第40話【続・エイイチロウとマドイ】
「ユズハ。聞きたいことがあるんだけど」
ナギはドームの前で、コトコと別れた後、広場を見渡せる巨木にもたれかかり、ユズハに電話をしていた。空はすっかり暗くなっていた。
『なんのつもりだ。今は稽古中だ。てめえのクラスだろうが、この時間は』
あまりにいつも通りというか、自分が1人で学園に来たことを責める気のないユズハに、ナギからは思わず笑みが零れた。
「悪い悪い。頼むわ。……で、話なんだけど」
『なんだ』
「お前が、こっちで疑ってる連中。名前教えて」
ユズハが本当に言葉に詰まったのは、僅かな間だった。その後の沈黙は、ナギにはわざとらしく感じられた。
「ユズハ」
『お前は、なんと言っていいか……。そりゃ、オレの主観が入ってるけど、良いわけ?』
「あくまで、参考意見だから」
『判らなくなったなら、そうだと言えばいいのに。お前、バカなんだから。オレみたいな賢いヤツが傍にいないとダメなことくらい、判ってるくせに』
繰り返されるその言葉に、ナギはドームを見つめながら応えた。
「そうだな」
『……気持ち悪い』
「オレにどうしろって言うんだ!」
『冗談だ。読み上げるから、メモっとけ。場所移動するから少し待てよ?』
おそらく彼が、道場から廊下に向かっていることは、ナギには容易に理解できた。あちらで、誰かに気を使っているのだろう。
『いいか?まず、椿山学園理事会メンバー5人。文学部助教授、野崎織江。高等部美術科教員、梶谷琴子。同じく普通科教員、二宮海斗。中等部教員、佐野光晴。文学部2年、勅使河原順。高等部体育科、久野静流。同じく普通科、中緒聖。木津詠一郎。以上』
「……そうか」
自分の知ってる名前を改めて読み上げられると、予想以上に心が重かった。ユズハが、そんなことは気にせず、いや、気にしているからこそ、全ての疑わしきモノをフラットに扱っていると言うことは良く理解していたのだが。
『どんなに心を移していたとしても……』
「判ってる。それはお前のリストだし、それをお前はオレに一切、告げなかった」
微かに、ユズハの溜息が電話越しに伝わった。
「勅使河原って、イチタカの同居人のテッシーとか言うヤツだろ?」
『そうそう。そいつ、二宮海斗と梶谷さんとつながってる。あと、木津も二宮とつながってる、後ろでね』
「……コトコとつながってるのかと思ってた」
『さあね。そこは、オレは裏をとってない。お前も、疑ってはいたんだ。あんなこと言ったくせに』
ナギの答えを知っていながら、ユズハは意地悪くそう言った。これが、彼なりの答えなんだと。
物足りなかった。判ってて、受け入れるのは、自分だけにして欲しかった。そのユズハの欲望を、ナギは知る由もないと言うことを、ユズハは十二分に承知していたけれど。
けれどユズハには、そのナギの態度は物足りなかった。
「別に。オレは最初から、エーチロに関しては突っ込んでたろうが。いきなりここに来て、駒になってるのはおかしいって。ただ、誰にだって事情はあるし、仕方ないことはあるし。あいつが仮に主催者側にいたからって、オレの敵とは限らないし。それは、コトコもだ」
『……ああ、そう。オレは、そう言うのも含めて、全ての人間を並列に述べたつもりだったけどね』
ユズハの言わんとしていることが、ナギにはいやでも判る。それと同時に、彼の気遣いも充分伝わった。
自分が覚悟したから。だから彼もまた、情報を伝えてくれていることを。
「ヒジリも?」
『そうだよ。まあ、その辺の調査に関しては、オレは勝手に動くさ。オレとお前は、今はパートナーでもなんでもないんだから。敵に塩を送ってるようなもんだろ?これって。何か、返してもらわないと』
「そうだな。なんか要求する?情報料の代わりに」
笑いながらそう言ったナギの言葉に、ユズハは押し黙ってしまった。
「……どうしたんだよ」
『いや。うん。考えとく。師範が心配するから、さっさと戻って来いよ。何しに行ったか知らないけど』
「ああ。師範には適当に言っといてくれ」
『大体、オレに内緒で行ったのに、オレに電話したら意味がないんじゃねえ?』
「別に、内緒で出ていったわけじゃないだろ?師範から聞いたくせに」
『そうだな』
ユズハが笑う。それが、どれだけ自身を安心させたか、ナギは彼に教えてやりたかった。
「いいから、さっさと稽古に戻れ。オレの分まで頼んだからな」
『判ったよ』
いやに素直に彼の要求を聞き入れ、電話を切ったユズハが気持ち悪かったが、悪い気はしなかった。
電話中にとった走り書きのメモを見ながら、ナギは溜息をつく。
「椿山学園理事会メンバー5人……こんなの、どう切り込んでいけって言うんだよ。それにしても、結構いっぱいいるな」
そもそも、ユズハはどこからそんなことを調べ上げたのか。彼が疑わしいと思うからには、何かしらの理由があるはずだった。
「文学部助教授、野崎織江。これは多分ユズハが完全にマークしてるだろうな。普通科教員、二宮海斗。中等部教員、佐野光晴。……二宮は面識あるけど、佐野ってヤツは知らねえな。かといって二宮とつながってる話をエーチロに聞くのもな……」
ユズハに聞きました☆といって切り込むのは簡単なようで、それなりに気を使う。何より、エイイチロウがナギに対して敵意が全く見られないのだから、逆に突っ込みにくい。
彼が自分に対して敵意がないのは、コトコと同じ理由なのではないか?無理矢理仲間にされてるだけなのでは?と考えてしまう。その思いすら、ユズハは否定するだろうけど。
「文学部2年、勅使河原順。……テッシーなあ……。話が通じねえし」
イチタカに紹介されて話をしてみたものの、すれ違ってばかりで困っていた。イチタカともかみ合ってないように見えたが、仲は良いようにも見えた。
「高等部体育科、久野静流。コイツ、どっかで聞いたことがあるんだけどな」
唸りながら、必死で思い出す。
「あ。第1ステージで、タカオとか呼ばれてたヤツの相方だ。ユズハに切られてた」
未だに、気分が悪かった。ユズハが横井多賀夫に斬りかかったその行為を、久野静流は無言で睨み付け、責めた。その思いだけが、未だにナギの中に残っていた。
その思いの強さ、美しさだけが鮮明に思い出されるのに、彼をユズハは疑っているのだ。
動けるだけ動こうと決めて、戻ってきた。ユズハへの答えはそれからだ。
ナギは重い足取りで、暗くなった空の下、高等部へ向かって歩み始めた。
目の前に並んだ、空っぽになった皿を眺め、左手につけたスポーツモデルの時計で時間を確認し、エイイチロウは重い口を開いた。
何故か、目の前に座る彼女はあれ以来、顔を赤くしたまま俯き黙ってしまったから。
「もう遅いから、そろそろ出ようか。だいぶ長居してるし。帰りにくいなら、部屋まで送るよ」
レシートを持って立ち上がるエイイチロウに、マドイは首を振る。
「帰りたくないの?」
「もう少し……」
マドイは壁に掛けてあった時計をちらっと見て、彼に笑顔を見せた。すぐに、真っ赤になって目をそらしたけれど。
「じゃ、ちょっと外でも歩こうか。場所変えよう。つき合うから」
「え?」
「ここにずっといても、君、そうやって俯いたままでしょう?」
彼女の腕を掴み、引き上げる。
「え?あ、はい!」
「外で待ってて。すぐ行くから」
「あの、お会計……」
「ナギにつけとく。良いから待ってなさい」
「ありがとうございます」
エイイチロウの命令口調が、マドイには妙に心地よかった。彼女は彼の優しさと気遣いも、充分理解していた。だから、彼の言うとおり、店の外で彼を待つことにした。
「いつくらいに帰ればいいの、君は?」
「……12時くらい?」
「遅いなあ。君みたいな可愛い子が、そんなに遅くまで1人でふらふらしてるのは、どうなの?」
店から出て、カブを引きながら彼女の横を歩く。
「1人じゃないですよ。今日は、エーチロさんが一緒です」
「普段は、カナタか妹が一緒ってこと?」
「そうですね」
悪びれずにそう言うマドイに、エイイチロウは苦笑いを見せる。
「エーチロさんて、優しいですね。そう言うとこ、やっぱり兄さんみたい」
「優しいかな?」
「はい。偉そうですけど。ちゃんと最後まで、責任をとろうとするって言うか。別に、私のことなんて置いて帰ればいいのに。撮影も出来ないのに」
「一言余分だな。撮らせてもらえるなら、その方がありがたいですけど」
「ダメです」
はっきりと否定するマドイに、項垂れてみせるエイイチロウ。それを見て彼女が笑う。
「12時?あと、3時間くらいあるよね。どこで時間潰そうか」
「良いんですか?一緒にいてもらっても」
「だから、1人には出来ないでしょ?悪い人も多いよ?君がいくら強くてもね」
「大丈夫ですよ。でも、一緒にいてもらえるの、すごく嬉しい」
彼女の台詞に、いちいち反応してしまうエイイチロウ。他意がないことも、いつもこんな感じだと言うことも判っているのに、期待が彼の心を動かす。動かされまいと、彼は必死に別のことを考えようと努力する。
「なんで君、オレの顔を見なくなったかな。もしかして、照れてんの?」
「……少し」
「そうですか」
素直に肯定する彼女に、彼もまた照れてしまう。必死で話を変えようと、話題を探す。
「君さあ、何か好きな映画とかある?なんでも良いや。今はまってることとかさ」
「え?うーん……なんだろう。特に……。合気道は習ってて楽しかったけど、今はあんまりしてないし。あ、そうだ」
「なに?」
「君って呼ぶの、やめてもらえませんか?」
「そんなの、オレの自由じゃない?で、そんなんで、カナタと一緒にいるときとか、何の話してんの?」
唇を尖らせ、不満そうにしてみせるが、エイイチロウの顔は見ないマドイ。
「別に、大した話はしてません。たわいのないことって言うか。最近は、ヒジリの話とか、ゲームの話とかもするようになりましたけど。あ、そうだ。兄さんの話!」
「……共通の趣味がナギ……ですか。そうですか。ホント、お前らナギのこと好きだよねー。それは明るい話題だね。でもまあ、多少、重い話もしてるんだ。てっきり、そう言う話はしてないのかと思って、お兄さん心配しちゃったよ」
市街地から移動して、学園都市の中心部にある公園に向かう、遊歩道を並んで歩く。青く茂った銀杏の並木がライトアップされており、所々に並ぶベンチには、常連客と思わしきカップルの姿がちらほら見えた。
その、カップルの姿を見て、以前、カナタと一緒に来た公園が近いことを、マドイは思い出していた。ただ、そのことはエイイチロウには告げるつもりはなかったけれど。
「何で、心配ですか?『お兄さん』が」
彼の兄貴的態度を嬉しく思う反面、少しだけ不愉快にも思っていた。棘のある言い方だと彼女が反省する以上に、彼は敏感にその思いを感じとっていた。
「ただ、横に並んで歩いてるだけじゃ、一緒にいても長く続かないだろ?せっかく、長く、深い関係になろうって言うんなら、精神的にもつながりたいわけよ、オレなんかわね」
「わりと、ロマンチストなんですね」
「よく言われる。だから振られるんだね、多分」
タイミングも悪いんだろうと、反省する。自分のテリトリーに相手を入れた途端。重い話をしてしまうのは悪い癖だ。真面目な話をしたくないと、自ら口にするくせに、自分の重さを誰かに知ってもらいたくて、寄りかかってしまう。そのギャップの大きさに、彼自身も困っていた。
「さっきも言ったろ?君は何というか、1人で何かを抱えちゃってるって言うの?普通にしようとしすぎるから、辛くなるばっかりだって。それを、多少なりとも彼氏とか、あのダメな兄さん達とかに吐露してるなら良いけど。まあ、兄さんらには無理みたいだから、せめて彼氏にね。まだ、お子さまだから、ナギのようにはいかないだろうけど」
「そうですね。カナタのことは、頼りたいって言うより、守ってあげたい感じ。カナタは、私にしか言えないこともいろいろあるみたいだから。同じように、エイジにしか言えないこともあるみたいだし」
「頼りないってこと?多くを求め過ぎちゃいけないよ。それに、そのカナタの態度には見習うべき所がたくさんあるよ?君にも、エイジにも、ナギにも、彼は適度に甘えてる。君にはどうか知らないけど、それ相応のものを、彼はエイジにもナギにも返してると思うよ?」
微妙に離れた距離のままの彼女の指先をつまみ、引っ張る。
「片手でカブ引いてると、危なくないです?」
「大丈夫だって、こんな小さいバイクくらい。それより、もう少しこっちに来たら?声がよく聞こえない」
彼の態度に、誠意に、彼女は思わず嬉しくなり、微笑んだ。でも、彼がいま彼女にしているのは説教だ。マドイはぎゅっと唇を噛みしめる。
「でも、余計な心配とか、掛けさせる必要ないし。カナタなんか、ものすごく心配するんですよ。おろおろして。兄さんだって、多分大変だろうし……。ユーちゃんには、言えるけど、言えない」
彼女が抱えてるものの複雑さと重さが、彼女からの情報が増えるたびに明確になっていく。ただ、明確になるのは、彼女にどれくらいの重さでのしかかっているのか、ということだけなのだけれど。
「そう。確かに、ついた方がいいウソもあるし、幸せのために黙ってた方がいいことっていっぱいあるけど、でも、そのせいで君がつぶれちゃったら、周りの人はもっと心配すると思うよ?」
「どういうことですか?私がしてること、よくないってことですか?!」
「別に、君を否定も肯定もしない。でも、もう少し周りを見なよ。ナギも田所さんも、カナタも君のことすごく心配してるだろ?何とかしたいって思ってるわけだろ?だからこそ、ああ言う態度なわけだろ?君に対して」
彼は彼女から手を離さなかった。真っ直ぐ自分を見つめる彼の目に、彼女は照れながらも必死に抗った。
「でも!」
「オレだって、こんな短い期間だから、あいつらと同じとは言わないけど。君のこと心配になったよ」
その言葉に気が緩んだのか、真っ赤な顔で目を潤ませながら、彼女は彼を睨み付けながら叫ぶ。
「私のことは、別に良いんです。私は、何も願ってないし、望んでない。でも、あの子が!誰にも言えるわけがない!」
「ヒジリちゃんのことばっかじゃなくて、君自身のことも、もう少し考えなよって言ってるの。怒ってるわけじゃないんだってば」
「でも、私……ヒジリのこと……」
泣きだしてしまったマドイにほとほと困り果てたエイイチロウは、再び彼女の指先をつまみ、手を引き、あやすが泣きやまない。
仕方なく彼女を公園の中を連れ歩き、彼女をベンチに座らせ、ここで待ってるように伝えた後、カブを止め、歩いて自販機に向かいながら、ナギに電話する。長いコールのあと、やっと彼が電話に出たときには、思わず溜息をついてしまった。
「おたくのお嬢さん預かってますけど?今どこよ?」
『どこの誘拐犯だ、貴様。なんで一緒にいる?マドイの帰りが遅いと思ったら!何してやがる。マドイ達の部屋だよ。さっさと連れて帰ってこい!』
「……は?え……と。てことは、ナギさんは妹さんとご一緒?2人きり?」
『そうだよ。2人きりってなんだ、兄妹だぞ?』
マドイの傍で電話しなくて良かったと、心底ほっとした。
この瞬間、彼は全てを悟ったのだ。マドイが、愛する妹のために、彼女に至福の時間を与えるために、1人でここにいたということを。ヒジリの相手がナギだったから、彼女は黙ってしまったことを。そして、誰にも言えないと、泣き叫んでしまったことを。
昼間、ナギに電話をしていたのも、妹と2人で会わせるためだと。何かしら根回しはしているのだろうということは理解していたけれど、彼女の妹とつながることには驚いた。
「……えっと。もうしばらく連れまわしてて良い?カナタ達も一緒だし。たまには夜遊び位させてやって」
彼女の兄を安心させるための、とっさのウソに、彼は心底ビビっていた。経験上。ナギにウソは突き通せない。あの真っ直ぐな彼には。
『あのなあ。何時だと思ってやがる』
「酷いな。娘の恋路を邪魔するオヤジかお前は。ちゃんと送るから安心しろって、もう」
『お前、守られる方じゃねえか』
ナギの笑い声に、エイイチロウはゆっくり受話器を離し、静かに携帯を切った。怒ってないから大丈夫だろうと判断し、両手に缶珈琲を持って、再びマドイの元に戻る。
「ほら。泣きやまないと帰れないだろ?手え引いてあげるから。帰ろうか、お嬢さん」
珈琲を手渡し、彼女の手をとり、あやす様は、子供のそれに対するモノだった。マドイはそれに安心もしたし、甘えもした。しかし不満も抱きながら、でも照れくさそうに彼の手を取った。
「……逆になっちゃった。エーチロさん、私の顔を見てる」
「お子さま相手に照れても仕方ないし」
「酷いな……」
「冗談だよ。慣れただけ。あんだけ顔つきあわせて話してたら、流石にね。だって、いつまでも慣れなかったら、友達も彼女も出来ないだろ?それに、逆じゃないし。君はオレのこと見てるし」
「見れないよ……」
指先をつまむように彼女の手を握る彼の行為が、彼女の鼓動を早めていくのが判る。カナタと手をつないで帰るのとは明らかに違う感覚だった。
「なんで急に泣き出しちゃうかな?オレに出来ることがあったら、頑張りますけど?これでも、お兄ちゃんだからね」
そう言っては見たものの、彼女が泣き出す理由なんて、妹のためでしかないことも、今夜話してみてよく判った。
やっと、彼女といることに慣れてきて、照れながらも彼女の顔を見ることができるようになったのもつかの間、今度は彼女が照れていたことにエイイチロウは驚いていた。照れながら、涙を止められない彼女。
「大丈夫?妹さんとかナギとか、心配してないかな?」
泣きながら、黙って頷くマドイに、エイイチロウは溜息をつくしかなかった。
彼女は彼らにべったりと寄りかかってる振りをしながら、こうやって1人で悩み、動き、苦しんでいる。彼はその彼女の思いが、痛いほど理解できた。何故その痛みを、他の彼女を大事に思う人々の前ではなく、こうして自分の前で、吐露しているのかは判らないけれど。
「カナタ呼ぼうか?彼氏だろ?よその男の前で泣いてるなんて知ったら、いくらあの暖簾のような坊ちゃんでも怒るだろ?」
「……」
「こういうときこそ、頼ってやらんと」
彼女は泣いたまま、やはり黙って今度は首を横に振った。
「困ったな」
帽子を目深にかぶった後、彼女の頭を撫でながら、困った顔を見せる。
「オレで良いんですかね、こういう状況で隣にいるの」
彼女は頷く。彼の目を見ないまま。その行為に少しだけ、エイイチロウの心が動く。彼本人が望まぬ方へ。
「なんでカナタじゃダメかな?つき合ってんだろ?そんなんじゃ、すぐダメになっちゃうよ?……まあ、人のことは言えないんですけれども?」
自分が今までさんざん振られてきた思い出を振り返りながら、彼は助言したつもりだった。
「……つき合ってるわけじゃないんですけど」
「ああ、そう。……またまた」
「そう言うの、よく判らないですし」
「いや、傍目から見たら、あれはつき合ってるって。好きなんでしょ?」
「嫌いじゃないですけど。どっちかって言うと、好きですけど。カナタにもそう言ってるし」
「ずるいな。それは、男は振り回されちゃうって」
マドイは首を横に振る。
「帰りたくない」
そう言った彼女の気持ちが判らないでもなかった。だけどその台詞に、さらに心を動かされる彼自身に今度は戸惑った。
「泣きやんだら、帰ろうか。もう、夜も遅いし」
彼女をベンチに座らせ、彼女の向かいに膝を曲げ座り込む。
「なんですか?」
「子供と話すときは、基本、同じ目線で……」
「普段も同じ目線じゃないですか」
「うわ、傷つくな。ちょっとだけ高いじゃん、オレの方が。ナギよりでっかいって、オレ」
「身長、幾つですか?」
「170……公称?」
「なんですか、公称って?」
その時点でマドイより低かったので、彼女はそれ以上突っ込まなかった。
「まあ、オレが言うのもなんだけど、こういうときは、ちゃんと顔を見た方がいいと思うわけよ」
「平気なんですか?」
「オレだって、真面目な話をするときくらい、頑張って人の顔を見ますけど。まあ、あんまり真面目な話するの、嫌いなんだけどね」
「さっきも言ってましたよね。なんで、嫌いなんですか?」
「だって、人生なんて、楽しく、明るく、朗らかに過ごしてた方がいいじゃない。知らない方が良いこととか、知る必要がないこととか、考えなくても良いこととかあるじゃない。だから、面倒だろ?そんなの、自分の中で完結して、分かち合える人とだけ分かち合えばいいじゃない。嫌がられるだけだろ?そんなの。でも、近くになった人とは、そう言う話がしたいじゃない。覚悟を決めた相手とはさ」
真っ赤な目をしたまま、彼女は真正面から彼を見下ろした。
「エーチロさんて、兄さんに似てると思ってたけど、そうでもないですね」
「一緒にしないでよ」
「うん。全然似てない。だって、兄さんと話してるような気がしてたけど、全然違う」
彼はその話を聞きながら、うんうんと頷き、缶コーヒーを口にする。
「なんか、どきどきするんです、ずっと」
彼女の台詞に、思わず珈琲を吹き出すエイイチロウ。
「……漫画か、オレは!てか、君も!何言ってんだ!どきどきって、言ってる意味、判ってんの?男振り回すなっつーの!」
「よく、判んないですけど。だって、こんなの初めてだし」
「勘違いだって、もう。あんまりそう言う不用意な発言しちゃダメだって。君は子供だから、判んないのかな」
「そうかな?」
「そうなの!」
完全に振り回されたあげく、目の前の子供に、どうしようもないくらい心を動かされてる自分が、恥ずかしくて仕方がなかった。真っ赤になって、結局彼女と目が合わせられず、俯いてしまった。
「勘弁してよ……」
「どうして?」
真っ赤になりながらも、頭を下げ、頭を抱えるエイイチロウに顔を近付けるマドイ。
「だって、君ね、オレはこう見えてもエイジのお兄さんですよ?威厳無いように見えるかも知れないけど」
「威厳よりも、音信不通の方が問題だって、兄さんが言ってましたよ?それに、なんでエイジ?」
「だって、君ね、エイジとカナタはあの通り仲良いだろ?で、君とカナタはつき合ってるわけでしょ?それに君は、ナギの妹でもあるわけだし。カナタとナギも仲良いし。そんなめんどくさいこと、ちょっと勘弁だな。いくらなんだって、エイジに申し訳ないだろ」
「だから、つき合ってませんよ?」
「それは、君が判らないだけなわけでしょ?さっきの台詞から察するに」
むっとした顔で、でも真っ赤なまま、彼女は彼を睨んでいた。その表情と距離の近さに、彼もまた顔を赤くする。
「……君、オレのこと好きなの?」
「そう言うのかどうかは、よく判んないです。どっちかって言うと、好きかな?」
何となく、彼女の返事は判っていたけれど、安心するために聞いたのだけれど、予想通り過ぎる返事に、へこむエイイチロウ。
「そう言うのって、すぐ判るもんなんですか?」
「さあ。判るとか判らないとか言うもんじゃないと思うし、人によるんじゃない?それにしてもずるいよな。しかし、高校生にもなって、わけの判んないこと言ってるよな。オレですら、中学生の時には彼女いたのに。振られたけど」
「私、もう高校生なんですけど」
「高校生の時は、2人目の彼女ができました。振られたけど」
「自分で振られたって言うたびにへこむの、やめてくれませんか?そう言う気持ち、よく判らないし。でも……」
彼女は一瞬、遠くを見つめる。しかし、目の前で照れくさそうな顔をしながらも、彼女を見守るエイイチロウの顔を見て、思わず
「羨ましいし、理解してあげられたら、もっとあの子と、悲しみを分かちあえるのかもしれない」
「……なんか、君は子供のフリして、ホント、抱えてるモノが重いよね。めんどくさいコトしてるよ」
エイイチロウは彼女の隣に座り、引き寄せ、抱きしめた。彼女を包み込むように。
あの時、妹と義兄に電話をしていた彼女も一緒に。
「……誤解しないでよ?子供をあやしてるだけだかんね」
「知ってます。兄さんもそうしますから」
「あ、そう。それは職権乱用だな。妹とは言え、こんな可愛い子を抱きしめるなんて。ずるいぞ」
「私にじゃないですよ」
それは罪作りな。
さすがに、彼女にそうとは言わなかったけれど。
「あんまり悲しいこと言わないの。普段からは想像できないよ?そう言う悲観的なところ。良く言うだろ?恋をしたら、悲しみは半分に、喜びは2倍にって。恋愛物の幸せなシーンの、永遠の風景だね」
出来すぎた幸せな台詞に、心の中で舌打ちしながら、彼は目を閉じた。
「……それは、相手のことをよく判ってるからだと思うの。私は、あの子の世界を何も知らない。悲しみが多いことだけしか判らない」
「まあ、全く同じモノを見ることは出来なくても、同じように、人を好きになってみればいいじゃない。そうすれば、彼女とは違う喜びと悲しみがあるかも知れないけど、少しは同じステージに近付けるかもよ。せっかく彼氏いるんだからさ」
「……だから、彼氏じゃないですってば」
抱き寄せる彼の腕に、マドイは寄りかかる。涙は止まらないまま、顔を真っ赤にして。
「それは、まずいって。男の人の怖さを知らないな?君は。とりあえず、うちのバカと君の彼氏呼ぶから。それまでには泣きやむんだね」
「なんで?」
「だって、部屋に帰るときに、オレと2人だけで戻るより、戻りやすいだろ?」
不可抗力ながらも、部屋にナギとヒジリが2人だけでいることを確認してしまったことを誤魔化すために、必死に繕う。
「そんなもんですかね」
「そんなもんです。真っ赤な目をしちゃってんのに。あとで、彼氏に怒られんのもやだしね。最近噛みつかれちゃって困ってんのよ」
その台詞に、ウソはなかった。
彼女を抱き寄せたまま、エイイチロウは弟に電話を掛ける。それを彼女は目を閉じ、聞いていた。
「このまま」
「なに?……あ、いや、こっちのこと。近付いたら、電話しろよ?ok?」
「このままでいたい」
彼女のその言葉を聞かなかったことにして、エイイチロウは電話を切った。彼女の肩を抱き寄せていた右手を滑らせ、彼女のうなじを撫でてから、頬を撫で、両手で自らの方へ引き寄せる。
「君は、あんまり不用意な発言をしないこと」
唇が触れるか触れないか、ぎりぎりの近さで、彼は彼女に説教をする。うっすらと汗を掻いている掌が触れていたから、彼が必死に彼女を見つめていることが、彼女にはよく理解できた。
「思ったままです」
エイイチロウは彼女の唇を唇で撫でた。もう一度撫でてから、強く吸い付き、それを何度も繰り返す。
「あんまり男の人を舐めてると、こういう目に遭いますけど?オレ、弱そうに見えるかも知れないけど、これでも君より6つも上の男ですから?」
「知ってます」
「……動じないね、君」
余裕すら感じられる彼女から、離れがたくなってしまった自分に、自己嫌悪してしまう。いつの間にか泣きやんでいた彼女を、抱き寄せるのをやめようと思っていたのに、体を預ける彼女を引き離すことも、自らの手を離すことも出来なかった。
どれくらいの時間がたったか、マドイにもエイイチロウにも判らなかった。2人は身を寄せ合ったまま、たわいのない話と、重い話を繰り返していた。ファミレスで向かい合わせで話していたときと同じように。
エイジから電話が来た途端、エイイチロウは思いだしたように彼女の体を引き離し、エイジに道案内をする。少しだけ、マドイが恨めしそうに彼を見つめていた。
「呼び出された意味が判んないんですけど。つーか、こんなカップルばっかの公園に、男2人で歩かせるな!」
いつのまにか、会社帰りのカップルや学生カップルで、静かににぎわっている公園を、巨大な男子学生2人で歩かされ、些か不愉快な顔のエイジ。気にしすぎだと兄に笑われたので、いつものように兄にケリを入れた。そんなエイジの後ろでカナタが苦笑いをしていたが、マドイの様子を見て、顔色を変える。
「……どうして2人で?」
「噛みつくなって、カナタ……。たまたまだだよ。彼女が1人でいるところに、いつものようにカメラ担いで声かけただけ。大体、マドイちゃんはカナタに連絡したって言ってたのに、ほっとく方が悪いだろうが。ほら、隣代わってやるから。エイジ、ちょっと面貸せ」
ベンチに座るマドイの隣を明け渡し、エイイチロウは弟の肩を掴んで彼女達から距離をとった。
これ以上深入りしないために。