯いていたことが、カナタにとっては新鮮なことも相まって、いつもよりも可愛らしく見えていた。微かに、「彼女らしくない」とも思っていたけれど。
今まで授業が終わった後に、お互い制服のままでしか会ったことがなかったから。そう思うことにした。
「ヒジリが……貸してくれたの。兄さんと同じとこ、好きなの」
若干スカートが短い様に見えたが、彼女が控えめに呟いた台詞で理由が判った。妹と15センチ近く身長が違うのだから、仕方がない。
「なら、ホントはマドイはヒジリさんとは違う感じなんだ?」
「うん。でも、ヒジリが選んでくれたりする。カナタは、エイジと服を買いに行ったりしないの?随分違うのね」
そう言ったマドイの目が、自分とエイジを比較してるような気がして恥ずかしかった。彼が異常なまでに身なりに気を使うことに比べて、自分が異常なまでに身なりに気を使わないことはよく判っていた。他の誰にどのように思われても良いけれど、彼女にだけは少しだけ見栄を張りたくて、後悔すると共に、言い訳を始めた。
「たまについてくけど……あいつ、服好きだからか、オレのことをよく、無頓着すぎるって怒るし」
このままエイイチロウが来なければいいのに。そう思っていたら、見慣れた黒ずくめの男が、自転車置き場の方角から歩いてきた。いつものように首からカメラをぶら下げ、ずた袋のようなバッグを担いで。
「マドイちゃん、兄妹で同じ趣味なんだ。可愛いね」
(遅れてきたくせに。自分は常に黒ずくめのくせに。しかも何げに誉めた!?)
いつもの笑顔で、あっさりそう言ったエイイチロウに、カナタは心の中でしかつっこめなかった。事実を認めるのも嫌だったし、プライドを傷つけるのも辛い。
「あ、判るんですか?」
「うん。判りやすいしね。そういや、田所さんも同じ所の着てたし?何、みんなしてお揃い?好きだねえ?」
「よく見てますよね。目を合わせないくせに」
「こう見えて、視界は広いわけよ。一言多いよ」
カナタは自分の観察力のなさと知識のなさを、責めることすら出来なかった。当然のように隣を並んで歩く二人の後ろに、必死でついていく。
電車に乗り、何とかマドイを間に挟んで座り、やっと一言だけ反撃できた。
「映画を見に行くのに、カメラはまずいんじゃないです?」
「まあ、何があるか判らんし」
カナタは嫌味のつもりで言ったのだが、エイイチロウは特に気にする風でもなく、カバンの中にカメラをしまった。その後もマドイとエイイチロウ、二人で話し続けるのを隣で眺め続ける羽目になった。
地下鉄に乗り換えた後もそれは続く。カナタの中で、エイイチロウに対する不愉快さばかりが膨らんでいく。その不満は、今池駅で降りたときに遠回しに爆発する。
「大体、なんで映画を見にわざわざ外に出るんですか?学園の近くにもありますよ?」
「だって、椿山の映画館じゃやってないし。あんまり『外』って言うなよ?ナギ何かは嫌がりそうだけどな、その言い方」
全くもってその通りだったので、カナタは何も言えなくなってしまった。悔しいけれど、彼はカナタの憧れる男と同じ様なことを言う。ただ、ニュアンスの違いか、立場の違いか、カナタの心にはなかなか刺さらないけれど。
「まあ、そんなに不機嫌な顔しなくても。二人が一緒に来たいって言ったんだろ?」
「別に不機嫌じゃないですけど。元々こういう顔ですから」
「あはは。いいねいいね、そういうの」
「……何がですか」
何をしても喜ばれてしまうことすら、不愉快だった。
「今日は何を見るんですか?」
「チェコのアニメ。これ、DM。マドイちゃんは映画とか見る?」
「義兄さんが実家にいたころは、一緒に見に行ってたけど、こっちに来てからはあんまりかな……?ヒジリが借りてくるのを一緒に見るくらい」
DMを見ながら並んで歩く二人を、後ろから恨めしそうに眺めるカナタ。マドイがエイイチロウと一緒にいたいがためにここにいるのは明らかだった。そのわりに、カナタがついていくと言った時、彼女は簡単に了承したけれど。だから彼は、未だ大丈夫だと、確信してついてきた。それなのに。端から見れば、寄り添うようにエスカレーターに乗る二人の後ろからついていくしかない。ついこの間まで、同じように彼女に寄り添っていたような気がするのに。
マドイの笑顔を見るたびに、あの時の彼女の感触が薄らいでいくような気がしていた。
映画館に入り、彼女を挟んで3人で並ぶ。カナタは暗闇に乗じて彼女の手に触れたけれど、彼女は何も言わなかった。それに安心したことと、エイイチロウの選んだ映画が思った以上に面白くて、彼女の手を握ったまま映画に見入ってしまっていた。
上映が終わり、次の回も引き続き見ようと言いだしたエイイチロウを、マドイとカナタは無理矢理引っ張り、駅前にあるミスドに連れ込んだ。
彼はパンフ片手に、カナタ達に今日の映像の中でどれが良かったか、指さしながら語り始める。
「オレさあ、これ、良かったと思うのね。コマ撮りしてるとは思えないくらい、繊細な動きって言うかさ。絵本ぽいというか、それを再現するような……」
「お兄さんのことだから、今回見たヒューマンな感じのじゃなくて、こっちの風刺的な方を選ぶかと思ってました」
不思議そうな顔で、マドイがカナタとエイイチロウを交互に眺めた。
「あー。嫌いじゃないね。オレの作ったヤツ、ちゃんと見てくれたんだ。嬉しいね。ただ、オレは綺麗なものを残したいとは思ってるよ。純粋さ故の美しさと言うものは確かに存在するし、それに嫉妬する人の欲望もまた美しいものとして表現したいし」
「ですよね。確かに作ってるムービーって、ファンタジックなものもあるけど、何というか、それぞれがアイロニー的に対応しているシリーズものもいくつかあったから。可愛いとか何とか言ってこういうのを見に来る姿の方が不思議ですよ」
「だから次の回も見たかったんだよ」
「あの……」
話に入ろうとするマドイを置いてけぼりにして、二人で今日のアニメの話から、映画の評論などに話が飛びながらも盛り上がっている。それをさらに不思議そうな顔でマドイは見つめた。エイイチロウの口から出るマドイの知らない言葉も、いつになく情熱的なカナタの言葉も、彼女にとっては新鮮だったし、嫌ではなかった。
陽が暮れ、3人で再び地下鉄で椿山へ戻る間も、カナタとエイイチロウの話は終わらない。マドイは二人の会話を聞きながら、知らない二人を見ているような気分になってきていた。
「カナタって、映像系に行きたいのか?」
「そう言うわけじゃないですけど。未だ……」
何も決めてないし、決まってない。実は美術科に入ったことすら、成り行きだったとは、マドイには言えてもエイイチロウには言えなかった。
彼女は、カナタが思う「弱さ」すら受け入れてくれるけれど、エイイチロウは違うだろうと、判断する。
「いや、よく知ってるし、見てるからさ。自分で見たもんとか、つくるもんとか言葉に出るぞ?」
「エイジがホントに色々見るんですよ。ジャンルも偏ってるけど幅広いし。オレがたまに自分で借りてくると、『そんなヤツ』みたいな感じで、むしろ批判されますし」
「いつからそんなに偏屈になったんだ、あの愚弟は」
確実にエイイチロウのせいだろう、と突っ込もうとしたとき、終点である椿山学園前駅に到着のアナウンスが流れた。
駅前のロータリーに出たときには、既に暗くなっていた。
「悪かったな、二人とも。遅くなって。寮に帰宅時間延長の申請してきた?」
「オレはしてきましたけど……」
マドイも黙って頷いたので、エイイチロウは安心して笑顔を見せる。
「もう暗いから、マドイちゃんを送ってくよ」
「は……」
「大丈夫ですよ。オレ、同じ方向ですから。行こうか」
マドイの返事を遮り、カナタはマドイの肩を抱いてバス停の方へ誘導する。
エイイチロウは二人を苦笑いで見送るしかなかった。
「ずるいな、カナタばっかり。楽しそうにして」
二人並んでバスに揺られながら、不満そうな顔で彼女は彼を責めた。
「ずるいって……何が?別に楽しそうにしてないよ?」
「そう?エーチロさんと、ずっと映画の話してた。あんな風に喋るカナタ、初めて見た」
「いや、オレ、普通だったと思うけど……」
むしろ、エイイチロウに対して攻撃的だった気がする、と改めて自分を振り返る。それをずるいと言われてしまうと、2重の意味でカナタには辛い。
「そうかな。私は初めて見たかな。カナタって、あんまり何が好きかって話、しないから。聞いてて面白かったけど」
「え?そうかな……。でも、エイジとかもしなく無い??むしろ、ナギさんとか、田所さん達の方が珍しいって言うか。何がいいとか悪いとか、ものすごく語るし」
「エイジとカナタは違うよ?エイジも確かにそう言う話は余りしない方だけど。でも、好きって言う言い方じゃなくて、好き故の批判って言うか。カナタのことも、文句言いながらすごく構うでしょ?あんな感じ」
「そうかも、そう言われてみたら。あんまり肯定的な言葉が出てくるのを聞いたことがないけど」
「でもね、カナタはそれすらもあまり聞いたこと無かったから」
そう言われて、そうかな、と考え始める。彼女の話が本当なら、カナタは自分の欲しいモノを少しだけ手に入れてることになるけれど、彼に自覚はなかった。点かないまま、燻ってる火種があるような、不愉快な感覚。
「ね、なんで美術科に進んだの?」
「……なんとなく、だよ。エイジもレイも行くって言うから。正直、どこでもよかったんだ。椿山は学科のレベルで言えば、美術科も体育科も普通科もそんなに差がないし。その分、ちょっと大変なのは判ってたけど」
隣で自分の顔を見つめる彼女の真剣な眼差しに、彼は戸惑いながら続けた。
「正直、エイジやレイが羨ましかったんだよね。あいつら、『これやりたい』って言うのが結構明確だったから。オレもそう言うのが欲しかったし、今でも欲しいよ」
「エーチロさんに進路の話を聞かれたとき、口ごもってたから」
カナタは沈黙でしか応えられなかった。ナギがするように、彼女もまた、彼を簡単に射抜く。それが、少しだけ恥ずかしくもあり、心地よくもあった。
学園の寮が集まる敷地の前でバスから降りた。カナタは彼女を女子寮の入口まで送ると告げ、彼女の手を取って歩き出した。
「さっきの話、お兄さんやエイジにはしないでよ?」
「義兄さんにはしても良いってこと?」
何故?とは聞かず、ナギのことを言った彼女の態度に、カナタは笑顔を見せた。
「怒られそうだな」
「怒らないよ。それを選んだのも、カナタだもん。きっと私、義兄さんに今日のカナタの話はいっぱいするよ?」
「進路の話?」
「違うよ、エーチロさんと話してるときのカナタ。楽しそうだったから」
それはそれで、複雑なんですけど。と思うが、それを口にするのは何だか悔しかった。
「ずるいな。エーチロさんも楽しそうだった」
「ま、あの人が見たいって言ったから、わざわざあんな所まで映画を見に行ったんだし?」
ちょっとだけ嫌味な言い方になってしまったことに、彼女が気付いたかどうか心配になった。けれど、女子寮が近付いてきたので、彼は少しだけ歩みを遅くする。
「だけど普段はあの人、こっちに合わせて喋ってくれてるのに、今日はそうじゃなかったもの」
彼は急に立ち止まって、俯きながら喋る彼女の手を引っ張った。
「カナタ?痛いよ。もうそこだから……」
彼女を強く抱きしめ、キスをする。けれど、彼女に戸惑い以上のものがないことが、彼の悔しさを増していく。
「カナタ?」
彼女にとっての自分の存在はいったい何なのか。そのことばかりが自身の心を占めていることに、カナタは気付かぬまま、彼女を抱きしめ続けた。
洗面所で歯磨きをしているエイイチロウに聞こえるように、わざと扉を開け、カナタとエイジは話し始めた。
「お前ら、今日は3人で出かけたんじゃないのか。お前は夕飯前に一人で帰ってくるし、何故か後からバカ兄貴がやってきて、ここで飯食って風呂入って歯まで磨いているのか!?」
「お兄さんのこと、オレに聞かれても……。あの人とは地下鉄の駅前で別れて、オレはちゃんとマドイを送り届けたよ?」
「……この場にレイがいたら、『どこがちゃんとだよ!』って突っ込みかねん時間だったけどな」
そのことにほっとしてる自分を隠すのに、エイジは必死だった。歯磨きを終えた兄と、隣にいるカナタ。例え他の誰かに知られたとしても、彼らにだけは知られたくない。
「お兄さん、寝袋で寝なくても、レイがよく座布団にタオルケット敷いて勝手に布団にしてますよ。枕もあいつが勝手に持ってきたから予備がありますし」
「カナタ!突っ込むところはそこじゃねえ!なに勝手に寝袋なんかひいてやがる!他に泊まってる所があるんだろうが!そっちに行け!大体、その寝袋は何なんだ!部屋の中で寝袋って言う発想が意味判らん!!」
弟に突っ込まれながら、仕方なく寝袋を丸めなおし、カナタにタオルケットを出してもらうよう頼むエイイチロウ。
「幸田先輩がお古をくれたんだよ。2個あるから、一個ここに置いておこうと思って」
「……もういい。そう言うことは聞いてない。何でここにいるんだ?」
「いや、エイジにも映画の話をしてやろうと思って」
単純に、カイトの所へ帰る気になれなかっただけなのだが、そうとは言えなかった。
「オレ達はこれからゲームだよ。その話なら、カナタから聞いたし」
「ああ、そう。だからさっさと戻ってきてんのか。オレならあんな可愛い彼女がいたら、ゲームなんかより、彼女優先するけどな」
「説得力がない!」
カナタですら真顔で頷いていたのには、さすがにエイイチロウもへこんでいた。
部屋に聞き慣れない着信音が響く。
「……誰?エイジ?」
「オレの携帯はここだ」
「ああ、オレオレ。どこ仕舞ったっけ」
自分からかけるときは持って歩くくせに……と兄に対して不満を漏らすエイジ。兄は、また電池が無くなるぞ、なんて言う弟の嫌味を聞きながらカバンを漁り携帯を探し出し、相手を見る。
電話に応えながら、二人をちらっと見て、そそくさと部屋から出る。
「どうしたの?こんな時間に」
『いえ。今、電話しても大丈夫でした?』
マドイからだった。彼からかけたことはあっても、彼女からかかってきたのは初めてだった。エイジ達の部屋の扉を塞ぐように座り込み、気持ちを落ち着ける。
『エーチロさん、いま学園の近くにいますか?』
「いるよ?……寮の近く」
エイジの名前はともかく、カナタの名前を出したくなかった。何事もなかったように受け入れてくれるカナタに、少しだけ申し訳ないような気もしていたけれど。そう思っていたけれど、自己矛盾を受け入れられないまま、嫉妬心と期待だけが彼の背中を押す。
『私も、エーチロさんと映画の話がしてみたいな。会えますか?』
「良いよ。出られるの?」
子供だから、と必死で期待を押さえ込もうとするけれど。もう、止められなかった。時間と場所を指定し、電話を切った後、何事もなかったかのように部屋に戻った。
「何だよ、あっちに戻るのか?」
部屋に戻ってきて早々に、カバンに荷物をまとめ始めた兄を見て突っ込んだエイジの目を見ずに、彼は応えた。
「いや、今日は戻る気はないけど……。ちょっと出かけてくる」
それだけ言い残し、カバンとヘルメットを持って部屋を出た。2階のイチタカからもう一つヘルメットを借り、バイクに乗って女子寮に向かう。
女子寮の敷地を囲む塀の、管理人のいる門の反対側にある勝手口の前にバイクを止め、携帯で時間を確認する。しかし、現れたのはマドイではなくヒジリだった。
「お姉さんの方と待ち合わせてるんですけど。職権乱用じゃね?勝手口の鍵なんかもらってんだ」
通常、寮には管理人がいる表玄関から入る。それによって、中に入る人間を管理しているため、学園の生徒といえど、勝手口を中からも外からも開くことは出来ないのだが、彼女はエイイチロウと同様に、自由に出入りするための鍵をもらっているようだ。女子寮に出入りできるヒジリの持つ鍵を、彼はちょっとだけ欲しかった。
「ゲーム用ですけどね。マドイちゃんのこと、こんな時間に呼び出して、どうするつもりですか?」
「呼び出してないよ、別に。まあ、出来れば、こんな外だと危ないから、どこか明るいところに行きたいけど」
誤魔化したような話し方をするエイイチロウの態度に、ヒジリが噛みつく。
「マドイちゃんのこと、利用するつもりですか?」
「なにに?」
「二宮先生は、あなたにはなにか願いがあるって言ってた。私とあなたは同じだとも言った。あなたも私も『願って良い』って」
カイトの予想通りの言葉に、エイイチロウは溜息をつくしかなかった。
なぜだか今夜は、彼の部屋で彼と同じ空気を吸うのが嫌だった。多分、カナタとマドイのせいだという気はしていたのだけれど。
「それとマドイちゃんは……」
特に、マドイの存在は、彼にとって大きかった。大きかったからこそ。
「だって、あなたには私は邪魔じゃない?塔を作る者は二人もいらないでしょ?」
「そう言うの、関係ないって。塔を作るとか、どうでも良いし。どうでも良いって、カイトにも言ってあるし。第一、オレはあの子のことを……」
そこまで言って、それ以上言うのが恥ずかしくなってしまった。
「どう思ってるんですか?」
「いや、まあ、可愛いって……そりゃ」
ヒジリが思っていたよりも、ずっと真面目そうなエイイチロウの態度に、少しだけ安心し、少しだけ不愉快にもなっていた。
「何、その余裕って感じの態度は。オレ、君たちより6つも上なんですけど」
「知ってます」
照れながら、頭を垂れるエイイチロウの態度に、ヒジリは義兄を思いだしていた。マドイが彼のことをナギのようだと言っていた、その台詞に影響されたわけではないけれど。
「今から、第2ステージでゲームがあるわ。あなたは、行かなくていいの?私とあなたは、『特別』だって二宮先生は言ってたわ」
「オレはカイトに対して、好き放題言っちゃってるからさ。使いにくいんじゃない?あんまり言うことも聞かないし。君の方が安心するのかもね。そんなにあの望む力なんてモノが欲しければ、君のモノにすればいい。何が望みか知らないけど」
「別に、私も、あの力には興味ないわ。マドイちゃんも、私に望めばいいって言ってくれるけど。でも、あんなモノはどうでも良いの」
彼は、彼女の目を見ないように、彼女の表情を盗み見た。睨み付けるように、学園の中心にそびえ立つあの塔を見ていた瞳に強い意志を感じる。だけど、その意志がなんなのか、彼には判らなかった。
「……でも、行くんだ。オレは、あんなゲーム自体、くだらないと思ってるけど。カイト達の言うこと聞いて、ゲームの進行の手伝いなんて、する必要はないんじゃない?」
「守るためです。私の大事なものを。私だけで良い。だから、マドイちゃんをゲームから外す理由が出来て、ほっとしていたのに」
塔を睨んでいた彼女の視線が、そのままエイイチロウを射抜いた。ただでさえ、人の目を見ることが出来ないのに、そんな目で見られてしまってはたじろぐしかなかった。
「マドイちゃんは、私のせいでゲームに出ることになった。私が困ってたから、そのために頑張ってくれてた。あなたは、そのマドイちゃんに……」
「何があっても、あの子を守るよ。あのゲームのシステムからも、他の全てからも。彼女が望むなら」
覚悟を決めたように、彼は彼女を真っ直ぐ見ていた。
吐き出した言葉に、何より振り回されるのは、自身なのに。判っているのに。
「そこまで言うなら、君には言っておくよ」
「言っておく?」
「そうだよ。誰にも言わない、あの子にすら。だけどオレは決めてることがある。何があっても、どんな目にあっても、オレはオレの手を取ってくれた人を、最後の最後に守ってみせる」
ヒジリは、再び照れたように目を伏せる彼に、またしてもナギを見てしまった。それが悔しくて、彼の横を通り過ぎ、学園へ走っていった。
「もしかしてずっと聞いてた?君は、そう言うとこはずるい女の子みたいだね」
ヒジリと入れ替わる形で、マドイが勝手口から現れた。真っ赤な顔で俯きながら。
「勘弁してよ。ああいうの、恥ずかしいから嫌なんだよ」
ヘルメットをかぶり、カブに跨ろうとするエイイチロウを引き留めるため、マドイは彼の背中にしがみついた。
「なんで?行かないでください。あんなこと……義兄さんとユーちゃんにしか言われたこと無いの。私、嬉しくて」
「オレも、あいつらと一緒でお兄ちゃんだからね」
「そうじゃない。違うんです。判らないけど、義兄さん達とは違うの」
「オレは……」
自身の言葉に振り回された挙げ句、彼はさらに自身を追いつめそうになった。漏れそうな思いが真実だと判っていたから、口にもしたくなかったし、考えたくもなかった。
「……マドイちゃんは子供だね。判らないって言われても、オレだって判らないよ。君にどうしてあげたらいいか」
彼女を突き放す。俯き、真っ赤な顔で震えているのが暗がりでもよく判る。こうして適切な距離をとっていた方が、いっそ楽かもしれないと。弟とその友人、彼女の義兄との関係を思えば、面倒はたくさんだとも、彼は思う。
「どこかで茶でもしますか?せっかく出てきたんだし」
借りてきたヘルメットを手渡すと、彼女は黙って受け取った。ふと見上げた目にはうっすら涙が浮かんでいた。だけどそれを見ないフリをした。何もなかったフリを、彼女が受け入れてくれるとは思えなかったけれど。だけど、彼はそうするしかなかった。彼女がどう受け止めても、そうしようと決めていた。
「……どれくらい、一緒にいられますか?」
そう言った彼女の言葉の真意が判らなかった。下心ばかりが膨らんでいくことは判っていた。だけど、彼女の言葉に他意がないことは、今までの経験上判っていた。
「君次第だけど。帰りたいときに、送ってあげるよ」
彼女にも、彼の真意は伝わらなかったけれど。
黙って、彼の後ろに跨った。