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さて、イオは例の如く病院に来た。
迷いもせず廊下を進み角を曲がり階段を登っていく。
元々人気の無い静かな院内でも、それこそ誰も気が付かないような奥まった一角にある白い扉のノブに手をかける。
思い出したように軽くノックをして扉を開けると、
其所には白く小さな寝台と白い木製の戸棚と白い円卓と椅子がに二脚在るだけである。
壁も床も天井も、カーテンすら白いその部屋は彼女が長年通うそのまま、
一度も全く変わらない見慣れた景色である。
そしてその部屋で唯一白を持たないもの、部屋の主もまた長年全く変わらない。
真っ黒な長い黒衣にまるで幼くしかし整った顔。
果たして何歳なんだろう。
尋ねてもはぐらかされる。
本人も憶えていないのかも知れない。
知らなくても支障は無いため既に知る努力は放棄したが、イオはこの部屋に入る度思う。
タナトスに干渉できる事なんかより余程この人の方が凄いのではないかと。
そして空いた椅子に腰掛ける。
次いで黒衣の医師は戸棚から小さな機械とアンプルを取り出し、
慣れた仕草で準備するとイオの頸に充てる。
穏やかな沈黙。
時折、頸に充てられた機械から微かな振動音が響く。
暫くしてイオが口を開く。
「関谷、まだ禁煙してるの?」
関谷と呼ばれた人物、黒衣の医師は機械を支持する手を動かすことなくさも面倒な様子で口を開く。
「ったりまえだろ。味覚が麻痺しはじめちまったんだから、辞めるしかねーよ。煙草にまで変なもん入れやがって」
「…ふうん」
そしてまた訪れる沈黙。
ちりん、と鈴の鳴るような音がして、機械が止まった。
頸から外される。
幾度となく繰り返された行為。
「終まいだよ」と言いながら関谷は機械を戸棚に戻し空になったアンプルを棄てる。
イオは座ったまま呟く。
「有難う。…疾うにもう、薬を打ちに来るのを忘れたり、打たなかったらどうなるかなんてするのを止めたけど、
それでも、打つ度自分は救いようの無い程欠損為てるんだって思う」
関谷は何も言わない。
窓から陽光が差し込む。
その温かさに、イオは、少しだけ、失った心が動かされる気がする。
幻肢痛のように。
関谷が戸棚から、菓子と魔法瓶を取り出し、ちょっとしたお茶会の用意をする。
そしてイオの対面に座ると言った。
「食え、旨いぞ」
イオは殆ど解らないくらいに微かにしかし確かに口角を上げ、微笑んだ。
そしてうなづき、菓子を口にする。
関谷は誰に対しても何に対しても厳しく、
同様にこの小さくて狭くて遠い奥まった角の小部屋を使い続けるような人物である。
諸々の事情により滅多に外に出ることが叶わないイオが唯一堂々と訪れる場所は、
だから陽当たりの良い穏やかなままなのである。
イオの耳元でフルフルと振動が生じる。
暫く続くそれは一種の暗号であり、発達した伝達手段である。
受信するイオの表情が僅かに硬化する。
よく見ないと気付かない程度に。
尋ねなくともわかる。
「仕事か」
「そう」
最近の仕事はタナトスに関連した犯罪の調査、研究が大部分を占めている。
無論、タナトスなど通常の状況では関連しえない為、彼女の扱う物は多かれ少なかれ異常性を有している。
幼く特に特異な環境も相まって自我を確立出来ていない不安定な少女に
そのような異常者とばかり深く関わらせるのは好ましくない、
と思うのも事実だが関谷は踏み込まずただ彼女が壊れないようにと軽く支えているだけである。
大切なのは距離感。
新たに舞い込んだ仕事はタナトスになり目覚める事無く眠ってしまった女性の調査という事であった。
イオの仕事を選び調整して連絡してきたのは海といわれる人工知能である。
海は女性の居場所や詳細を伝えると最後にこう付け加えた。
「還らずの森の悪魔も行く、とのことです」
それを聞いたイオは少し笑った。
通信は一方的に切れる。
イオは関谷に言う。
「しぃも行くって。面白くなりそうだ。関谷も行く?」
「行かない」
「行こうよ」
「行かない」
「行くんだ」
承諾の返事はしないが、関谷は黒衣の替わりに黒い外套をはおった。