第6話「噂の終わり」
私はマティルダの報告書に目を通した。
父への手紙を出してから一週間余り。噂の出所を特定するようマティルダに依頼してから、さらに時間が経っていた。マティルダは社交網を丁寧に辿り、情報の流れを逆算し、ついに二名の名前を突き止めた。
伯爵家の令嬢二名。一人はヴァイス伯爵家、もう一人はブルーメ伯爵家の娘だった。
「動機は二つです」
昼休みの教室で、マティルダは扇子の陰で声を落とした。
「一つは、王太子殿下の婚約者の座への嫉妬。もう一つは、聖女候補のエルヴィラさんへの反感が、なぜかアネリーゼ様に向かったもの。エルヴィラさんに直接手を出せば聖女候補への不敬になるので、矛先をアネリーゼ様に変えたようです」
「なるほど」
「で、アネリーゼ様。どうされますか」
マティルダの目には期待があった。公爵令嬢の権力で伯爵家の令嬢を黙らせることは可能だ。直接呼び出して警告することも、父を通じて伯爵家に圧力をかけることもできる。
けれど、それをすれば私は「権力で人を黙らせる公爵令嬢」になる。ゲームの悪役令嬢と同じだ。
「潰すのではなく、上書きするわ」
「上書き?」
「噂を消そうとするのではなく、正しい情報を先に広めるの。私が何をしていたか、誰と何の目的で話していたか。正確な事実を、噂より先に届ける」
マティルダは扇子を閉じた。
「具体的には、あたしの社交網を使って、アネリーゼ様の調査活動の実態を流すということですね。騎士科の人材活用調査であること、殿下の許可を得ていること、複数の生徒に聞き取りをしていること」
「そう。あなたの社交力なら、三日もあれば主要な家門の令嬢たちに届くでしょう」
マティルダは黙った。扇子を手の中で回している。何かを考えている表情だった。
「マティルダ?」
「あたしは」
マティルダの声が変わった。いつもの軽やかさが消え、低い声になった。
「あたしは、アネリーゼ様の取り巻きじゃありません」
私は口を閉じた。
「噂を広めるのが得意だから使われている。そう思われるのは嫌なんです。あたしだって、自分が何をしているか分かっていたい」
マティルダの目がまっすぐにこちらを見ていた。伯爵令嬢から公爵令嬢への視線としては、かなり率直なものだった。
私は数秒、黙って受け止めた。それから口を開いた。
「マティルダ。あなたの社交力は、噂を広める才能じゃないわ」
「え」
「情報を正しく届ける才能よ。噂の出所を特定し、情報の流れを読み、適切な相手に適切な内容を届ける。それは社交界では得がたい能力だと思う」
マティルダの目が見開かれた。
「あたしは……そんなふうに考えたこと、なかった」
「私はあなたを取り巻きだと思ったことは一度もない。対等な友人として、お願いしているの」
沈黙が落ちた。マティルダは扇子を握ったまま、しばらく私を見つめていた。
「……分かりました」
マティルダの声は、さっきまでとは違っていた。低さはそのままだが、硬さが消えていた。
「やります。あたしのやり方で」
「お願いね」
マティルダは立ち上がり、一礼した。その礼は、伯爵令嬢から公爵令嬢へのものだった。けれど背筋の伸び方が、少し変わった気がした。
三日後。
マティルダの情報網は正確に機能した。
「グランツ公爵令嬢は殿下の許可のもと、学園の人材活用調査を行っている」「騎士科、学術科の複数の生徒に聞き取りをしており、個人的な密会ではない」。この事実が、噂よりも先に主要な貴族令嬢たちの間に行き渡った。
結果として、元の噂は信憑性を失った。「密会」という言葉は「聞き取り調査」に置き換わり、噂の内容自体が陳腐化した。
そして噂の出所であるヴァイス伯爵家とブルーメ伯爵家の二名は、周囲から「根も葉もない噂を流した人物」として距離を置かれ始めた。マティルダが直接名指ししたわけではない。正しい情報が広まったことで、誤った情報を流した側が自然と浮き彫りになっただけだ。
権力で潰したのではない。情報で上書きした。その結果、加害者は自らの行動の報いを受けた。
放課後。図書館の書庫に向かった。
ここ数週間で書庫は私の定位置になっていた。受付で閲覧手続きを済ませ、書庫の鍵を受け取る。いつもの手順だ。
ルーカスは窓口で台帳を整理していた。鍵を渡す時、彼の手がわずかに止まった。
「噂が減りましたね」
短い一言だった。声に感情の色はない。事実を述べただけの、乾いた言葉。
けれど私は、その一言に息を止めた。
ルーカスは噂を知っていた。「王太子の婚約者が他の男子生徒と密会している」という噂が、学園内を回っていたことを。そしてその噂が私の評判を傷つけるものであることも。
彼は何も言わなかった。噂が広まっている間、助言も心配も口にしなかった。書庫への案内を提案してくれた時も、「噂を避けるため」とは言わなかった。
けれど、見ていた。
この人は見ていてくれた。
「ええ。友人が力を貸してくれたの」
「そうですか」
それだけだった。ルーカスは台帳に目を戻し、私は書庫に向かった。
鍵を回し、書庫の扉を開ける。紙と革と埃の匂い。いつもの場所。作業机に鞄を置き、椅子に座った。
胸の奥に温かいものが残っていた。マティルダとの友情が確かなものになった温かさ。そしてルーカスの、言葉の少なさの中にある観察力。彼は私の状況を見ていた。干渉はしなかった。けれど、変化に気づいていた。
それが嬉しかった。なぜ嬉しいのかは、まだ分からない。ルーカスへの感情は信頼と呼んでいいものになりつつあったが、それ以上の名前はまだつけられなかった。ただ、この人の過去を断片的にでも知りたいと感じ始めている自分がいた。平民の司書補。父を亡くしている。貴族全般への警戒心。それらの断片が、ルーカスという人間の輪郭を少しずつ描いている。
手帳を開き、今日の成果をまとめた。噂の処理は完了。マティルダとの関係は「取り巻きと令嬢」から「対等な友人」に変わった。情報戦の勝利は、暴力を使わずに済んだ。
手帳にペンを走らせながら、マティルダが昼休みに言っていたことを思い出した。
「そういえば最近、学園に見慣れない文官が出入りしているって兄が言っていたわ」
何気ない一言だった。マティルダの兄は騎士団に勤務しており、学園の警備状況にも多少は通じているのだろう。見慣れない文官。学園の教員でも生徒でもない人物が出入りしている。
気にはなったが、今は噂の処理が最優先だったため、深くは追わなかった。けれど手帳の隅に、一行だけ書き留めておいた。
窓の小さな書庫の中で、午後の光が机の端を照らしていた。
やるべきことは進んでいる。噂は消えた。マティルダは力を発揮した。エルヴィラは研究に動き始めた。クラウスは自分への問いを抱えている。セバスティアンにはルーカスとの学術的な接点が生まれた。
残るは、ジークヴァルト殿下。
父への手紙は出した。返事はまだ来ていない。殿下本人に直接伝える勇気は、まだ固まっていない。
けれど、もう逃げるつもりはなかった。
手帳を閉じた時、書庫の外から足音が聞こえた。ルーカスが棚の整理をしている音だ。規則正しい靴音と、本を棚に戻す微かな音。
その音を聞きながら、私はしばらく目を閉じていた。
翌日の放課後。
教室を出ると、廊下でマティルダが待っていた。
「アネリーゼ様。殿下の侍従から伝言です」
マティルダの表情がいつもと違った。緊張している。
「ジークヴァルト殿下が、生徒会室でアネリーゼ様をお待ちです。『君に話がある』と」
心臓が跳ねた。
殿下が、私を呼び出した。これまで一度もなかったことだ。生徒会室での会話は、いつも私から出向いていた。殿下の方から「話がある」と言ってきたのは初めてだった。
王太子が初めて、私に個人として向き合おうとしている。
「ありがとう、マティルダ」
私は鞄を持ち直し、生徒会室へ向かった。




