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第42話【続々々・ユズハ】

 深夜3時。地元の駅に降り立ち、タクシーを探すナギをユズハが出迎えた。


「お帰り、ナギ。もう師範はお休みだから、うちに泊まってけば?」


 遠くに見えるタクシー乗り場のあるロータリーに、見慣れたミニが停めてあった。


「……それは、まあ、ありがたいような、ありがたくないような……危険なような……。つーか、何でここにいる!何時だと思ってんだ!こんな時間に帰るなんて、オレは一っ言も言ってないぞ!」


 人差し指でびしっと指さして怒鳴りつけては見たものの、いつものことかと思って大きな溜息をついた。


「……聞きたくないけど、何でこの時間に帰るって、しかもこの駅に降りるって判った?」


 ここは地元の基幹駅ではあるが、ナギの実家からは少し距離がある。普段使う駅ではない。


「だって、お前のことだから、どんなに遅くとも明日の朝までには帰ってくると思ってたから」

「いや、だからって……」

「新幹線を使うほど金を持ってるとは思えないし、まあ、あったとしても最終か明日の始発だと思ってたから。新幹線の最終と始発なら、鈍行で最寄り駅まで行くだろ?それより、名古屋からなら、『ながら』の方が安いし早いし新幹線の最終より遅いし。で、『ながら』が停まるのはこの駅で、あとはこの近辺は停まらないから、ここからタクって来るかと思ったんだよ」


 本当は新幹線の最終で帰ってくるかと思って、時間を逆算した上で最寄り駅にも行ったが、彼の姿はなかったので、こちらに来たのだが。もちろんそれは内緒だった。


「うん。理屈は判るけど……」

「何で言葉を濁す?」

「いや、もう良い。そう言うヤツだよ、お前は。まあ、タク代浮くし、助かったよ」

「だろ?」


 文句を言いつつも、礼の言葉を述べるナギに、思わず顔が緩む。彼をロータリーに停めてある車に誘導するように、背中を押し、助手席に乗せる。ナギがシートベルトを締めるのを待ってから、ユズハは出発した。


「お前、あんな遅い時間に人からリスト聞きだしておいて、何か収穫はあったんだろうな?何も無かったっつったら、情報料、倍な、倍」

「ああ、そうか。なんか返すっつったもんな。何にしようかな」

「え、それって、お前主導?!」


 運転してるくせに、ナギに顔を向けて反論するユズハを、むっとした顔で一瞥する。


「何で?オレが返すのに?お前が権限持つの?意味わかんねえ」

「いや、普通、希望聞かない?なあ?」

「なに必死になってんだよ。どうして欲しかったんだよ?」


 時間にして30秒ほどだったが、そのナギの台詞に対して、ユズハが無言で口を開けたまま彼をぽかんと見つめていた。


「だから!前を見ろ!こっち向くな!」


 ユズハの左頬を掴んで、無理矢理前を向かせた。


「どうして欲しいっつーか……。その……こういう場合、いろいろあるだろうが」


 こころなしか、彼が照れたような顔をしているような気がしたのだが、車内は暗くてよく判らなかった。


「いろいろって?」

「そこはくみ取れよ!」

「わかんねえよ。それより、お前んちはこんな時間に大丈夫なのか?リノさんは?」


 話を変えられたことに、ユズハは大きく深呼吸をし、胸をなで下ろす。


「どこ行ってるかは知らねえけど、帰りは明日の朝だ」

「それで良いのか、お前んちは?!」


 道が徐々に暗くなり、繁華街から離れていく。それを見ながら、ナギもユズハも、自宅に近付いている安堵感に満たされていく。


「良いんだよ。そんなもんだ。あの人は、記号的な母親像には一切当てはまらねえよ」

「……うーん。そうなのか?そんな気もするな」

「お前、中緒の家に入るまでは、母親がいたろう?あんなんじゃないだろ?いや、師範の奥さんそっくりなら、ちゃんとしてるはず!」

「ああ、そっか。お前知ってるんだよな。オレ、中緒の母はどんな人なのか、全く知らないんだけど。でも、オレの母親も、リノさんみたいに働きながら家庭のこともしてる人だったし、やたら心配性だったし。違うかな?」

「それは、ちゃんとした働く女性の姿だ。うちの母親は遊び過ぎなんだよ。だから離婚する羽目になるんだ。師範の奥さんの方が、オレにとってはよっぽど母親みたいだったな」


 ナギは、こうしてユズハから聞く話でしか、中緒の父の妻の話を知らない。マドイやヒジリの記憶には幼すぎてほとんど残っていないし、中緒の父は話をしたがらない。ナギの家庭の事情のせいもあって、血縁上は叔父と甥という近い続柄であるにも関わらず、拾われるまでナギは、中緒家のことを全くと言っていいほど知らなかった。


「久しぶりに、墓参りにでも行くかな」


 道場の長い垣根が見えてきた。田舎と言うにも都会と言うにも中途半端なこの町で、中緒家も田所家も充分過ぎるほど豊かな家庭だった。

 ユズハは自宅のガレージに車を入れる。隣にもう一台入るスペースがあったが、空いていた。


「こんな中途半端な時期に?毎年、盆と正月に行ってるじゃねえか。ツーリング兼ねて。大体さ、盆なんかすぐだし」

「ツーリングって……お前、勝手に後に乗ってくるだけじゃねえか」

「プチトリップだよ。お前が中免取る前は、オレが乗っけてやったろ?涼しくて良いんだ、あっちの方は。冬はキッツいけど」

「今年もついてくる気でいっぱいだな、お前」


 嫌な顔をしながら、ナギは車を降り、田所家の玄関に向かう。その後をユズハが追いかけ、追い越して家の鍵を開ける。


「気が進まんけど……」

「何か言ったか?良いから入れ。明日も早いんだから」


 玄関を上がってすぐ、洋風の(ナギ曰くメルヘンチックな)リビングがあり、そこに入るよう、ユズハに促される。二人とも煙草を吸うからか、この家は全体的にたばこ臭い。

 促されるままソファに座り、ナギは開口一番文句を言った。


「たばこ臭くない部屋はないのか?」

「オレの部屋かな?」

「……知ってる。お前、ホントにそう言うとこ……」


 神経質だよな。と言ってしまいそうになって、ナギは口を噤んだ。


「それ以前に、オレの部屋以外、ほぼ使い物にならないけど」

「こんなに部屋があるのに?!」

「神経質な息子と、おおざっぱすぎる母親で何とかやってきてたのに、その神経質の方がいなくなったら、家は荒れるに決まってるだろうが。休み中に全部片づけてやる!」


 言うのを遠慮したのに、自分で言ってるよ。と心の中でのみ呟いた。実は、自分と一緒の部屋にいるのは苦痛じゃないのか?ともナギは感じていた。


「風呂は?」

「良い、明日の朝、家で入るから。ここで寝てても良い?」

「ダメ。母さんが帰ってきたら、お前が襲われるから」


 ナギの首根っこを掴むと、無理矢理引っ張った。


「いてえって!自分で行くから。あんまり……」

「あんまり?」

「いや……」


 あまりにも普通すぎるユズハの態度に、自分ばかりが彼を意識していることが恥ずかしくなってきた。


「何を今さら遠慮してるんだか。よく、人のベッド占領して寝てたろうが。第一、今は同じ部屋に住んでるんだし」


 あえてナギを追う形で階段を昇り、後ろから笑顔を見せた。その行為に、ナギは圧迫感を覚えた。

 ユズハが鍵を開け、扉を開ける。背中を押され、先に部屋に入れられたナギが振り返ると、ユズハが既に部屋に入って扉を閉めていた。ユズハの部屋は、ベッドもソファも大きく、寮の二人部屋よりずっと広かったけれど、それでも少しだけ怖かった。


「お前、そっちのソファね。それ、かぶって」


 部屋の隅に置かれた布張りの3人がけソファには、何故かタオルケットが用意されていた。ナギが来ることが判っていたかのように。


「このカッシーナで寝ろってか?」

「いいだろ、それ。つーか、うちの母親、高い家具を買うくせに、扱いが悪いから引き取った」

「……お前、これ欲しかっただけじゃん」


 そう言えば、寮の部屋に持ち込んだソファも、コンランで買っていたのを思い出した。節操がないと言いながら、ナギは買い物に連れ出された覚えがあった。


「あと、部屋着。その外着のままで寝るんじゃねえ」


 そう言って、ナギには明らかに大きいTシャツを手渡した。強制的なユズハの言葉に、彼の神経質さを見た。それがあまりにユズハらしくて、ナギはやっと笑った。


「なんだよ」

「いや、判った、着替えるから。なんだろう。反面教師なのかな、お前ら親子って。似てねえよな」

「五月蠅いな。うちの母親が突拍子もないだけだ。近所にあんな良い見本がいたにも関わらず」


 ナギに背を向け、着替え始めるユズハ。それを見て、ナギも急いで着替え、ソファに座り、タオルケットをかぶった。ユズハもまた、ナギの姿を確認することなく、ベッドに入り電気を消した。


「ホントは、どんな人だったんだろうな、師範の奥さんて」

「ホントはって、なんだ。オレの話じゃ信用できないってか?」

「そう言うわけじゃないけど。ユズハの話を聞いてると、師範の奥さんは、なんかメチャクチャいい女のような気がするんだよな。お前がそんな風に言うの、珍しいし。絶対初恋だよな」

「そんな不幸な初恋にするな。オレの人生のスタートは負け犬に始まり、負け犬に終わるってか?師範にだけはいろんな意味で一生勝てる気がしない……」


 暗闇の中、ベッドから聞こえるユズハの声は随分遠くに感じられた。ナギが目を凝らしてよく見ると、彼はこちらを見ず、壁を向き横になっていた。


「それよりお前、人から聞きだしておいて、収穫はあったのかよ?何様だ、お前は」

「コトコと話もしたし、横井とも会った。エーチロとも話をして、ヒジリにも会いに行った」

「あっそう。随分盛りだくさんだけど、一つでもまともに核心に触れたのはあるのか?」


 そう突っ込まれて、言葉に詰まるナギ。思わず、体をひねらせ、ソファの背に顔を埋めた。

 エイイチロウとは、核心に触れるような話はしていないが、それで良いというのがナギの結論だった。


「梶谷さんとゲームの話をしたんだ?」


 ユズハが、彼女が関係者であることを確信しているかのような口振りだったので、ナギは一瞬言葉に詰まってしまったが、気にしていない振りをして続けることにした。


「したよ。学園の中心にあるドームにも入れてもらった」

「へえ。そういや、ゲーム以外で入ったこと無いな。関係者以外立入禁止とか言われてさ。入れないことはないだろうけど」

「螺旋状で、まるでバベルの塔のようだったよ」


 ナギの台詞に、ユズハが鼻で笑った。しかし、彼が体を動かし、ナギの方を向くことはなかったけれど。ナギもまた、ソファの背に向かって話を続ける。


「バベルの塔って?天まで届く巨大な塔を作り、神の怒りに触れ、作った塔が崩壊し、人々は違う言語を話すようになったって言う、あれか?出来すぎた話だな。あれがまさにバベルだというなら、『望む力』だの、『願いが叶う』だなんて話は、まさに罪深い人間の愚かな欲望が生み出した戯れ言だな。なんだ、天まで届く塔を作って、神の側に行って、願いを叶えてもらうってか?」

「さあな。形がそうみたいだなって思って、笑っただけだ。そう言えばそもそも、バベルの塔って、何のために建てられたんだ?」


 あり得ない計画をバベルと呼ぶのなら。その根幹を知りたかった。


「さあ?あれは要するに、言葉がいろいろある理由を説く説話みたいなもんじゃないのか?それに、バベルの塔って、階段状じゃなかったっけ?」

「ドレの描いたバベルは螺旋状だよ。しかし、あれがホントにバベルなら」

「なら?」

「夢がないな」


 そう言って笑い飛ばしたナギの台詞に、ユズハも笑った。彼が1人でこそこそ動いていても、ユズハは平気だった。彼の表情が見えなくても、暗闇でも、光は見える。


「天に昇って、一体何が変わると言うんだ。天に一体何がある?誰も、なにもしてはくれないよ」

「そうだな」


 だから、自分が動くのだと。ユズハにもナギにも、お互いの心が判っているかのようだった。


「おかしいな」


 判っていると思っていたのは、ユズハだけだったのかも知れない。そんな不安に彼は襲われる。たった一言、ナギの疑問に満ちた声で。


「何が?」

「お前、そうしてると何も変わらないのに」

「変わらないって、失礼な」

「いつの間に、あんなにヒジリに嫌われてたんだ?あの子に、何かした?マドイはお前のことも兄弟みたいだって言ってるのに」


 冷たい掌が、ぼやくナギの頬に触れる。思わず体をのけぞらせ振り向くと、ユズハが傍らに跪いていた。


「……いつの間に?つーか、さわんなよ!」


 意志とは無関係に上気する頬に苛立ちながら、ユズハを怒鳴りつけた。


「ヒジリに、何か言われた?てか、どんな話してんだ。人の悪口ばっか言ってたんじゃねえのか?」 

「別に。ただ、あの子がお前のこと話す時って、なんか棘があるなと思ってさ。久しぶりに二人きりで話をしたから、なんかそう言うのがはっきり判ったって言うか……」


 起きあがり、彼からゆっくり距離をとりながら、ソファの背を伝って後ずさりするナギを、同じスピードでゆっくりとユズハが追う。


「反抗期じゃないのか?」

「もう高2だぞ?」

「お前なんか、年中反抗期じゃないか。いい年して」

「誰がだ。ふざけんな」


 怒鳴りつけながらも、ナギは必死で逃げようとしていた。


「お前だよ。大体なんだ。マドイはどうした?」

「いや、てっきり一緒にオレを待っててくれてるもんだと思ってたんだが、なんか、カナタやエーチロと一緒にいたらしい。だから……」


 可愛い妹の気遣いに、ユズハは心の中で舌打ちをした。


「……でも、ごめんな」

「え?」


 ソファの角から先に逃げ場を失ったナギは、あきらめたように肘掛けにもたれかかったままユズハに謝った。暗闇の中でも彼の表情がはっきりと判るくらい近かったのにも関わらず、やっぱりナギは真っ直ぐユズハを見ていた。申し訳なさそうな表情をしてはいたけれど。


「あの子が、あんまりにもお前のこと知らなさすぎるから。ユズハだって、辛いこともあるんだ、なんて言っちゃった」


 ナギはそう言いながら、妹を抱きしめた。子供をあやすように。

 昔のように、彼の妹は泣いたりはしなかったけれど。だけど、ナギに怒られ、しおらしくなっていく妹の姿を、彼は何とかしたかった。

 その行為が、ユズハのことを話したという申し訳なさと相まって、彼の表情を曇らせていく。


「意味が判らん。何でそれで謝るのか」

「だって。そんなの、よく無いじゃないか。今のユズハには関係のないことなのに。オレがあの子に話したところで、お前のことなんてお前以外の誰が正確に伝えられるんだ?」

「そらそうだが。お前が謝る必要はないだろう。お前は……」


 ナギに真っ直ぐ見つめられていることに、ユズハは初めて戸惑い、目を逸らした。


「……お前は、多分、他の誰よりオレのことを理解してるのに」

「そうか?」


 ナギが微笑むのを見て、ユズハも力無く笑った。彼の疑問を、肯定も否定もしなかったけれど。


「でもお前、オレの前と他のヤツらの前で、態度が違いすぎるんだよ。他のヤツらの話を聞くと、あまりにカッコつけすぎててびっくりするぞ。ずりい!だから、ヒジリまでお前を誤解するんだ。ユズハなんか、ただのかっこつけの甘ったれたお子さまなのに」

「誰がかっこつけの甘ったれだよ。失礼な。そんなに態度も違わねえし。お前の見方の問題だよ」


 そうユズハに言われ、思わず納得してしまった。普段ナギが人に言うように、ユズハも同じコトをナギに言っただけなのだから。

 さらにユズハは畳み掛ける。その様が、ナギに必死さを感じさせていることに、彼らしくなく、気付いていなかった。


「大体、お前だって、少しは態度が違うだろ?例えば、大学の友達と、妹や師範、橘や木津や小島君達。みんなお前との関わり方が違うんだから、多少は違って当然だろうが」

「そうだな。でもオレ、ユズハには甘えられてる気がするんだよな。何でかな?あんな目に遭わされてんのに」


 的確に痛い所を突く彼の言葉に、どうしても顔を真っ直ぐ見ることが出来なかった。


「甘えてるよ、オレは」

「……珍しい。認めちゃったよ」


 ユズハは、彼の顔を見ることは出来なかったけれど、彼にしがみつくことは出来た。そのユズハの行為に、僅かにナギは抵抗したけれど、体格と力では敵わなかった。


「何で人間って、手の中にあるものに満足できないかな?オレは、充分すぎるほど幸せなのに」


 突然のユズハの言葉に、今度はナギが戸惑った。


「幸せなんだ、ユズハ」

「冷静に考えるとね。だけど、オレはまだ足らない。求めている。求めすぎているのも判ってるけど、やめられない。期待しすぎることが、大事な人に負担を与えていることも判ってるのに。それでも、応えてくれると期待してる」

「確かに、相当甘えてるな、そりゃ」


 自分にしがみつくユズハの背中を、それから彼の髪を、ナギはそっと撫でた。小さな子供をあやすように。


「どうして欲しいのかも、くみ取れって言うのが特に甘えてら。甘ったれは躾て治さんといかんな」


 しがみつくユズハを突き飛ばす。その勢いでユズハはよろけ、バランスを崩してフローリングの上にしりもちをついた。

 彼が怒るかと思って、ナギは構えたまま彼を伺っていたが、彼はただ黙って笑みを浮かべていた。




 帰ってきたマドイに、礼を述べようと駈け寄ったヒジリだったが、彼女の様子がおかしいことに気付いて近付くのを躊躇った。玄関でゆっくりと靴を脱ぎながらも俯いたままの彼女を案じ、彼女から距離をとったまま、台所と寝室を繋ぐ扉から声を掛けた。


「マドイちゃんお帰り。随分遅かったのね。あのね、マドイちゃんのおかげでね……」


 ヒジリが喜んでみせれば、マドイも喜ぶ。悲しいことがあっても、それ以上に嬉しいこともあるのだと、ヒジリは彼女に伝えたかった。彼女に、自身のことをずっと案じていては欲しかったけれど。そのバランスを計算する強かさを持ってはいても、マドイのことを思う気持ちにウソはなかった。


「よかった。ヒジリ、嬉しそうで」

「あ……うん。でもマドイちゃん……どうかした?何かあった?やっぱり、ここに一緒にいた方が……」


 マドイは黙って首を振って、力無く笑顔を見せると、ゆっくりとヒジリの横を通って寝室に入った。自分のベッドにもたれかかり、座り込むと、ふと気付いたように顔を上げ制服を脱ぎ始めた。その様子をヒジリが心配そうに見つめながら、テーブルを挟んで彼女の向かいに座る。


「ねえ、ヒジリ」

「どうしたの?」


 制服を途中まで脱いで、中途半端にボタンをはずした状態のままぼーっとしていたマドイに突然声を掛けられたので、ヒジリはなるべく平静を装いながら応えた。やんわり彼女に今の状態を伝えてあげたかったけれど、いつものマドイからは考えられないくらいぼんやりしているので、どうして良いか判らなかった。


「どうしよう。ヒジリは、あの人のこと信用しちゃダメって言ったのに」

「あの人?」

「ああ……でも、信用とか、そうじゃないのかな?だって、誤魔化された気がするし」

「……もしかして、木津詠一郎さんのこと?ナギが、マドイちゃんと一緒にいるって言ってた。でも、橘君や木津君も一緒だって」


  マドイの顔を上目遣いで見つめながら、様子を伺う。彼女にはヒジリの声が聞こえていないかのようだった。声を掛けておきながら。


「エーチロさん、何だか兄さんみたいなの」

「……そうなの?」

「でも、兄さんみたいにすごくないの。力強くないの。かっこよくないの」


  ヒジリは真剣な顔で彼女の台詞に頷く。


「私のこと、子供をあやす様に扱うの」

「マドイちゃん。話が見えないけど、何が言いたいのかは何となく判ったから……」

「ホント?私、どうしたいんだと思う?」


  テーブルにひじを突き、口元を押さえながらおそるおそるヒジリにそう問うマドイ。しかし、その問いにヒジリは答えたくはなかった。


「橘君も一緒にいたんじゃないの?」

「カナタ?あとから合流しただけだよ?エーチロさんが呼んだの。『彼氏に噛みつかれても困る』って言って」

「橘君て、マドイちゃんの彼氏なの?」

「つき合ってるわけじゃないんだけど……誤解してるの、あの人」

「そうよね、そう言ってたもんね。仲の良い友達だって」


  胸をなで下ろす。エイイチロウのことは気に掛かるけれど。


「カナタのことをどう思ってるのか、自分でも少し判ってきた。すごく仲の良い友達だとは思うけど、すごく近い人だとは思ってるけど、あの人とずっと一緒にいるのは、多分あの人のことをほっとけないからだと思うの」

「ほっとけない?」


  マドイは黙って頷いた。


『……誤解しないでよ?子供をあやしてるだけだかんね』


  マドイがカナタを包むように抱きしめたのは、恵まれている自身に気付かず、自身を呪い続ける彼が哀れで。同情と正義感が彼女にそうさせていた。それはまさに、子供をあやす行為そのものだったと、彼女ははっきりと自覚する。

  エイイチロウもまた、彼女に対してそのつもりで抱きしめたのだと思ったら、心の奥底が少しだけ痛んだ。小さな針が刺さったように、微かだけど、いつまでも残る傷み。


「……ヒジリ、前に兄さんに抱きしめてもらったけど、それは子供をあやすのと一緒だって言ってた」

「え……。うん」


  顔を伏せ、照れるヒジリを見て、マドイは微笑む。嬉しいし、幸せだけど、悲しいと。相反する感情をヒジリが吐露したのをマドイは鮮明に覚えている。


「ナギにとっては、私は一生妹で、抱きしめてくれても……嬉しいけど、私の求めてるものとは違いすぎるもの」

「でも、抱きしめて欲しいのに?一緒にいたいのに?」

「それじゃ足らないのよ」


  力無く微笑む妹の姿に、マドイは初めて、自身の姿を少しだけ重ねることが出来た。


「でも、一緒にいられたら、やっぱり幸せだし。こうやって、時間と距離が解決していくこともあるのよ?」

「自分からは望まないの?ヒジリは望んでも良いって、二宮先生に言われてるのに」

「マドイちゃん?そんなこと……」


  ヒジリは必死に、彼女の表情を読みとろうとしたが、彼女はいつものような子供が持つ素朴な疑問をぶつけているだけのように思えた。


「望むことは、なにも悪くないのに。足らないなら、望めばいいのに」


  満ち足りているのに、それでも望み続けるカナタの姿が、マドイは嫌じゃなかった。


「ヒジリが本当に強く望んでいるのも知ってるし、でも、それを望むことを良いと思ってないのも知ってる。でも、私は強く望むってこと、判らなかったの。ただヒジリが辛そうにしてるのが嫌だった」

「良いのよ、マドイちゃん。だって、優しくしてくれるじゃない。私のこと、好きでいてくれるじゃない?」


  まるで、彼女の意志とは別の所で、漏れ出すように言葉を紡ぐ彼女の姿に、ヒジリが焦っていた。

  普段のマドイは、「ヒジリのためだ」とは言わない。だけど、全てを彼女に捧げてくれた。それをヒジリは誰よりも深く理解している。それは幸福だが、それを保つのは不幸だと思っていた。ヒジリの不幸を、マドイの不言が救っていた。


  それなのに。今日の彼女は、何かが壊れたかのように、話を続けていた。


「でも、まだ判らないの。判らないけど、少しだけ判ったような気がするの」

「マドイちゃん……」


  妹の言葉を遮ったことにも気付かずに彼女は喋り続けた。


「ヒジリのこと、理解したかったの。本当にそう思っていたの」

「うん」

「だけど、何か違うの。でも、判らないの」

「マドイちゃん、それは……」

「だけど、前よりヒジリが言ってたことの意味、判るんだ。嬉しいの、嬉しいはずなのに」


『オレに出来ることがあったら、頑張りますけど?これでも、お兄ちゃんだからね』


「ごめんねヒジリ。私、自分勝手だ」


 目を真っ赤にして潤ませたまま俯く彼女に、ヒジリはなにも言えなかった。



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