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第44話【続・イチタカ】

『つまらへんわ。兄さんら、はよ帰ってきて』

「論文出さなきゃならんからって、音信不通だったのはお前だろうが」


 稽古の合間、自宅のリビングに戻った途端、鳴り響いた携帯をとってみたら相手はイチタカだった。彼の不満に不満で返すナギ。その後ろにはいつの間にかユズハが立っていた。


「誰?」


 ナギの左肩に右肘を乗せ、反対側の手でナギの髪をいじっていた。


「重てえよ。つーか、触んな。イチタカだよ。論文書いてたのに黙って帰るなって怒ってんだよ」


 携帯の口元を押さえながら、ユズハの手を振り払った。


「小島くん?ああ、そういえば三島教授に、休み前に急に思いついたかのように論文出せって言われてたな」

「お前、何で知ってんの?」

「だって、院も同じように出せって言われてたから」

「……何でここにいるんだ、お前?」

「いや、オレはとっくに提出済みだし。こんなぎりぎりに出すようなヤツと一緒にするな」

「イチタカにそう言っとく」


 すぐに電話に戻ったナギを、不満そうに睨むユズハ。その気配を感じとり、睨み返すナギ。結局、2,3言葉を交わしてすぐに電話を切ってしまった。


「さっさと戻れよ。何しに来たんだ。人んちって感覚がねえだろ、お前は」

「あるよ。失礼な。それよりお前、時間はいいのか?」

「だから戻ってきたんだ。あと頼むわ。師範のことも」


 ユズハは黙って頷き、彼の背中を押すように触ったあと、リビングを出ていくナギを見送った。胴着の襟を正し、表情を整えてから、道場へと向かう。

 道場では再び稽古が始まっていた。そこで指導を行っていた佐山は手を止め、ユズハに声を掛けた。


「田所くん、師範がお呼びだ。離れまで来るようにと」

「判りました。ありがとうございます」


 笑顔を見せ、ユズハが離れに向かおうとしたとき、同じく指導にまわっていた中里が声を掛けてきた。


「田所くん、師範代はどちらへ?」

「師範から聞いてませんか?申し訳ありませんが、急ぎますので」


 笑顔を崩さず、中里に頭を下げると、二度と彼を見ることなく廊下に出て離れに向かった。

 中里は、未だナギのことを認めていない、ベテラン勢の1人だった。妙な派閥のようなモノが出来ていて、ユズハはそれも含めて彼の存在が不快だった。

 ナギが大学から戻り、椿山に通うようになってからは、道場に顔を出す回数も増えてきた。その代わり自分も椿山に通っているから、自身がここに顔を出す回数は減ってきた。どちらがいいかは判らないけれど、自分がナギのフォローを、彼のいない間に出来なくなってきていたのは歯がゆかった。


「田所です。失礼します」


 襖を開け、離れにある師範の部屋に入る。中には師範が正座をして彼を待っていた。以前のことを思うと随分調子がよくなっていた様にユズハには見えた。そのことを喜ぶ自分が、半分以上ナギのためだと思ったら、師範に申し訳ない気がしていた。


「ナギは?さっき挨拶に来たが」

「先ほど、出ていきました。よろしかったのですか?」

「ナギは、手伝いに行きたそうだっただろう?それを止める必要はあるまい。あの子は十分すぎるくらい理解している。かわいそうなくらいだよ」


 バイト先の建築事務所からの紹介で、実家の近くにある事務所の手伝いを頼まれたナギは、迷ったあげく、まずユズハに相談し、それから師範に相談した。

 師範よりも先に自分に相談してくれたことをユズハは喜んだ。その喜びように、相談したナギが退いていたくらいだった。師範に話をするときに、わざわざついてきたくらいだったのだから。

 もちろん、師範も快諾した。その理由を、ナギに告げることはなかったが。


「君が勧めたのだろう?椿山での話を教えてくれたのも、君だ」

「いえ……ただ、元々師範代は建築関係の仕事に携わりたいようでしたし、バイト先でもうまくやってるようでしたので。出来る範囲で好きなようにしていただければよろしいのでは?と思いまして……」

「出来る範囲?」

「はい。ご提案なんですけど」


 正座したまま、体を乗り出し、話し始めるユズハ。


「師範代には両方、やっていただければよろしいのでは?彼は遅くとも再来年にはここに戻ってきます。娘さん達も、そのころには高校を卒業しています。それに、それまでに彼は彼女たちを連れて帰ってくるはずです」

「難しいかも知れないと言ったのは君だろう?」

「でも、彼なら」


 自身の言葉より強く、ナギの行動を肯定したユズハに、師範も応えた。


「そうか。それで?君の提案の続きを聞こうか」

「ですので、彼にはここで師範代として、あなたの跡継ぎとして働いてもらいつつ、この近辺で、好きな仕事もしてもらえばいいんですよ。そのバランスは、彼自身が考えるはずです。彼はこの道場を捨てるようなマネはしないし、ここを何より大事に思っている」

「そうだな。だが、ナギの……」

「負担は、私がフォローします。今まで通り。今まで以上に。見て頂けている通りに」


 真っ直ぐ、師範を射抜く。


「君は……」

「私のことなら。ですが、こんな良いことはないではないですか?皆が大きな満足と、少しの我慢で満たされる。師範も、ナギも、私も」

「他人の人生に寄りかかるようなマネをするようには見えなかったがな。君はまだ、勝つことにこだわりすぎている。君に……」

「覚悟は、あります」


 師範の言わんとしていることの本当の意味が、ユズハにも伝わった。


『そんなに人様の家庭の事情に首突っ込んじゃって、責任とれるの?中緒さんも、あんたに頼ってしまって申し訳ない、なんて言ってるし。あんたに、その覚悟はホントにあるの?』


「これからも、精進していく所存です。ですから」

「皆が大きな満足と、少しの我慢で満たされると、君は言った。本当にそうか?」

「誰か違いますか?」

「君は?私とナギはそれで良いだろう。しかし、君は?」

「どうしてですか?これは私の提案なのに。私が勝つことにこだわりすぎていると言ったのは、他でもない師範、あなたです」


 初めて、師範は大きく溜息をついて見せた。


「君も充分、それで勝っていると言うことか?」


 ユズハは黙って頷いた。満面の笑みを見せて。その笑みは、師範にずっと負け続けていたと思っていたユズハにとって、初めての感情だった。









「つまらへんわ。あの兄さんら、何であんなにストイックなんやろな」


 携帯を閉じたイチタカの前には、呆気にとられたままの顔のエイジとレイがいた。


「……何ですか、小島さん。突然」


 カナタがマドイの元に向かった後も引き続き、マックで話し込んでいたレイとエイジの前に、携帯をかけながらイチタカは現れ、笑顔だけ見せカナタが座っていた席に座った。話の内容から、相手がどうやらナギだと言うことが判ったのだけれど。


「いや、何か知った顔がおったから。たまたまや。兄さんに声かけよと思たら、実家で稽古してるとか、バイトにいかなあかんとか言うてるんやもん」

「ああ、中緒兄も田所さんも?」

「みたいやな。ようやるわ。こんな暑いのに。あっち、涼しいんかな?」


 そんなに離れているわけでもないのに、そんなわけ無いだろう、と突っ込んで欲しそうにうずうずしていたが、エイジは構ってくれなかった。


「橘は?そっちは、こないだすれ違ったよな。なんて言うんや?」

「あ、周藤励です。カナタは女に呼ばれてったんで」

「おー。あれやな、ナギさんの妹さんやな。そっくりな方の。……微妙やな。兄さん確かに綺麗やけど……そっくりはいやや……。でも、羨ましい限りやな」


 エイジは、しみじみそう言うイチタカの言葉に、どうしても首を縦に振れなかった。


「最近、忙しそうでしたね。昼間に出かけるのをよく見かけましたけど」

「図書館や。テストの時期でもないのに、急に論文書けって言われてな。普通はこんな丸投げでもないんやけど……院も学部も全部共通でやっとるらしくてな。面倒やったわ。田所さんに話聞こうと思たら、もうとっくに提出したとか言うてたし」

「提出期限っていつだったんですか?田所さんって、たしか3日前には実家に帰ってましたよ?」

「今日や!早すぎるわ、もう……。あん人ら、ほんまストイックやし、遊びとかあるんかな?仕事が早いだけか?」


 ユズハのどこがストイックなのか、エイジもレイも聞いてみたかった。


「あ。次、いつ戻ってくるとか聞いとる?聞き忘れたわ」

「さあ?うちの兄貴なら聞いてるんじゃないですかね?カナタといるはずなんで……」

「せやな。聞いてみるわ。もー薄情やわ、あん人ら」


 軽く手を振りながら立ち上がり、席を離れた。その姿を、エイジとレイはただ口を開けたまま見守るしかなかった。


「なんか、あれだね。忙しないっつーか……。エイジの周りの人って、生き急いでるよね。小島さんとか、田所さんとか、お兄さんとか」


 全員が違う方向でマイペースだなあ、などと思い浮かべながら。


「オレの周りで一括りにすんな!しかもそのメンツ!最低!」

「小島さんは、聞く限りは割とまともな人の印象だったんだけどな。見かけと生活態度はともかく。あのメンツと一括りに出来るかと思うと微妙だなあ」

「いや、まともな人だって。田所さんとか、どう考えてもおかしいもん」


 イチタカが、たびたびエイジに気を使ってくれていたことを思い出す。


「オレ達さ、最初あの人のこと疑ってたんだよな。寮移動になったとき、同じ寮の唯一の同居人だったわけだから。他の寮はどうか知らないけど、夜中抜け出ないといけないのに、そのために寮長もいないのに、同居人っておかしな話だろ?中緒兄の所も、同じ寮にいるヤツはゲームで当たったことがあるって、カナタも言ってたし」

「でも、違うって思ったんでないの?」


 その話を、レイも聞いていた。


「そうだったんだけど」

「なんだよ」

「まともな人だと思ったんだけどな……」


『オレ……小島さんの言ってること、理解できるけど、全面的に正しいとは思えないよ。それはあの人の考え方であって……』


 カナタの言葉を思い出す。

 エイジはイチタカの言葉を全面的に受け入れ、カナタは疑っていた。あのカナタが。そのことに対して抱くこの思いを、エイジは客観的には見ることが出来なかったけれど。


「うちのバカ兄貴が実はものすっごい社交的で、めっちゃ知り合いがいるか……」

「……ああ。兄ちゃんが怪しいなら、それのあり得ない知り合いも怪しいってか。……えっと、その前提条件もどうかと思うけど。あの人は社交的って言うか、ちと強引?」

「突っ込みどころはそこじゃねえし……」


 気遣って、わざとレイが論点をずらしたこともよく判っていた。判っていたけど、もう自分で口にしてしまう程度には心が重い。


「カナタは、ちょっと気付いてたみたいなんだよな。そう考えてたかどうかは疑問だけど。直感としてっつーか」

「何か、あいつはホントに中緒兄みたくなってきたね。カナタってひねくれてると思ってたけど、案外素直だったんかな?」

「そうかもな」


 レイの言葉に頷いては見たものの、浮かない顔だった。

 澄んだ水のような彼を、濁った水のような自分は受け入れられない。薄まったとしても、上澄みだけで、その水が澄みきることはあり得ない。いつまでも濁った部分が残ったままだ。けれど、最初から水がなかったとしたら。

 空っぽだったカナタに、彼が浸透していく様が、少しだけ嬉しくて、少しだけ不愉快だった。


「ゲームで会ったことあるの?」

「いや?無いけど……」

「なんだよ?」

「駒にしては、妙だなと思って。やっぱ考え過ぎか?」


 眉間に皺を寄せ、胃を痛めながら必死に考える。イチタカの台詞を思い出しながら。


『そのために出来ることは、なりふり構わずした方がええ。どんなに曖昧なものでも』


「だって、駒なら、ライバルを蹴落とそうとすると思うけどな。あれじゃまるで」


『欲望が願いのうちに、吐き出した方がええ。願いが美しいものだと信じとるんなら、感じとるんなら、なおさらや』


「まるで、オレを戦いに駆り立てるような。ゲームに勝って望む力を手に入れろと言わんばかりの!そんなことばかり言ってたのにおかしいだろ?」

「そうなんだ。確かに逆だな、変なの。怪しいっちゃ怪しいけど」


『望みを叶える方法があったらええのにな。そしたら人はなんぼか救われる。そう思わん?うまい話ってないんかなあ』


「それにしても……うまい話か」

「何だよ。何の話だよ。またそんなこと言って」

「いや、小島さんがそう言ってたんだよ。望みを叶える方法があったらいいよなって。でも、オレはそのうまい話を知ってるんだよ。だから」

「そんな話はうまくも何ともないって。まだそんなこと言ってんのかよ」


 レイが溜息をつきながらエイジから目を逸らした。疲れた顔を見せながら。


「だったら、悪いけど、オレが断言しようか。小島さん、超怪しい!駒じゃなくても、あっち側の人間だよ。騙されるな!田所さんにでも聞いてみれば良いんだ」

「……でも、最初にそうやって疑ってたって話はしたぞ?」

「なんて言ってた?聞いたか?」


 いつになく強い口調のレイに、驚きを隠せないまま、弱気に応えるエイジ。


「……聞いてない」

「聞けば?田所さんだけじゃなくて、他にもいろんな人に。だって、カナタですらお前と違うこと言ってたんだから。中緒兄とか、マドイさんとかさ。オレとか」

「そうするよ」

「気持ち悪いな」

「何だ、オレが素直に同意したら気持ち悪いってか!?」


 真顔で頷くレイ。エイジは怒るかと思ったが、笑っていた。あまりに珍しくて、本気で気持ち悪くて、彼は苦笑いするしかなかった。







 ぶつぶつ文句を言いながら、森林公園の奥地にある池の側で、機材を片づけていたカナタにイチタカは見かねて声をかけた。

「珍しいやないか。橘がそんなに文句言うなんて」

「……小島さん。オレ、何か言ってました?」

「めっさ言うてた。どないしたんや」

「……いえ、別に。オレに用ですか?」

 イチタカはにこやかに頷き、ナギ達の予定を聞いた。一緒に機材を片づけながら。

「オレは知らないですけど、エイイチロウさんなら、多分。こないだ送ってましたから」

「何でその人、一緒におらんの?さっき、木津にそん人と彼女と一緒だって聞いたで?」

 辺りを見渡すが、誰も見あたらなかった。

 天気がいいことも相まって、ここに来る途中、たくさんの人を見かけたが、この奥地まで来たら誰もいなかったので、イチタカはすぐにカナタを見つけることが出来たのだったが。

「彼女?」

「ナギさんの、妹さんの、姉の方」

「ああ……彼女じゃないですけどね、別に」

 彼は否定しながらも、少しだけ照れたような顔を見せた。普段、イチタカから見たカナタは抑揚のない男だったので、ほんの少し垣間見えたその情熱が、いかに彼にとって大きいのか十分すぎるほど理解できた。

「エイイチロウさんはバイクとりに行ってます。その間にこれ、まとめといてくれって言われてまして。マドイはどこかで着替えてるはずですけど。小島さん、エイイチロウさんのこと……」

 知ってるのか知らないのか確認しようとしたときには、既にイチタカは彼の横から立ち去り、木々の生い茂る森の中を進み、散歩道をバイク置き場の方へ向かって歩いていた。

「人が悪いな、あん人らも。素直に紹介してくれればええのに。相変わらずこんな人を試すような真似するんやもん」

 煙草に火をつけながら呟いた。コトコにされた木津詠一郎の話を思い出しながら、少しだけ暗く沈んだ胸の奥をさするように、手を当てた。

『彼はね、特別なのよ、このゲームの中で。びっくりしたわ、同じ大学にいたんだもの』

 彼こそが選ばれたものだと。コトコはそう言った。

『あいつは特別なんだ。マイペースで適当で、どうしようもないヤツだけど、あの方が認めた特別な男だ』

 カイトもまた、彼を特別視していた。だからこそ、ゲームから離れていた彼を、わざわざもう一度引き込んだ。

 カイトに言わせれば『ナギは特別ではない』。コトコに言わせれば『ナギは誰よりも特別』であると。けれど、その二人が揃ってエイイチロウのことを特別だと言った。

『あいつには別のミッションを与えてある。その助けをすることはあっても、邪魔をしてはならない。一度、挨拶をすると良い。小島くんの存在は、あいつにも教えてあるから』

 そう言ったカイトの台詞に、コトコは黙って微笑んだ。その行為が、イチタカには心臓に悪かった。彼らとの微妙な距離感を、自身の信頼度を、試されているようで。

 エイイチロウについて、ナギと繋がりがあること、駒の1人であるエイジの兄であることを聞いていただけだった。とりあえず、どこかで彼とも交流を持たなければいけないとは思っていた。

「携帯くらい教えてくれてもええのにな。ほんま、時々ああいう真似するんや。腹立つわ……」

 愚痴ってしまってから、あっと気付いて思わず辺りを見渡したが、ここが学園から随分離れていることを思い出して、胸をなで下ろした。常に自分は見張られているような気もしていた。

 とりあえず、言うとおりに彼と接触しようと、イチタカは煙草を噛みながら辺りを見渡す。出来れば、1人でいるときがいいと思いながら。

『何で、外部におった木津の兄貴が?』

 その疑問に、カイトは古い学園史を見せてくれた。今から9年前、つまり木津詠一郎がまだこの学園で中学生だった時のモノだった。

 表紙裏に貼られていた数枚の写真は、どうやらエディターとしてクレジットされていた、有志である学生達のスナップのようだ。その一枚に「左:中等部2年/木津詠一郎、右:中等部3年/向井嘉美」と書いてあるのを見つけた。彼は、今のエイジによく似ていた。随分小柄だったけれど。隣にいた向井という男子生徒が鍛えた体をしていたので、その体型差が余計に彼を小柄に見せていた。

『随分弱そうな人やな。こんな人が戦えるんか?ナギさんみたいに強いってことか』

『いや、中緒凪のような武道の経験は一切ないし、むしろ全くスポーツらしいモノは出来なかったな。大体、バスケ部にいたが、万年補欠だったしな』

 カイトの台詞に、コトコが「目に浮かぶ」と小声で溜息をついたのを見て、ますます判らなくなった。「けれど特別」と言われる、木津詠一郎の真価が。

 気付いたら、噛んでいた煙草の灰は全て落ちていた。仕方なく捨てるためにゴミ箱を探していたら、散歩道にカブが放置してあるのを見つけた。この先にあるバイク置き場から誰かが引っ張ってきたのだろう。おそらくこれがカナタの言っていたバイクのことだろうと踏んで、道を外れ、森の中を進む。

 青く生い茂る木々の間に、いっそう巨大な楠が生えていた。その木陰に椿山の制服を着た女生徒の後ろ姿を見つけた。一瞬、振り向いたその顔は、イチタカには良く見覚えがあり、初めてだったけれど、それがマドイであることを確信した。

 彼女がイチタカに気付いていないようだったので、声をかけようと一歩近付いた。その時、初めて彼女の横に黒いダブルガーゼのシャツを着た小柄な男性がいることに気がついた。カイトに見せてもらった、昔の彼の印象とは随分変わっていたが、成長を予想できる範囲の変化だった。

 ちょうど良いので、二人共に話をしようと思って、もう一歩近付いた。が、とっさに隠れてしまった。

 エイイチロウは彼女の頬を撫でると、そのまま両手で引き寄せ、キスをした。目を開けたまま、彼から目を逸らしていたマドイに何やら説教をし、目を閉じさせると、再びキスを繰り返した。

 

『ああ……彼女じゃないですけどね、別に』

 そう言いながらも、彼が彼女に必死になっていたのを知っていた。少しだけ、カナタが哀れになった。そう思うと、彼らから目が離せなかった。

 いつのまにか巨木の影越しに、エイイチロウがイチタカを見ていた。それにやっと気付いたイチタカは、無言で両手をあわせて謝るようなポーズをとった後、急いでその場を後にした。

「どうしたんですか?」

 真っ赤な顔のまま、マドイはゆっくり目を開け、エイイチロウを見つめた。

「いや。何でもない。良い子だから、これっきりな」

 髪をぐしゃぐしゃとかき乱すように、彼女の頭を撫でた。

「どうして?」

 彼女から逃げるように、木々の間を縫って散歩道に向かうエイイチロウを、後ろから追いかける。

「どうしてって……君、オレのこと好きかどうか判らないって言ったろ?だから、これっきり!自分に聞きなさい」

「だって、よく判らないんですよ?」

 彼のシャツの裾を右手でつまみ、彼を引き留めた。

「だから、そうやって男を振り回すなっつーの!知らないよ?襲われても。そんな隙だらけだと!」

「大丈夫ですよ」

「……ちゃんとオレにも暴力ふるいなよ」

 立ち止まって微笑んでみせる彼に、彼女は不思議そうな表情をして見せた。

「昨日は暴力反対って言ったじゃないですか。暴力じゃないですけど」

「いやなら抵抗しなよ」

「別にいやじゃないです」

 裾をつまんでいた手を引っ張り、彼女の体を強引に引き寄せ、抱きしめた。長い黒髪の匂いが、一瞬、彼の気を迷わせた。

「でも、オレのこと好きじゃないって」

「判らないだけです。だけど、いやじゃない。だって、何かどきどきして、おかしくなりそうだけど、何だか心地良いんです。ヒジリに申し訳ないけど、私……」

「ずるいって」

 彼女を抱きしめたまま、首筋に顔を埋めた。今の自分の顔を、彼女には見られたくなかった。

「ちくしょう、ナギめ。さっさと戻って、怒りに来いっつーの……」

 どうしても離れがたくて、彼女から手を離せない自分の弱さを、ナギのせいにした。







 すっかり荷物をまとめてベンチで休憩していたカナタは、イチタカの姿を見つけて小さく笑顔を見せた。イチタカは、まだ若いのに変な気遣いをする子やな、と思いながら、彼を憐れんでいた。


「小島さん、どこ行ってたんですか?」

「いや、探しに行こうと思たんやけど、よう考えたら橘の彼女も、木津の兄さんも顔知らんわ」

「彼女じゃないですって。知らないで探しに行ったんですか?せっかちですよね」

「何とかなると思てな」


 だってナギさんと似てるんやろ?と嘯いた。


「アグレッシブですよねえ」


 カナタはカバンに詰めた機材を自分の方によせ、隣を空け、イチタカに座るように勧めた。イチタカは思わず苦笑いをしながら、彼の隣に座った。しかしその表情を隠すように、いつものテンションを保ちつつ、カナタを指さした。


「そうでもせな、新しい出会いなんかあらへんで!橘は受け身過ぎやわ。少しは木津を見習ったらええねん。あいつ、何げにあちこちに知り合いがおるでな。口は悪いけど、わきまえとるっつーか」

「そうですよね。誰とでも気負い無く喋るし」


 それに助けられてきたこともあったのを、カナタは十分承知していた。そんなエイジに、ナギに対するほどではないにしても、羨望と憧れにも似た感情を抱いていたことも、今のカナタは理解していた。

 だけど、その思いは、ナギにもエイジにも似ているはずのエイイチロウにはどうしても抱けなかった。ずるいとしか思えないのだ。

 カブを引きながら、隣にマドイを連れて、こちらに向かってくる彼にだけは。


「悪いな、カナタ。片づけまで任せて。荷物積むわ」

「……いえ」

「そんな怒るなよ。返してやるから」


 困ったような台詞を吐くくせに、彼が嬉しそうにしているのを見て、カナタは訝しんだ。


「カナタ、知り合い?」


 エイイチロウは彼の隣に座る、見覚えのあるドレッド頭の男をちらっと見た後、マドイの表情を確認した。彼女はただ笑顔だった。


「あ、えと……同じ寮の小島さんです。文学部の1年生なんですけど、ナギさんとも仲良くて……」

「小島一崇です。よろしゅう。話は聞いてます。ナギさんの妹さんのことも。近くで見ると、ほんまかわええな。……ナギさんそっくりやのに」


 しれっと自己紹介をしたイチタカに、エイイチロウは少しだけ不愉快そうな顔を見せた。カナタにもそう見えたが、彼はすぐ笑顔に戻って同じように自己紹介をしたので、気のせいだと処理した。マドイは会釈をしただけだった。


「ナギさん、次はいつこっちに戻ってくるか、聞いてます?」

「週末だって言ってたけど。しっかし、インパクトあるよな、小島くん。カメラ仕舞うんじゃなかった」

「……カメラ?」


 不思議そうな顔でカナタに聞いてみたが、彼は苦笑いするばかりだった。


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