第5話「聖女の問い」
あなたが本当に望んでいるものは、何ですか。
その問いかけを、私は自分の中で何度も練習した。エルヴィラとの対話に臨む前に、言葉を選び、順序を考え、相手の反応を想定する。前世のカウンセラー時代と同じ準備だった。
エルヴィラが廊下で「わたしにも何か、できることはありませんか」と話しかけてきてから数日。私は彼女との対話の場を設けることにした。
放課後の中庭。噴水の傍にある石のベンチ。人通りはあるが、会話の内容までは聞こえない距離。公爵令嬢と聖女候補が並んで座る姿は目を引くかもしれないが、二人きりの密室よりは噂になりにくい。
エルヴィラは約束の時間に少し早く来ていた。私の姿を見つけると、立ち上がって一礼した。
「アネリーゼ様、お時間をいただきありがとうございます」
「こちらこそ。座りましょう」
隣に腰を下ろすと、エルヴィラの緊張が伝わってきた。手を膝の上で重ね、背筋を伸ばしている。貴族との会話で姿勢を正すことは覚えたらしいが、肩に力が入りすぎていた。
「そんなに構えなくていいわ。今日は調査ではなく、あなたとお話がしたかっただけ」
「はい」
エルヴィラは少しだけ肩の力を抜いた。
「エルヴィラさん、学園の生活には慣れましたか」
「はい、少しずつ。みなさんとても親切にしてくださって。クラウス様もセバスティアン様も、殿下も」
攻略対象の名前が自然に出てきた。ゲームのヒロインとして、彼女は既に三人全員と接点を持っている。
「みんなに優しくされるのは嬉しい?」
「はい。故郷では、光属性の祝福が強いというだけで遠巻きにされることもあったので」
エルヴィラの声が少し沈んだ。平民の村で極大の光属性を持つ少女がどう見られていたか。畏怖か、警戒か、あるいはその両方か。
「学園に来て、初めて普通に話してくれる人がたくさんいて、嬉しかったんです。おばあちゃんがよく薬草を煎じてくれたんですけど、あのときの温かさに似ているなって思いました。治癒に興味を持ったきっかけも、おばあちゃんなんです」
エルヴィラは少し照れたように笑った。祖母の話をする時だけ、声が柔らかくなる。
「おばあちゃんは薬草に詳しい方だったの?」
「はい。村の人が怪我をしたり熱を出したりすると、いつもおばあちゃんのところに来ていました。わたしも小さい頃から手伝っていて。それで、治す力って素敵だなって」
私は黙って聞いた。エルヴィラの言葉の中に、彼女自身の本音が混じり始めている。
「エルヴィラさん。学園ではたくさんの方があなたに親切にしてくれているのね。それはとても素敵なこと。でも一つ、聞いてもいいかしら」
「はい」
「みんなに優しくされること以外に、あなたが本当にやりたいことはありますか」
エルヴィラの目が少し見開かれた。
沈黙。噴水の水音が耳に届く。中庭を横切る生徒たちの足音が遠くで聞こえる。
「……本当にやりたいこと」
エルヴィラは自分の手を見た。光属性・極大の祝福を宿す手。
「みんなに優しくされるのは嬉しいけど」
声が小さくなった。
「本当は、治癒の力をもっと深く研究したいんです。光属性の治癒って、まだ分かっていないことがたくさんあって。おばあちゃんの薬草は経験でやっていたけど、わたしの祝福なら、もっと根本的なところから人を治せるかもしれない。でも学園では、祝福の基礎しか教えてくれなくて」
エルヴィラの目に光が宿った。おばあちゃんの話をした時と同じ、けれどもっと強い光だった。
「わたし、治癒を研究して、もっとたくさんの人を助けたい。村にいた頃からずっと思ってました。でもそれを言うと、『聖女候補なんだからもっと大事な役目がある』って」
言いかけて、エルヴィラは口を閉じた。自分の言葉に驚いたような顔をしていた。
「大事な役目って、何だと思う?」
「……分かりません。みんなが期待していること、だと思います。でもわたしは、研究がしたい」
今だ。
「エルヴィラさん。あなたの力で、どれだけの人が救えると思いますか」
エルヴィラが顔を上げた。
「光属性・極大の祝福は、この国でも数十年に一人の才能です。その力を、ただ聖女候補として使うだけではもったいない。もしあなたが治癒の研究に本気で取り組んだら、今まで助けられなかった病や怪我を治す道が開けるかもしれない。それは恋愛や社交よりも、ずっと多くの人を救うことになるのではないかしら」
私の言葉は「命令」ではなかった。「問い」として提示した。あなたにはこの道がある、と示しただけだ。選ぶのは彼女自身でなければならない。
エルヴィラは両手を膝の上で握りしめた。目が潤んでいた。
「……わたし、そんなこと、言ってもらったのは初めてです」
「考えてみて。急がなくていいから」
「はい。考えさせてください」
エルヴィラは立ち上がり、深く一礼した。少しだけぎこちないけれど、心のこもった礼だった。それから噴水の向こうへ歩いていった。
私はベンチに残り、彼女の背中を見送った。
手応えはあった。エルヴィラの中には、恋愛よりも深い望みがある。研究者としての道。治癒の力で人を救いたいという、祖母から受け継いだ原初の動機。それは誰かに与えられた役目ではなく、彼女自身のものだ。
この子は恋愛がなくても輝ける。その確信は強かった。
けれど同時に、別の感情が胸の底に沈んでいた。エルヴィラにとっての「本当にやりたいこと」を引き出したのは私だ。クラウスの空洞を見つけたのも私だ。セバスティアンに自分の名前で研究を発表する道を示したのも私だ。
では、私自身の「本当にやりたいこと」は何だろう。
断罪を回避すること。それはやりたいことではなく、やらなければならないことだ。人を導くこと。それは前世から持ち越した技術であり、情熱とは少し違う。
答えが出ないまま、私は次にやるべきことに意識を向けた。
寮の自室に戻り、便箋を広げた。
父ヴィルヘルム・フォン・グランツ公爵宛ての手紙。公爵邸は王都にあるため、使用人に託せば同日中に届く。
ペンを取った。
「父上。婚約について、相談したいことがあります」
一行書いて、ペンを止めた。
婚約解消。それを自分の意志で選ぶこと。ジークヴァルト殿下との婚約は政略であり、感情の伴わない契約だった。殿下自身も、私に対して個人的な関心を持っていない。それは生徒会室での対話で確認済みだ。
けれど婚約解消は、公爵家の政治的立場に影響を及ぼす。王太子の婚約者であることは、グランツ家にとっても重要な政治的資産だった。父がどう判断するか、私には分からない。
それでも、書かなければならない。
ゲームの知識に頼って人を動かすのではなく、自分の意志で人生を選ぶ。それが、私がこの世界でやるべきことの一つだ。
ペンを動かし続けた。婚約に対する自分の考え、殿下との関係の現状、そして解消を望む理由。感情的にならず、けれど正直に。前世のカウンセラーとして培った文章力が、ここで役に立った。
書き終えた手紙を封筒に入れ、蝋で封をした。
明日、侍女に託して公爵邸に届けてもらう。
窓の外はもう暗くなっていた。春の夜風が薄いカーテンを揺らす。
翌日の夕方、マティルダが教室で私の隣に座った。
「アネリーゼ様、一つご報告が」
「何かしら」
「エルヴィラさんが昨夜、図書館で治癒魔法の文献を探していたそうです。閉館間際に駆け込んで、司書補のヘルダーさんに案内してもらっていたと」
私は手帳を閉じた。
エルヴィラは動いた。私との対話の翌夜に、自分で図書館に行き、治癒の文献を探し始めた。「考えさせてください」と言ったあの子は、考えた結果ではなく、考える前に体が動いたのだろう。それが彼女の本音の強さだ。
そしてその場にいたのはルーカスだった。
彼はアネリーゼに報告するでもなく、淡々と資料を案内したはずだ。ルーカスは私の意図を知らない。エルヴィラが治癒の研究に興味を持つよう私が導いたことも知らない。彼はただ、図書館に来た利用者に資料を案内しただけだ。
けれど、その「ただの職務」が、私の計画を知らないまま補強している。ルーカスは自分の判断で動いている。私が指示したからではなく、彼自身の職務として。
その事実が、不思議と胸に残った。
これまでルーカスは、私の調べ物の方向性を察して資料を用意してくれる「実務的な協力者」だった。けれど今回は違う。私の計画の外側で、私が関わった人物に対して、ルーカスが独立して行動している。
この人は、私の道具ではない。当たり前のことだ。けれどそれを改めて実感した時、胸の中の何かが微かに動いた。
安心感に似た何かだった。ゲームの筋書きの中にいない人間。私の計画に組み込まれていない人間。この学園で唯一、私の思惑の外にいる存在。
そのことが、不思議と心を緩ませる。
「ありがとう、マティルダ」
「いえ。あと、手紙のお届けは明朝一番でよろしいですか」
「ええ、お願い」
マティルダが席を立ち、軽く一礼して去っていった。
私は窓の外に目を向けた。夕暮れの空が紫に染まっている。
エルヴィラが動いた。父への手紙は明日届く。婚約解消への一歩を、自分の手で踏み出した。
けれど、心のどこかで勇気が足りないことも分かっていた。手紙を書くことはできた。けれどジークヴァルト殿下に直接伝えることは、まだできていない。文書で父を通すのは正式な手続きだが、殿下本人に面と向かって「婚約を解消したい」と言う覚悟は、まだ固まっていなかった。
それでも、止まっているよりはいい。
自分の人生を自分で選ぶ。その最初の一歩を、今日踏み出した。




