第7話「王子の目覚め」
「君に話がある」
その言葉を聞いたのは、昨日の放課後だった。ジークヴァルト殿下の侍従から、マティルダを通じて届いた伝言。生徒会室で待つ、と。
今、私はその生徒会室の扉の前に立っている。
深く息を吸った。廊下には誰もいない。放課後の授業棟は静かで、窓から差し込む西日が石畳を橙色に染めていた。
扉を叩いた。
「入りたまえ」
聞き慣れた声。感情の起伏が少ない、整った声。私は扉を開け、一歩踏み入れた。
生徒会室は広い。長机が中央に置かれ、椅子が六脚並んでいる。壁には学園の校章と歴代の生徒会長の名簿。窓は大きく、中庭の噴水が見えた。
ジークヴァルト殿下は窓際に立っていた。背を向けたまま、中庭を見下ろしている。近衛騎士二名は室外に控えているようだった。
「失礼いたします、殿下」
私は扉を閉め、規定の距離を保って立ち止まった。一礼する。
殿下は振り返った。
光属性の祝福を持つ王家の血筋。金の髪と青灰色の瞳。十八歳にして、既に王族としての威厳が自然に備わっている。けれどその目には、今日はいつもと違うものがあった。
迷い、だろうか。
「座ってくれ」
殿下は椅子を引いた。私ではなく、自分に向かい合う位置の椅子を。つまり、対面で話すということだった。
「ありがとうございます」
私は椅子に座った。殿下も向かいに腰を下ろした。長机を挟んで、二人きり。婚約者同士でありながら、こうして向かい合って座ること自体が珍しかった。
沈黙が落ちた。
殿下は何かを言おうとして、口を開きかけ、閉じた。それを二度繰り返した。完璧な王太子と呼ばれるこの人が、言葉を選びあぐねている。
私は待った。前世のカウンセラーとしての経験が、ここで沈黙を埋めてはいけないと告げていた。相手が自分の言葉を見つけるまで、待つ。
やがて、殿下が口を開いた。
「最近の君の行動を見ていた」
「はい」
「クラウスと対話し、セバスティアンに接触し、エルヴィラとも話をしていた。噂が立ち、それを処理した。全て見ていた」
殿下の視線はまっすぐだった。責めているのではない。事実を並べている。
「私は」
殿下の声が、わずかに揺れた。
「君の婚約者でありながら、君が何をしているのかに興味を持ったことがなかった」
私は息を止めた。
「噂が立った時も、君が説明に来た時も、私は『自由にしたまえ』と言った。あれは信頼ではない。無関心だった」
殿下の手が机の上で握られた。
「臣下の報告で君の行動を知り、噂の顛末を聞き、エルヴィラが研究に目を向け始めたことを知った。全て、君が動いた結果だった。私は何もしていなかった。婚約者としても、王太子としても」
これは、ゲームのジークヴァルトにはなかった言葉だった。
ゲームの王太子は、最後まで自分の非を認めなかった。断罪イベントでヒロインを選び、悪役令嬢を切り捨て、それを正義だと信じていた。けれど目の前のこの人は、自分の無関心を悔やんでいる。
「殿下」
「待ってくれ。まだ言いたいことがある」
殿下は目を伏せた。長い睫毛が影を落とした。
「私は幼い頃から、完璧な王太子であることを求められてきた。学業、武術、社交、祝福の鍛錬。全てにおいて最高であれと。そして私はそれに応えてきた。応え続けた結果、自分が何をしたいのか、分からなくなった」
静かな告白だった。王太子としての仮面の下にある、一人の十八歳の青年の声。
「君が臣下たちに問いかけていたことを知っている。『あなたが本当にやりたいことは何ですか』と。私はその問いを、自分自身にぶつけられた気がした」
殿下が顔を上げた。
「アネリーゼ。君は何を目指している」
問い返された。
私は少し考えた。嘘をつくべきではない。けれど全てを話すこともできない。ゲーム知識のことは言えない。転生のことも。ただ、この人に伝えるべきことがある。
「殿下。私が見てきたのは、才能のある人々が最適な場所にいない現状です」
「最適な場所?」
「クラウス様は剣の才能だけで自分を語ろうとしている。けれど本当は、守りたいものが何かを考える力がある。セバスティアン様は父の影に隠れて、自分の研究を世に出せずにいる。エルヴィラさんは聖女候補という肩書に縛られて、本当にやりたい治癒の研究に踏み出せなかった」
殿下は黙って聞いていた。
「そして殿下は、完璧な王太子であることに全てを費やして、この国をどうしたいのかを考える時間を持てなかった」
殿下の目がわずかに見開かれた。
「殿下には、恋愛よりも先にやるべきことがあります」
言葉が出た。自分でも驚くほど、はっきりと。
「私との婚約は、殿下にとっても、私にとっても、互いに向き合わないまま続けてきたものです。この関係を続けることは、殿下のためにならないと考えています」
殿下の表情が動いた。眉が寄り、口元が引き結ばれた。
「婚約を解消したいと言っているのか」
「はい」
沈黙が、長く落ちた。
殿下は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。しばらくそのままだった。
「理由が分からない」
低い声だった。
「公爵家と王家の関係は国の根幹に関わる。君の父上もそれを承知で婚約に同意した。政治的にも、簡単に解消できるものではない」
「承知しています」
「君の言う『私のため』というのは、自己犠牲ではないのか。自分が身を引くことで私が自由になると、そう考えているのなら、それは間違いだ」
殿下の声に、初めて熱が入った。怒りではない。困惑と、何かを失うことへの抵抗。
「殿下」
私は姿勢を正した。
「自己犠牲ではありません。私自身も、この婚約を続けることで自分が何者かを見失いかけていました。殿下に向き合っていなかったのは、私も同じです」
殿下は私を見た。長い、長い視線だった。
「考える時間がほしい」
その答えは、ゲームの王太子には存在しなかった。ゲームのジークヴァルトは、婚約者の言葉に耳を貸さなかった。意見をぶつけられれば怒り、反論されれば権威で黙らせた。けれどこの人は「考える」と言った。
この人もゲームとは違う。
「もちろんです、殿下。お時間をかけてください」
私は立ち上がり、深く一礼した。殿下は座ったまま、窓の外に目を向けていた。その横顔は、王太子というよりも、一人の青年のものだった。
初めてこの人が、仮面の下の顔を見せた。そう思った。
生徒会室を出た。
廊下はもう薄暗かった。西日は沈みかけ、窓の外の空が紫に変わりつつあった。
歩きながら、胸の内を整理した。殿下が「考える」と言ったこと。それは断罪でも拒絶でもなく、初めての対話だった。一人の人間として、私の言葉を受け止めようとした。
その事実に、不思議な感慨があった。
ゲーム知識は確かに役に立っている。けれど、目の前にいるのはゲームのキャラクターではない。生きている人間だ。私の言葉で揺れ、考え、迷う。その重さを、今日初めて実感した。
渡り廊下を抜け、中庭に面した回廊に出た。
そこで足が止まった。
エルヴィラが前方から歩いてきた。夕暮れの中庭を横切って、こちらに向かっている。手には数冊の本を抱えていた。図書館の帰りだろう。治癒魔法の文献を調べていると聞いている。
エルヴィラは私に気づき、慌てて会釈した。
「あ、アネリーゼ様。こんばんは」
「こんばんは、エルヴィラさん。図書館の帰り?」
「はい。ルーカスさんに文献を案内していただいて」
エルヴィラは笑った。屈託のない笑顔だった。
すれ違おうとした時、エルヴィラが口を開いた。
「ユリアーナ様——あ」
エルヴィラの顔が固まった。
「す、すみません。アネリーゼ様。間違えました」
エルヴィラは慌てて頭を下げた。頬が赤くなっている。
「アネリーゼ様の雰囲気が、少しだけおばあちゃんに似ていて。おばあちゃんの名前がユリアーナっていうんです。つい」
エルヴィラは恥ずかしそうに本を抱え直した。
「本当にすみません。失礼しました」
もう一度頭を下げて、エルヴィラは足早に去っていった。
私は立ち尽くした。
ユリアーナ。
心臓が凍りついた。
ユリアーナは、ゲーム『星降りの聖約』における悪役令嬢の名前だ。この世界での私の名前はアネリーゼ。ゲームの中で私に相当するキャラクターの名前がユリアーナだった。
なぜエルヴィラがその名前を知っている。
祖母の名前だと言った。偶然の一致かもしれない。この世界にユリアーナという名前の人間がいてもおかしくはない。
けれど。
もしエルヴィラがゲームの知識を持っているなら。もし彼女も転生者で、ゲームの悪役令嬢の名前として「ユリアーナ」を口にしたのなら。
私の計画は全て読まれていることになる。
足が動かなかった。夕闘の風が回廊を吹き抜けた。髪が揺れた。風属性の祝福とは無関係の、ただの風だった。
エルヴィラの去った方向を見つめた。彼女の背中はもう見えない。
考えろ。
今の時点で分かっていることを整理する。エルヴィラは祖母の名前だと言った。以前にも祖母の話をしていた。薬草を煎じてくれた祖母。その名前がユリアーナ。辻褄は合う。
けれど、確証はない。偶然なのか、意図なのか。それを今ここで判断することはできない。
一つだけ確かなことがある。焦って動けば、判断を誤る。
私は目を閉じ、深く息を吐いた。
今日は、殿下との対話という大きな一歩を踏み出した。婚約解消の意思を直接伝えた。殿下は考えると言った。それだけで十分だ。
エルヴィラの件は、慎重に確かめる。急がない。追い詰めない。
回廊を歩き出した。図書館の方角ではなく、寮の方へ。今日はもう、書庫に寄る余裕がなかった。
寮への道を歩きながら、ここ数日のことを思い返した。図書館での作業中、ルーカスの態度にわずかな変化があった。以前は私が書庫にいる間、棚の整理をしながら自然と近くを通ることがあった。資料について短い助言をくれることもあった。けれどこの数日、ルーカスは書庫の奥にいることが多く、私の作業机の近くに来る回数が減っていた。声をかける頻度も。
気のせいかもしれない。司書補の業務には波がある。たまたま奥の書架に用が多かっただけかもしれない。
けれど、何かが違うと感じていた。
今日は図書館に行けなかった。書庫での作業も、ルーカスとの短い言葉のやり取りもなかった。
それが、少しだけ心に引っかかった。
なぜ引っかかるのか。答えは出なかった。ルーカスがいつものように書庫で棚の整理をしている姿を思い浮かべた。規則正しい靴音と、本を棚に戻す音。あの静かな空間が、今日はなかった。
空虚、というほどではない。けれど、何かが足りないような感覚。
私はいつも、誰かの最適な場所を考えている。クラウスの、セバスティアンの、エルヴィラの、殿下の。けれど自分自身の最適な場所については、考えたことがなかった。
全員の配置を整えた先に、私はどこにいるのだろう。
寮の門が見えた。夕闘の空はすっかり暗くなり、門灯が灯っていた。
答えのない問いを胸に抱えたまま、私は門をくぐった。




