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攻略対象全員の人生を導いた悪役令嬢を導いたのは、前世でプレイしたゲームにはいなかった図書館の司書補でした  作者: 月雅


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第9話「宰相の視線」

婚約解消の手続きが宰相府に届いたのは、父の返書を受け取ってから数日後のことだった。父が宰相に連絡を取り、宰相府での審査準備が整った頃だろう。


その事実を私が知ったのは、宰相ヘルムート・フォン・ツェーリンゲン本人からの呼び出しによってだった。


放課後、教室を出ると廊下にマティルダが立っていた。その表情が硬い。


「アネリーゼ様。学園長室に宰相閣下がお見えです。アネリーゼ様との面談を希望されているとのことです」


宰相が学園に来ている。学園長室を使うということは、正式な訪問だ。密かに会うのではなく、学園側の承認を得た上での面談。


マティルダが以前言っていた「見慣れない文官の出入り」が、頭をよぎった。あれは宰相府の人間だったのだろう。学園内の動向を監視していた密偵。その報告が宰相に届き、そして今日、本人が来た。


「分かったわ。ありがとう、マティルダ」


「お気をつけて」


マティルダの声には、いつもの軽さがなかった。宰相という存在の重さを、彼女も理解している。


学園長室は本館の三階にある。階段を上がりながら、呼吸を整えた。


宰相ヘルムート・フォン・ツェーリンゲン。侯爵家当主にして、王国の政治を実質的に動かしている人物。ゲームには名前だけが登場する存在だったが、この世界では生きた人間として目の前に現れる。


私が知っている情報を整理する。三十五歳、未婚、冷徹な実務家。婚約解消の手続きにおいて宰相府の審査を担う人物。父が「宰相にも話を通す」と書いていた。つまり父はヘルムートに連絡を取り、私の意思を伝えた。


ヘルムートが私に会いたいと言ったのは、手続きの確認のためだけではないだろう。学園内での私の行動を把握した上で、直接会って何かを確かめたいのだ。


学園長室の前に着いた。扉の横に、宰相府の紋章入りの外套を着た文官が一人立っていた。私の顔を確認し、無言で扉を開けた。


「失礼いたします」


室内に入った。学園長の姿はなく、代わりに窓際の椅子に一人の男性が座っていた。


ヘルムート・フォン・ツェーリンゲン。


黒髪を後ろに撫でつけ、灰色の瞳をしていた。顔立ちは端正だが、温かみのない整い方だった。書類を読んでいた手を止め、こちらを見た。


「グランツ公爵令嬢。座りたまえ」


声は低く、平坦だった。感情の起伏を意図的に排した声。王族以外では最も権力を持つ人物の声としては、あまりにも静かだった。


「ありがとうございます、閣下」


私は指定された椅子に座った。机を挟んで向かい合う形になる。机の上にはいくつかの書類が並んでいた。


ヘルムートは書類を脇に寄せ、腕を組んだ。


「単刀直入に聞く。君は何を目指している」


前置きがなかった。社交的な挨拶も、体裁を整える言葉もない。宰相としての効率がそうさせるのか、それとも私を試しているのか。


「お答えする前に、閣下がどこまでご存じなのかをお伺いしてもよろしいでしょうか」


ヘルムートの眉がわずかに動いた。


「いいだろう。君が学園二年目に入ってから行った行動の概要は把握している。騎士科首席のクラウス・フォン・エッシェンバッハとの対話。図書館長の息子セバスティアン・ヴィントへの接触。聖女候補エルヴィラ・メッツラーとの対話。学園内の噂への対処。そして王太子殿下への婚約解消の意思表示」


全て知っていた。


学園に配置された密偵の報告。教員の一部が宰相府に報告義務を負っているという仕組み。学園内の政治的動向は一日遅れで宰相府に届く。私の行動は、最初から監視されていた。


「閣下」


「何か」


「私の行動をご存じの上で、なぜ直接お会いになるのですか」


ヘルムートは表情を変えなかった。


「報告書では分からないことがある。動機だ。君が何を考えてそれらの行動を取ったのか。報告書には行動しか書かれていない」


私は姿勢を正した。


ここが分岐点だ。嘘をつくか、本音を話すか。


嘘をつけば安全だが、この人物に嘘が通じるとは思えなかった。宰相府の審査を通さなければ婚約解消は成立しない。ここで信用を失えば、手続きが滞る。


本音を話すことにはリスクがある。けれど、ゲーム知識のことを話す必要はない。前世のことも話さない。ただ、自分が本当に考えていることを、この世界の言葉で伝えればいい。


「この国の人材が、最適な場所にいないと感じています」


ヘルムートの目が、わずかに細くなった。


「続けたまえ」


「クラウス様は剣の天才と評されていますが、ご本人は自分の強さが何を守るためのものか問うたことがありませんでした。セバスティアン様は優れた研究者ですが、父上の権威の影に隠れて自分の名前で論文を出せずにいます。エルヴィラさんは聖女候補としての期待に応えようとするあまり、治癒の研究という本来の志を後回しにしていました」


「それを君が正したと」


「正したのではありません。問いかけただけです。あなたが本当にやりたいことは何ですかと。答えを出したのは、本人たちです」


ヘルムートは黙った。腕を組んだまま、私を見ていた。その沈黙は長く、重かった。


「婚約解消も、その一環か」


「殿下にも同じことをお伝えしました。恋愛より先にやるべきことがある、と。殿下は考える時間がほしいとおっしゃいました」


「知っている。王太子殿下からも合意の書面をいただいている」


息が詰まった。


殿下が合意書面を出していた。「考える時間がほしい」と言った後、殿下は自分の答えを出し、宰相府に書面を提出した。私に告げることなく。


「殿下は」


「君に直接伝えるべきだったかもしれないが、殿下の判断だ。手続き上は、当事者双方の合意が確認された。次は両家の署名だが、グランツ公爵からも既に意向は受けている。宰相府の審査はこれから行う」


手続きが進んでいた。私の知らないところで、確実に。


ヘルムートは腕を解き、机の上の書類を一枚取り上げた。


「グランツ令嬢。もう一つ聞きたいことがある」


「はい」


「君のやっていることは、要するに人材の適正配置だ。個人の資質を見抜き、適切な場所に導く。それは宰相府の人事局が本来やるべき仕事だ」


私は答えなかった。


「卒業後、宰相府で働く気はないか」


予想していなかった言葉ではなかった。けれど、実際に聞くと重さが違った。


宰相府。王国の行政機関の頂点。そこで働くということは、この国の人材配置を公的に担うということだ。前世のカウンセラーとしての知識と経験が、この世界で形を持つ場所。


即答したい自分がいた。けれど。


「考えさせてください」


ヘルムートの口元が、ほんのわずかに動いた。笑ったのかもしれない。表情の乏しい顔だったから、確信は持てなかった。


「面白い」


それだけ言って、ヘルムートは立ち上がった。


「婚約解消の審査は速やかに進める。公示の日程は追って通知する。グランツ公爵令嬢、今日は時間をいただいた」


「こちらこそ、ありがとうございます、閣下」


私は立ち上がり、深く一礼した。ヘルムートは外套を手に取り、扉に向かった。その背中は、侯爵家当主というよりも実務官僚のそれだった。


扉が閉まった。


学園長室に一人残された私は、椅子に座り直した。手が震えていた。緊張が解けたためだろう。


宰相に認められた。婚約解消が正式な手続きに入った。殿下の合意書面も提出されていた。全てが、想定よりも早く動いている。


高揚感があった。シナリオ外の権力者が私の能力を評価し、将来の道まで提示した。前世の経験が、この世界で価値を持つことを初めて公的に認められた。


けれど同時に、問いが残った。宰相府で働くことが、本当に私の望みなのか。人を導く力がある。それは分かっている。けれどそれは「やれること」であって、「やりたいこと」なのだろうか。


私はいつも、自分以外の誰かの最適な場所を探している。クラウスの、セバスティアンの、エルヴィラの、殿下の。けれど自分自身の最適な場所はどこなのか。


その問いに、まだ答えが出ない。


図書館に向かった。


もう夕刻に近かった。宰相との面談は思ったより長かった。書庫で作業する時間は残り少ない。けれど、ここに来たかった。


受付にルーカスがいた。台帳を整理する手を止め、私を見た。


「今日は遅かったですね」


声がいつもより低かった。


ルーカスはそれ以上何も言わなかった。鍵を差し出し、台帳に私の名前を記入した。いつもの手順。けれど鍵を渡す時、彼の指先がわずかに止まった。


心配していたのだと気づいた。


宰相が学園に来たことは、図書館にまで伝わっていただろう。学園内の情報は一日で広まる。宰相が公爵令嬢を呼び出したという事実も、おそらく噂になっている。ルーカスはそれを聞いて、けれど何も聞かなかった。


「ありがとう、ルーカスさん」


鍵を受け取った。指先が一瞬だけ近づいて、離れた。


書庫に入り、作業机に座った。手帳を開いたが、ペンは持たなかった。


ルーカスの「今日は遅かったですね」という一言が、胸の中で反響していた。あの低い声。いつもと同じ淡々とした口調。けれど言葉の奥にあったもの。


この人は待っていたのだ。私がいつもの時間に来なかったことを気にして、けれど聞くことはせず、ただ待っていた。


宰相に認められた高揚感とは別の、静かな温かさがあった。ヘルムートの「面白い」という評価は、能力への承認だった。ルーカスの「遅かったですね」は、それとは違う何かだった。


私の居場所はどこだろう。


宰相府か。学園か。この書庫か。


答えは出なかった。けれど、書庫の静けさの中で手帳を開いている今この時間が、一日の中で最も呼吸が楽であることだけは分かっていた。


窓の外が暗くなり始めていた。手帳に一行だけ書いた。


「婚約解消、公示日が決まる。その前に、ルーカスさんに話したいことがある」


何を話すのか、自分でもまだ分からなかった。けれど、伝えたいという気持ちだけが確かにあった。


手帳を閉じ、書庫を出た。鍵を返し、図書館を出る。ルーカスは奥の書架にいて、姿は見えなかった。


夜の学園を歩きながら、空を見上げた。星が出始めていた。


私は人の居場所を見つける力がある。けれど、自分の居場所を見つけることが、こんなにも難しいとは思わなかった。

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