第45話【続々々・カナタ】
ナギの様子を聞きに来ただけだというイチタカは、エイイチロウの携帯番号だけ聞いて彼らに別れを告げた。それを見送った後、エイイチロウは宣言通り、カナタとマドイを残してカブで立ち去った。マドイ曰く、「早く編集したいんですって」と言うことらしい。
そう言ってカナタの横に立つマドイの想いも、本当に立ち去ってしまったエイイチロウの思惑も、カナタには判らなかった。
自分だけが置き去りで、いつの間にか周りが変わっていく。おそらくずっとそうだったのだろうと、ぼんやりと自覚していたのだけれど、こんなに明確にそれを感じたのは初めてだった。
『奇跡なんてありえない。不可能だと信じていることを、どこのどいつが達成できると言うんだ』
いつか言われたナギの言葉が、彼の中でただ繰り返される。だけど、その言葉がどうして響くのか、カナタには判らない。
その後、彼は、その答えを言っていたはずなのに、その肝心なことがカナタの中には残っていなかった。そんな自分が、何より歯がゆくて不愉快だった。
隣に立つマドイに、手を伸ばしても届かない。そんな歯がゆさに似ているような気がしていた。
「ねえ、カナタ。この間エーチロさんに借りたDVD……」
「あ、うん。ごめん、持って帰っちゃった。見にくる?」
彼女は黙って頷いて、カナタと共に歩き出す。その行為に、以前なら距離が縮まったことを感じて喜んでいたはずなのに、今は余計に不安を煽る。
不安をうち消すように彼女の右手に、自身の左手を伸ばす。彼女の手を取り、じっと表情を伺う。嫌がらなかったが、照れた表情も見せなかった。だけど、彼女はいつも通り彼についてくる。
「さっきお兄さんが撮ってたヤツ……それの元の、ナギさんの映像もあるよ、この間エイジが押しつけられてた」
「え?それも見たい。どんなの撮るか見てみたい」
それにカナタは応えず、黙って公園を出て、彼女の手を引いて、寮の方に向かって歩き続ける。いつの間にか、空が微かにオレンジがかっていた。
学園に続く並木道を歩き、徐々に近付いてきたとき、カナタはその風景に思わず立ち止まった。
『拡張でもする気かな?だとしても……あの中のボードは不自然なんだよな』
ナギがカナタ達にそう言ったとき、まだ『拡張工事』で済む範囲だった。ナギに言われるまで、囲いがあることは知っていても、大きくなっていることには気付かなかった。けれど、城壁のような囲いと、そびえ立つ12の塔に囲まれた中央広場は、いつの間にかそびえ立つ塔のように巨大になって、学園内のどの建物よりも高く、天に向かって伸びていた。
『だって、得られるものが『望む力』なんだし』
学園の外から、じっと中央にそびえ立つ塔を見つめながら、カナタは身震いした。そこにあるはずの大きな力の存在に。それがもたらす奇跡への期待に。
「……カナタ?なに見てるの?」
彼は静かに微笑んだまま、不安がる彼女に、塔を指さした。
「いつの間にか、本当に『天に昇る塔』が出来てる。案外、本当のなのかもね、あの『望む力』ってやつ」
冗談っぽく言って見せたが、カナタの目は本気だった。だが、マドイはそんなカナタの顔は見ていなかった。真っ直ぐ、彼と同じように新しくできた塔を見つめていた。
「……何か、怖いよ」
怖い、と言う台詞が彼女の口から出たことに、カナタは違和感を感じると共に、時々見ることができる彼女の弱さに、愛おしさも感じていた。
「どうして?『望む力』をくれるって言ってるのに。そのために、君は……いや、君の妹は戦ってるのに?」
「だから、私はあの子を守らなくちゃ」
カナタの手をぎゅっと握り返した。彼女が見せてくれた強い意志に、カナタは自身の中にあった重たい影が、少しだけ軽くなったような気がした。
今までマドイが語らなかったことを、少しずつ語ってくれることが、なによりも幸せだった。
「ごめん、ヒジリから……」
カナタから手を離し、学校指定のボストンバッグの中で鳴り響く携帯を探すマドイ。電話をとり、カナタの様子を気にしながら話し始めた。
彼女は自分を気にしてくれるけれど。けれど一番じゃない。
『奇跡なんて……』
ナギの言葉が響く。響くのに、もう彼が何を言っていたのか思い出せない。
「奇跡……なんて……あり得ない……」
呟き、必死に思い出そうとする。ナギは確かに、カナタに道を指し示していたのに、彼の言葉の先すらカナタには見えなかった。
「ごめんね、カナタ。もう帰るね。今度エーチロさんのビデオ、見せてよ」
ナギの戦ってる姿が見たいわけではないのか?などと言う思いは、邪推でしかないのだと理解しているのに。けれど、彼女の目が彼に向かっていることを気にせざるを得ない。
「うん。また明日」
木津詠一郎が何だ、とは言えなかった。彼のプライドがそれをどうしても許せなかった。手を振り、女子寮に向かって走る彼女を、笑顔で見送ってしまう自分のことが不愉快で仕方がないのに、強く出られない。
『その時と今では、お前の思いが違うから。マドイは……あんまり変わってないけど』
自身と、マドイの前を歩く彼の言葉だった。他にどんな言葉を信じたらいいのか判らないくらい、彼にとってナギの言葉は全てになった。だからこそ、痛くて重い。まるで傷口に塩を塗りこんでいくようにじわじわと傷む。それが心地よくもあり、どうしようもなく辛いこともある。
『心を確認しあったとして、人間の心はそれが全てじゃない。やっぱり曖昧なままだ。……大事なのは』
彼は答えを出していたのに。やっぱり思い出せなかった。携帯をとりだし、歩きながらナギに電話をかけた。
『どうした?珍しいな、カナタが』
彼がいるのは道場ではないようだ。周りから車のエンジン音と、何人かの同世代くらいの男女が喋っているのが聞こえてきた。
「いえ……大した用じゃないんですけど。すみません、何か取り込み中みたいですね」
『いや、いいよ。移動中だから。バイトが早く終わったから、送ってもらってるとこだし。なんかあった?暗いぞ?』
びっくりするくらい直球な彼の質問に、思わず笑ってしまった。
『なんだよ』
「いえ。次、いつ戻ってくるんですか?」
『戻るんじゃねえの、そっちに行くの!ったく。補修なんかサボって、うちに来い!鍛え直してやる!』
「そうですね。ぜひ」
いつの間にか日が落ちていた。学園を囲むれんが造りの壁の向こうに見える、中心部にそびえ立つ塔が、紫色に染まっていく空の中、満月に照らされていた。
天に向かって伸び続ける、あの欲望まみれの塔よりも、ずっと高い場所から見下ろすあの月は、きっとナギそのものなんだと思っていた。
電話の向こうで「お疲れ」と声が聞こえ、車が走り去っていく音が聞こえた。
『天に昇る塔って、聞いたことある?』
「はい。望む力が与えられる……」
『そこは生贄とそれを捧げる祭司が存在する場所なんだよ。わかる?』
「……生贄?」
『神に近付くために、必要なものだよ』
カナタは吸い込まれるように、布をかぶったままの中央の塔を見つめていた。それが、望む力の正体なのかと思うと、身震いした。
「何でナギさん、そんなこと……」
『だけど、オレ達を巻き込んだ黒幕もいる』
彼はそう言ったけれど、カナタにはあのそびえ立つ塔が輝いているように見えたことを、ナギに告げた。
『中央にあった建物は、今どうなってる?』
「どの塔よりも、高くなっています。まさに、天に昇る塔のように」
『そうか』
ナギにしては珍しく、沈黙してしまった。その行為に初めて、カナタはあの中央にそびえ立つ塔に対して不安を持った。
『お前ら、あれからゲームはどうした?』
「昨夜マドイを送ったあとに、エイジと」
『もちろん、勝ったよな?』
「はい」
ゲーム自体にあまり良い感情を持っていないはずのナギが、再び駒としては敵対することになってしまったはずのカナタに対して、喜びの感情の交じった言葉をかけた。そのことに驚きつつも、嬉しくなる。
『エイジと一緒に出続けるんだろ?』
「まあ、エイジがそれで良いって言ってくれてるので。ポイント数、オレの方が足らないんですけどね。良いのかな」
『良いんじゃねえの?2、3日したら、そっちに行く予定だから、その時は顔出すよ。マドイのこと、頼むな』
ナギの願いに、カナタはとっさに返事が出来なかった。何とか、絞り出すように、小さく「ハイ」とだけ応えた。
『カナタ。何をどうしたって、自分が動いたようにしかならねんだよ、人生は』
いつか彼が聞いた台詞を、ナギは再び繰り返し、電話を切った。
握りしめていた携帯を持ち直し、今度はエイジにかけた。
「エイジ、今夜は用事ある?」
『なんだよ。未だに男二人でマックにいるオレに何の用だ、こら』
「もう、マドイもお兄さんも一緒にいないよ。それより……」
学園を仰ぐ。夕闇の中そびえ立つ12の塔に囲まれた中央の塔が、こころなしか伸びているような気がした。鼓動が高まっていくのを自覚しながら、カナタは「天に昇る塔」から目が離せなかった。
『良いよ、別に何もないから。予約しとく。お前が騎士で良いんだな?』
隣を歩く存在に安心して、カナタは電話を切った。
ビール片手に、顔を緩ませながらパソコンに向かうエイイチロウを、カイトは立ったまま、後ろから不審そうな顔で眺めていた。
「どんな卑猥なものを見ているかと思ったら、中緒ヒジリの姉か」
「卑猥って!?お前、時々妙なこと言うよね……。フツーに今日撮影してきたヤツだよ。編集中なんだから、邪魔すんなよ」
「邪魔?!誰のパソコンだと思ってる!」
「いいじゃん。どうせ悪だくみのデータしか入ってないんだし。無駄にハイスペックだし。すぐ終わるから」
「そう言って徹夜するだろうが、お前は。五月蠅くて適わん。それで早朝からいなくなるし、部屋の中なのに寝袋で寝るし」
カイトが布団を貸してくれないからだろうが。と言ってやりたかったが、それはさすがに黙っておいた。
「そんな体力があるなら……」
「カイトの言うことも多少聞いてやってるし。そういや、明日、ナギが戻ってくるって。ゲームの予約も入れたし。来週とか言ってたくせに、せっかちなヤツめ」
嫌そうな顔をしていたが、カイトの方に振り返ることはなかった。
「塔は着々と作られている。祭壇の準備も整いつつある。ポイント数を稼いでいるものもいる。さっさとヤツにポイント数を稼がせて、生贄にふさわしいかどうか検証をしたいんだ」
「あ、そう。で、ナギがふさわしくなかった場合はどうなるの?大体、誰が祭司をするんだよ。オレじゃ無理だし」
陶酔した表情のカイトにばれないよう、横目で彼の表情を盗み見た。
「あの女がするんだよ。それが、あれの願いだから。叶っても叶わなくても、仕方がないけれど。中緒凪がふさわしくなくても、それはあの女の眼鏡違いだ。他にも候補はいる。そのためのゲームだ」
「……意味わかんねえ。いい大人が、ガキ誑かして喜んでるようにしか見えねえし」
カイトに聞こえるか聞こえないかと言ったくらいの小声で呟いた。
「何か言ったか?」
「いいや。それより、このマドイちゃん、めっちゃ綺麗に撮れてると思わねえ?オレってやっぱ天才だよな。被写体も良いし」
その根拠のない自信はどこから来るんだ、と突っ込んでやりたかったが、言っても無駄だったので、カイトは渋々肯定の返事をした。
「何だよ、そのやる気のない返事は。ちゃんと見ろ!お前の生徒でもあるんだろうが」
ばんばんと床を叩き、カイトを横に座らせた。仕方ないといった顔で、言うとおりにするカイト。
「ありがちだな。しかし、こんな顔だったか?」
「ありがちってゆーな!顔は変わってねえって、別に。可愛いまま!」
「……お前、こういうのが好みだったか?」
「すいませんねえ。自分から好みの子とつきあえたことなんか無いですけど?」
「サルだな」
「サルゆーな!若かったって言ってくれ!ちくしょう!」
叫ぶエイイチロウを後目に、カイトは立ち上がり寝室に向かった。
「何だよ、もう!にげんなよ!」
「いちいち酔っぱらいの相手がしていられるか。もう寝る。お前、明日は?」
「昼まで寝る。その後、デートの約束してんの。多分3人になるけど。夜はゲームだし」
「で、ここに戻ってきたら、ずっと編集作業か。忙しいことだな」
嫌味の混じったカイトの言葉の真意が、エイイチロウには判らなかった。溜息をつきつつ、寝室に入るカイトを見送った。
画面に映る、マドイの姿を再び追いかける。
「こんな子供に振り回されて、どうするよ、オレ……。男つきだし。めんどくせえな」
それでも彼女を振りきれない自分は、もう後戻りできないのも知っていた。出来ないけれど、強引に彼女を奪うことも出来ないし、その自信はなかった。
カナタとの電話を終え、道場の裏側に当たる自宅の入口から家に入ったナギは、誰もいないことに気付いてそのまま庭を歩いて道場に向かった。まだ道場の離れにいた師範を見つけ、彼は堅苦しい挨拶をした。私服のままでありながら師範代として挨拶をしたナギに、師範は穏やかな父親の顔を見せた。
「随分早かったな。もっとゆっくりしてくれば良かったのに」
彼が師範として話しているのではないと判っていても、思わず背筋が伸びるナギ。
「いえ……今日はホントに手伝いだけで。早く終わったので」
どうしても申し訳なさの抜けないナギは、その場に座ることも出来なかった。
「……いま、田所くんと中里くんが模擬試合をやっているよ。お前、見たこと無かったろう?」
「はい。……でも、こんな時間にですか?誰か立ち会っているんですか?」
「ああ、佐山くんが」
中里が自分とユズハに対してあまり良い感情を持っていないのも知っていた。妙な派閥争いのようなものがあるのも知っていた。だからこそ、その組合せはナギにとって不思議で仕方がなかったし、妙な違和感を感じていた。師範がそのことを知っているのかどうか、それはナギにもわからなかった。
「中里さんとユズハがだなんて、珍しいですね。交流試合でも確か、当たったことはなかったはずですけど」
「そうだな」
どこまでこの人は判っているんだろう?とは思ったが、何もかも見透かしているような気もしていたので、それ以上は何も言わず、勧められるままに道場に向かった。
型稽古も組み手も、伝統的な合気道を教えているにも関わらず、師範は行っている。しかし、頻繁に行うこともしないし、ましてやこんな風に特別に行うことは滅多にない。だからこそその意図が判らなかった。
道場の入口にナギがついたとき、まさに試合が始まったところであった。ただ、その決着は驚くほど早くついた。
開始の合図からほぼ間を空けずに、ユズハの左手から繰り出された打撃をかわそうと動いた中里に、ユズハはあっさりと四方投げを決めていた。
投げられた中里も、見ていたナギも佐山も、ただただ、呆気にとられていた。中里も佐山も、ここでは1,2を争う実力者であるはずなのに。
「ありがとうございます。こんな若輩者に花を持たせてくださって。師範代の前ですしね」
ゆっくりと起きあがる中里に、人の悪い笑みを浮かべてみせるユズハ。その言葉に、彼は思わず入口の方を見て、ナギの姿を確認した。何を言われているか聞こえてはいなかったが、中里が尋常ではない表情で睨み付けてきたので、ナギは困ったように会釈をした。
「師範代。戻っていらしたんですね」
ナギは佐山に声をかけられ、中里の視線におののきながらも、道場の中に入る。カジュアルな素材の黒スーツにマルチストライプのシャツが、無彩色の胴着の中で浮いていて、妙に気恥ずかしかった。
「……ユズハ、今のすごかった」
「まだまだだよ。中里さんが花を持たせてくれただけだって。オレなんかよりずっと長くやってるわけだし、段位も上だし、そんな。オレは、お前にも敵わないのに」
「いや……」
否定しようとしたナギの肩を掴み、無理矢理歩かせ、入口の方へ押し戻す。
「田所くん、どこへ?」
「師範にご無理を言ってしまったのでお礼を。師範代も帰ってきましたので一緒に。こんな時間までありがとうございます、お二人とも」
彼らに向けたユズハの笑顔が、ナギには最高に気持ち悪かった。けれど、彼の意図が判っていたので、何も言わず、中里達に会釈をして彼と共に道場を後にした。
「随分早かったな。10時くらいになるとか言ってたのに」
道場を出て庭を歩きながら、先に話し始めたのはユズハだった。中里達の目がないことを確認して、ナギは肩に置かれていたユズハの手を払いのけた。
「早く終わっただけだ。お前こそ、何してる。随分直接的だな。それに、心にもないことをぺらぺらと。お前は確かに強いよ。だけど、あれじゃ中里さんは余計に反発するだろうし……大体、オレに敵わないだなんて、説得力のないことを言ったところで……」
「なんで?ホントのことだ」
『これが、オレとお前の4年の差だと』。そう言ったのは他でもないユズハだった。ずっと自分の方が強いと思っていたナギのアイデンティティを覆しておきながら、よくそんなことが言えるものだと、目を見張った。
「ウソつけ。お前ってヤツは……」
「ホントだって。まあ、オレの方が強いことは事実だけど」
「なんだそれ。お前、言ってること矛盾してないか?」
ユズハの胸に、人差し指を突き刺し、見上げながら睨んだ。夜とは言え、夏になったばかりだ。ナギの指が触れる、乾いていたはずの胴着が、じわじわと汗ばんでいく。
「してないよ。オレの方が強い。実力差ははっきりしてる。だけど、オレはお前には敵わない。どちらも真実だ」
「意味が判らん。……大体、何だって急に試合なんか」
「はっきりしておこうと思って。誰が一番強いのか。誰が師範代にふさわしいのか」
「だったら、お前じゃなくてオレが戦うんじゃねえのか?」
突き刺していた指に力を入れ、ユズハの体を軽く突き飛ばした。
「それじゃ、角が立つだろう?オレが、お前を誰よりも持ち上げてるのは、この道場の連中なら誰もが知ってることだ」
「やっぱり矛盾してる。お前はオレより強くて、だけどお前は誰よりもここで、オレの立場を持ち上げている?お前が師範代になればいいじゃねえかって思うけど、オレなら。そう言う風には……」
腕を伸ばせば届きそうな距離を保ったまま、ナギはユズハを睨む。一瞬、雲が月を隠し、暗やみが彼らを包んだけれど、彼らは何も変わらなかった。
「思わないんだな。あの人達の上に立とうとはするくせに、オレの上には立ちたがらないんだな」
「だってオレ、お前より強いし賢いから」
「賢いとかは関係ねえし!何でお前はそこまで……」
誰よりも勝つことにこだわっているのは、他でもないユズハのくせに。ずっと側にいたから、ナギはそれが痛いほど判っていた。自分が誰にも負けたくないと、必死になっているのと同様に、彼のプライドの高さが彼を勝利にこだわらせる。
それなのにどうして。どうして彼は自分を立てようとここまで動いてくれるのか。そんなことをしてもらう理由が判らなかった。何より自身の望む方向とは彼は別の道を歩こうとしていた。
ナギはユズハに押し上げてもらいたいわけではない。
『一人くらい、対等に、同じ道を歩いてくれるヤツがいた方が人生は楽しいよ』
カナタに言った台詞は、自分の中で揺るがない真実だった。どんなに振り回されても。
「そこまで……」
「別に、何もしてないし。ホントは、弱いくせに偉そうな顔してるあの人が嫌いなだけ。判りやすい理由だろ?」
「あのな、今さら……」
「オレがそう言ってるんだから、オレの言葉の方が正しいと思うけど」
押し黙ってしまったナギの肩を叩き、師範の元へ行こうと促すユズハ。彼を睨み付けながらも、それにナギは従う。
「……オレに甘えてるくせに」
呟くナギの声をしっかり聞いておきながら、ユズハは知らない振りをした。
「何か言ったか?」
「別に?それより明日、学園に行くつもりだから、お前、車出せ」
「何言ってんだ、戻ってきたばっかりなのに」
「別にどっちでも良いけど、一人で行くから」
立ち止まってしまったユズハを置いて、ナギは一人で庭を進んでいく。
「もう少し……なんだけどな」
不満に近い声を漏らしながらも、小走りでナギに追いついた。
「結局、オレが迎えに行くんだから一緒だろ?」
「別に頼んでない」
「助かったくせに」
その言葉を受け、突然立ち止まったナギにぶつかるユズハ。
「なんだ?!」
「そうだな。助かってるよ。お前、甘ったれてるけど、そう言うとこには」
見上げながら笑顔を見せた。
ナギがそうすることは、何も珍しいことではないのに。なのに、ユズハの心が少しだけ震えた。彼の顔を、いつものように見ることが出来なかった。
「何だよ、変な顔すんな。師範にお礼を言うんじゃなかったのか?行くぞ?」
エイジがナギのことをずるいと言っていたことを思い出す。だけど、そうじゃない。こんなナギも、ユズハは知ってる。ただ、そのタイミングが突然すぎて、時々こうして心を動かされるだけだと。ユズハはいつものように、そう納得した。
深夜2時。学園の中央にそびえ立つ、未だ布をかぶったままの塔から、カナタとエイジは連れ立って出てきた。敗戦した相手チームに気遣ってゆっくりめに出てきたのが功を奏したのか、塔の外にはレイがただ一人で待っていた。
「普通にやったら、お前らかなり強いんだな。今日の相手は、わりと普通の武器だったな。そう思うとエイジの兄ちゃんの武器なんか、かなり卑怯くさかったし」
横並びに校門に向かいながら、何気なく発したレイの一言に、カナタの機嫌が変わる。それをエイジもレイも敏感に感じとってしまったばかりに、彼の顔を見ることが出来なくなって、黙って横を歩くしかできなくなってしまった。
「……何で黙ってるのさ?」
校門を出て、男子寮のある方角へ足を向けたとき、カナタが不思議そうに声をかける。天然なのか、判ってるのか、エイジにもレイにも判らなかったので、仕方なく知らないフリして話を始めた。
「別に黙ってたわけじゃないし?」
苦笑いをするけれど、まだカナタの顔を見ることが出来ないレイ。怒るとどうなるか想像がつかないから、どうしようも出来ない。別に自分たちに怒っているわけではないのだと判っているのだが。だけど、得体の知れなさが二人に恐怖を感じさせていた。
「エイイチロウさんの武器の話をしてたのに?」
「いや、オレらが強いとか強くないとか言う話じゃなかったっけ?」
「……そうだっけ。ま、あの武器はないわな。でもまあ、あの武器がどんなもんか判ってれば、大したこと無いだろ?」
真っ直ぐ前を見たまま、カナタは黙って頷いた。その様子に、違和感を感じていたのはエイジだけではなかった。
「レイは今日も外泊届けだしてきたの?」
カナタ自ら違う話を振ってくれたことに、エイジもレイも胸をなで下ろした。
「だって、めんどくさいんだよ。毎晩先輩らは五月蠅いし。夏休みに入ってから学校に行くのが半日でよくなっただろ?だからますます拍車がかかっちゃってさ」
高校までは学科を選択しなければ、ほぼエレベーター式に上がれるが、大学部はさすがにそうはいかない。実質上、外部から入学のしづらい大学ではあるが、数は圧倒的に少ないとは言え、ナギやユズハのように毎年幾人かは外部からの入学者がいるし、受験生自体は充分な数集まってくる。それに高等部にいる絶対数より、多少ではあるが大学部の人数は少なくなる。外部からのライバルの割合が実質上、若干少なくなるとは言え、ある程度名のしれた私立の名門校だ。やはり門は狭い。未だ2年生のレイ達と、彼の先輩達では危機感が全く違うのだろう。
いろいろあるんだろうな、なんて漠然とは思うけれど、迷惑なことには変わりなかった。
「だからってオレらの部屋を寝床にするんじゃねえよ」
「まあ、確かにうちは気楽かも。一緒の寮の勅使河原さんはほとんどいないし。小島さんは何も言わないって言うか、むしろ一緒に飲もうとか言ってくれるし、ああ見えてすごく気を使ってくれる人だしね」
カナタの言葉に思わず、隣を歩くレイを見てしまったエイジ。
『オレが断言しようか。小島さん、超怪しい!駒じゃなくても、あっち側の人間だよ。騙されるな!』
カナタは、ホントの所どこまで理解しているのだろうか。同じ場所を見ていられると思ったのに、本当はそう思っているのは自分だけなのではないのか?!そんな不安にエイジは駆られ始める。
『小島さんの言ってること、理解できるけど、全面的に正しいとは思えないよ』
隣を歩く存在の不確かさに、こんなにも不安を煽られるとは思わなかった。カナタとの距離は、確実に近くなったと、エイジは確信していたのに。それはつい最近のことなのに。
あの時、オレンジ色に染まっていく胴着に身を包み、正座をしたまま静かに佇むナギの姿は、今にも溶けていってしまいそうだったのに。なのにどうしてあんなにもはっきりと、彼は存在をしていたのだろう。
あのオレンジ色の風景の中に、ユズハが入っていたとしても何の違和感もない。そんな二人が羨ましいのだと。あの強い色に負けることのない絆を、誰よりも感じ、妬んでいたのは自分だったのだと。
自分が手に入れたはずの絆は、あの強い色と比べて、なんて淡いのだろうか。そんなことを思う自身を、エイジは嫌悪する。けれど、その嫌悪すべき自身は、強い色を手に入れることで変わると思っていた。
『望みってなに?望む力だなんて怪しげなものにすがってまで、お前は一体何を望む?』
望みなんて、ずっと前から決まっていた。それが自身の中で強く熱を帯びていくだけ。
隣を歩くカナタを見つめながら、エイジは自身に言い聞かせた。