第8話「亀裂の正体」
エルヴィラは転生者なのだろうか。
あの日から数日が経っても、その問いが頭を離れなかった。回廊ですれ違った時の「ユリアーナ様」という言葉。慌てて訂正した表情。祖母の名前だと言った説明。
全てが自然だった。けれど、全てが偶然だとも言い切れなかった。
朝の教室で椅子に座り、窓の外を見た。学園の中庭では一年生たちが祝福の基礎訓練をしている。光の球、火の揺らめき、水の流れ。それぞれの属性が朝の空気に混じっていた。
考えるべきことを整理する。
エルヴィラがゲームの知識を持っているなら、私の行動は全て読まれている。攻略対象への接触も、婚約解消の動きも、噂の処理も。私がゲームのシナリオを回避しようとしていること自体を、彼女は知っていることになる。
けれど、もしそうなら、エルヴィラの行動には矛盾がある。
ゲームのヒロインは攻略対象との恋愛を進めるはずだ。しかし現実のエルヴィラは、私との対話の後、治癒魔法の研究に向かい始めた。恋愛ではなく学問を選ぼうとしている。転生者であるなら、なぜゲームの筋書きから外れる選択をするのか。
二つの可能性がある。
一つは、エルヴィラは転生者ではなく、「ユリアーナ」は本当に祖母の名前であるという単純な事実。
もう一つは、エルヴィラも転生者だが、ゲームのシナリオに従う気がないという可能性。
どちらであっても、今の私がすべきことは変わらない。確証のない疑惑に振り回されて判断を鈍らせるのは、最も避けるべきことだ。
前世でカウンセラーをしていた時、根拠のない推測で相談者を評価することは禁じられていた。目の前の人間を、観察と対話で知る。それが原則だった。
エルヴィラへの疑惑は保留する。
その判断を下して、私は教室の扉に目を向けた。午前の授業が始まる。
昼休み。中庭のベンチに座っていると、エルヴィラが向こうから歩いてきた。
私を見つけると、小走りで近づいてきた。手には薄い冊子を持っている。
「アネリーゼ様、こんにちは」
「こんにちは、エルヴィラさん」
エルヴィラは隣に座った。身分を考えれば、公爵令嬢の隣に平民が許可なく座ることは本来望ましくない。けれどエルヴィラにはその認識が薄い。以前ならそれが気になったかもしれないが、今はそのままにした。
「あの、先日は失礼しました。お名前を間違えてしまって」
エルヴィラの頬がわずかに赤くなった。本当に恥ずかしそうだった。
「気にしていないわ。おばあ様の名前だったのね」
「はい。ユリアーナっていうんです。おばあちゃん」
エルヴィラは冊子を膝の上に置き、空を見上げた。
「おばあちゃんは村で一番の薬草の使い手でした。わたしが小さい頃、よく膝に乗せて薬草の名前を教えてくれたんです。熱が出た時も、お腹が痛い時も、おばあちゃんが煎じてくれた薬湯を飲むと治りました」
エルヴィラの声は穏やかだった。懐かしい人を語る時の、自然な温かさがあった。
「わたしが光属性の祝福を持っていると分かった時、おばあちゃんが言ったんです。『お前の手は、人を治すためにある。大事に使いなさい』って」
私は黙って聞いていた。
「だからわたし、治癒の力をもっと深く知りたいんです。祝福だけじゃなくて、薬草のことも、体の仕組みのことも。おばあちゃんは祝福なんて持っていなかったけど、たくさんの人を助けていました。わたしにはおばあちゃんよりずっと強い力がある。なら、もっとたくさんの人を助けられるはずです」
エルヴィラが持っていた冊子を見せてくれた。図書館で借りた治癒魔法の基礎文献だった。ルーカスが案内したものだろう。余白にはエルヴィラの手書きの書き込みがびっしりと並んでいた。
「アネリーゼ様が聞いてくださったから、わたし、自分の気持ちがはっきりしたんです」
エルヴィラは笑った。その笑顔には、聖女候補としての義務感ではなく、一人の研究者としての意欲があった。
私は胸の内で、一つの判断を下した。
この子の祖母の名前はユリアーナ。それは事実である可能性が高い。エルヴィラの語り口には、作り話の気配がなかった。感情の流れが自然で、細部が具体的で、何よりも祖母への敬愛が本物だった。
ゲームの悪役令嬢の名前との一致は、おそらく偶然だろう。
ただし。
おそらく、という言葉の裏側に、まだ消えない影がある。偶然であることを証明する手段はない。エルヴィラが転生者である可能性は、ゼロにはならない。けれど今の情報では、疑惑を深める根拠もない。
保留のまま、先に進む。それが最善だった。
「エルヴィラさん。あなたの研究が形になったら、ぜひ見せてね」
「はい。必ず」
エルヴィラは立ち上がり、丁寧に頭を下げた。冊子を大事そうに抱え、図書館の方角へ走っていった。
私はベンチに残り、空を見上げた。
恐怖は消えた。完全にではないが、少なくとも判断を曇らせるほどではなくなった。エルヴィラは恋愛ではなく研究を選ぼうとしている。それはゲームのシナリオとは異なる道だ。彼女が転生者であろうとなかろうと、その選択自体は良い方向に向かっている。
けれど心の片隅に、小さな棘のようなものは残っていた。いつかこの棘が意味を持つ日が来るかもしれない。その時まで、私はこの違和感を忘れずに持っておく。
残るは、婚約解消の手続きだ。
放課後。寮の自室に戻ると、机の上に封書が置かれていた。
グランツ公爵家の紋章が蝋で押された封筒。父からの返書だった。
手紙を出してから十日ほどが経っている。王都内の公爵邸と学園の間は馬車で半日の距離だから、伝令の往復を考えれば妥当な日数だった。
封を切り、便箋を開いた。父の筆跡は端正で、一文字の乱れもなかった。
「アネリーゼへ。手紙を読んだ。お前の意志を尊重する。ただし、手続きは正式に行う。当事者双方の合意書、両家の署名、宰相府の審査、国王陛下の裁可。この四段階を全て踏む。一方的な破棄ではなく、円満な解消として進める。宰相にも話を通す。焦るな。だが、逃げるな」
短い手紙だった。父らしかった。
私は便箋を膝の上に置き、目を閉じた。
父が動いた。私の手紙を読み、婚約解消を承認し、宰相への根回しまで始めてくれた。殿下にはすでに直接伝えた。殿下は「考える時間がほしい」と言った。父の手紙には「宰相にも話を通す」とある。
手続きの四段階のうち、最初の当事者合意はまだ正式な書面になっていない。けれど、双方が解消の可能性を認識し、両家が動き始めた。これは確かな前進だった。
自分の選択で、人生が動いている。
その実感が、胸の中で静かに広がった。断罪を回避するために始めたことだった。ゲーム知識に基づく計算だった。けれど今、婚約解消は計算だけではなくなっていた。殿下と向き合い、自分の無関心を認め、互いに別の道を歩くことを選ぶ。それは、私自身の意志だった。
便箋を丁寧に折り、封筒に戻した。机の引き出しにしまう。
窓の外を見た。夕暮れの空が見える。まだ日は高い。図書館に行く時間はあった。
書庫の扉を開けると、いつもの紙と革の匂いがした。
作業机に鞄を置き、椅子に座った。今日は調べ物ではなく、手帳に経過をまとめるつもりだった。父の返書の内容、殿下との対話の経過、エルヴィラの疑惑の保留判断。全て記録しておく必要がある。
手帳を開いてペンを取った時、書庫の奥から足音が聞こえた。
ルーカスが棚の間から現れた。手に数冊の本を抱えている。私を見て、わずかに足を止めた。
「お早いですね」
「少し、整理したいことがあって」
ルーカスは頷き、棚に本を戻す作業を再開した。
しばらく、私はペンを走らせ、ルーカスは本を整理していた。書庫の中に、二人分の音だけが静かに響いていた。ペンが紙を擦る音と、本が棚に収まる音。
「グランツ様」
ルーカスの声が聞こえた。顔を上げると、彼は棚の前に立ったまま、こちらを見ていなかった。本の背表紙に目を落としたまま話している。
「最近、お顔が明るくなりましたね」
私は手を止めた。
ルーカスの声は淡々としていた。いつもと同じ、感情の色が薄い声。けれど言葉の内容は、いつもとは違った。
彼が私の表情の変化に言及したのは、初めてだった。
「ありがとう。少し、前に進めた気がしているの」
ルーカスは一瞬だけ黙った。それから本を棚に戻し、背筋を正した。
「出過ぎたことを申しました」
声が硬くなった。さっきまでの言葉を撤回するように、ルーカスは視線を棚に戻した。
その変化に、胸が軋んだ。
ルーカスは気づいている。私の変化を見ている。けれど、それを口にした瞬間に自分の立場を思い出す。平民の司書補が公爵令嬢の表情に言及すること。それは職務の範囲を超えている。彼はそれを分かっていて、だから撤回した。
身分の壁が、そこにあった。
今まで意識していなかったわけではない。ルーカスが常に敬語を使うこと、名前ではなく「グランツ様」と呼ぶこと、必要以上に近づかないこと。全て知っていた。けれどそれを壁として感じたのは、今が初めてだった。
「ルーカスさん」
「はい」
「出過ぎてなんかいないわ」
ルーカスの手が止まった。ほんの一瞬だけ。それからまた本を棚に戻す動作を再開した。
「恐れ入ります」
それだけだった。声は丁寧で、距離があった。
私は手帳に目を戻した。けれどペンは動かなかった。
胸の中にある感情の名前が分からない。温かさでも冷たさでもない。ルーカスの言葉が嬉しかった。撤回されたことが寂しかった。その二つが同時にあって、どちらが大きいのか判断がつかなかった。
ルーカスの靴音が遠ざかり、書庫の奥に消えた。
手帳の白いページを見つめた。父の返書のこと、殿下のこと、エルヴィラのこと。書くべきことはたくさんあった。けれど最後に一行だけ、別のことを書いた。
「ルーカスさんとの壁」
それだけ書いて、ペンを置いた。
窓の外では夕暮れの光が傾き始めていた。書庫の中は薄暗くなり、棚の影が長く伸びている。
自分の手で人生を選んだ解放感がある。父が動いてくれた。殿下は考えると言った。エルヴィラの疑惑は保留にできた。全て、前に進んでいる。
けれど同時に、ルーカスとの間にある壁を意識したことで、何か新しい感情が芽生えかけていた。まだ名前のつかない、小さな痛み。
自分の人生を自分で選ぶことを決めた。それは確かだった。
けれど選んだ先に何があるのか、まだ見えていなかった。
手帳を閉じ、鞄にしまった。書庫を出る時、受付にルーカスの姿はなかった。奥の書架で作業を続けているのだろう。
鍵を返却箱に入れ、図書館を出た。
廊下を歩きながら、ふと思った。
明日、宰相ヘルムートから何か動きがあるかもしれない。父が「宰相にも話を通す」と書いていた。宰相がこの件をどう扱うか。それが次の焦点になる。
寮への道を歩いた。夕闘の風が髪を揺らした。
胸の中には、解放感と切なさが同居していた。それは矛盾ではなく、今の私そのものだった。




