第4話「学者の檻」
私は書庫の扉を開けた。
草稿を見つけてから数日が経っていた。あの日、セバスティアンの作業机に置かれていた論文の草稿と、父ディートリヒの名義で発表された論文。二つの文書の酷似は偶然ではなかった。
けれど私は、すぐには動かなかった。前世のカウンセラー時代に学んだ原則がある。事実を掴んだ側が先に動けば、相手は追い詰められる。追い詰められた人間は、本当のことを言えなくなる。
だから数日間、私はセバスティアンの行動を遠くから観察した。彼は授業が終わると真っ直ぐ図書館に向かい、書庫で作業をし、夕方の鐘が鳴る前に帰る。規則正しく、誰とも深く関わらず、静かに研究を続けている。
今日、私はセバスティアンがいる時間を見計らって書庫に来た。
棚の間を進むと、セバスティアンの作業机が見えた。彼は椅子に座り、草稿に書き込みをしている。私の足音に気づいたのか、ペンを止めて顔を上げた。
「グランツ公爵令嬢」
セバスティアンは立ち上がり、深く一礼した。男爵家の息子から公爵令嬢への礼。姿勢は正しいが、表情には戸惑いがあった。書庫の奥まった場所で公爵令嬢に声をかけられることなど、想定していなかったのだろう。
「セバスティアン様、お邪魔してすみません。少しお時間をいただけますか」
「自分に、ですか」
「ええ。あなたの研究に興味があるのです」
セバスティアンの目が微かに揺れた。警戒の色が浮かぶ。男爵家の学者肌の息子にとって、公爵令嬢が個人的に訪ねてくる理由は計り知れないものに違いなかった。
「どうぞ、お座りください」
セバスティアンは自分の作業机の前にある古い木椅子を引いた。私はそこに腰を下ろし、彼は向かい側に戻った。草稿の束を無意識に手で覆う仕草が見えた。
「風属性の祝福に関する研究をされていると伺いました」
セバスティアンの指が草稿の端を握った。
「どちらで、お聞きに」
「図書館で資料を調べている際に、風属性に関する学術文献を目にしまして。ヴィント男爵の論文は拝読しました。非常に興味深い内容でした」
意図的に、父の名前を出した。セバスティアンの反応を見るためだ。
セバスティアンは数秒、黙った。それから小さく頷いた。
「父の研究は、王立学園の学術誌に掲載されています。風属性の気流制御理論は、父の長年の研究成果です」
声に揺らぎはなかった。けれど、草稿を覆う手の力が強くなったのが分かった。
私は追及しなかった。ここで「あの草稿はあなたが書いたものではないですか」と問い詰めれば、セバスティアンは否定するしかない。父への忠誠心と、男爵家という低い爵位の中で父の学術的権威が家の支柱であるという現実。それを公爵令嬢に暴かれることは、彼にとって最悪の展開だ。
だから、別の角度から入った。
「セバスティアン様ご自身の研究は、どのようなものですか」
「自分の、ですか」
「ええ。ヴィント男爵の研究ではなく、あなた自身が取り組んでいるもの」
セバスティアンは口を閉じた。草稿から手を離し、膝の上で指を組んだ。
「自分の研究は……まだ、形になっていません」
「形になっていなくても構いません。どんなことに関心があるのか、聞かせていただけませんか」
沈黙が長かった。書庫の中は静かで、遠くの閲覧室から微かに本のページをめくる音が聞こえるだけだった。
「風属性の祝福には、気流制御以外の可能性があると考えています」
セバスティアンはゆっくりと話し始めた。
「現在の研究は気流制御、つまり風を物理的に動かすことに集中しています。しかし風には、もう一つの性質があります。振動です。空気の振動を精密に制御できれば、音を操ることが可能になる。遠距離の音声伝達や、逆に特定の音を遮断する防音結界が理論上は構築できます」
話しながら、セバスティアンの目に光が灯り始めていた。先ほどまでの警戒が薄れ、代わりに自分の言葉に没頭する学者の顔になっている。
「しかしこの仮説を証明するには、風属性・大以上の祝福持ちの協力が必要です。自分は風属性・大ですが、精密な制御には実験環境の整備と長期の観測が要ります。父の……研究室の設備では、難しいのが現状です」
「なぜ、その研究をご自身の名前で発表されないのですか」
セバスティアンの動きが止まった。
私の問いは直接的すぎたかもしれない。けれど前世のカウンセラー経験は、このタイミングを逃してはいけないと告げていた。彼が自分の研究に夢中になり、心の壁が薄くなった瞬間。この一瞬だけ、本音に近い言葉が出てくる。
「……自分の研究は、まだ仮説の段階です。発表に値しません」
否定。けれど、目が逸れた。
「そうですか」
私はそれ以上追わなかった。立ち上がり、椅子を元の位置に戻した。
「お話を聞かせていただきありがとうございました。とても面白い仮説だと思います。あなた自身の研究を読んでみたいです」
セバスティアンは立ち上がって一礼した。その顔には、戸惑いと警戒と、それからほんの僅かな期待が混じっているように見えた。
書庫を出る前に、私は振り返った。
「そうそう、セバスティアン様。風属性の論文についてですが、図書館のルーカスさんも興味を持っていらしたようですよ。古代の風属性に関する文献の整理をされていると聞きました」
セバスティアンの眉が動いた。
「ルーカス……司書補のヘルダーさんですか」
「ええ。もしよければ、一度お話しされてみてはいかがでしょう」
それだけ言って、私は書庫を出た。
閲覧室を通り抜ける途中、受付窓口のルーカスの姿が視界の端に入った。彼は台帳に何かを記入していた。私が通り過ぎても、顔を上げなかった。
図書館を出て、中庭を歩いた。午後の光が石畳を暖かく照らしている。
手応えはあった。セバスティアンの中には、自分の研究を自分の名前で世に出したいという欲求が確かにある。けれどそれを阻んでいるのは、父への忠誠と、男爵家の現実だ。
父ディートリヒの学術的権威は、ヴィント家の社会的地位を支えている。セバスティアンがその権威を脅かせば、家そのものが揺らぐ。十七歳の少年にそれを背負わせるのは酷だ。
だからこそ、追い詰めるのではなく、別の道を示した。ルーカスという存在。セバスティアンの研究に純粋な学術的関心を持ちうる、身分に捉われない人物。もしセバスティアンがルーカスと対話を始めれば、父の庇護の外に初めて研究仲間を持つことになる。
自分の力で人を繋いだ。クラウスには問いを残し、セバスティアンには人を紹介した。やり方は違うけれど、根は同じだ。その人自身が動き出すきっかけを作ること。
けれど同時に、胸の中には奇妙な空洞があった。
私はいつも外側から見ている。クラウスの空洞を見つけ、セバスティアンの檻を見抜き、それぞれに適切な一手を打つ。前世のカウンセラーとして磨いた力。けれどその力は、自分自身には向かない。
ルーカスとセバスティアンが風属性の研究について語り合う姿を想像した。二人の間には、学問への純粋な情熱がある。クラウスには剣がある。ジークヴァルト殿下には王としての責務がある。
では、私には何がある。
ゲーム知識を頼りに人を導くこと。前世の経験を使って他者の本音を引き出すこと。それは確かに役に立っている。けれどそれは、「自分自身の情熱」ではない。
中庭のベンチに腰を下ろした。風が吹いた。風属性・中の私の祝福が、その風を微かに感じ取る。書類を整理する程度の微風しか起こせない、実用性の低い力。
目を閉じた。考えても答えは出ない。今は、やるべきことをやる。それだけだ。
翌朝、教室に向かう廊下で足が止まった。
教室の前に、エルヴィラ・メッツラーが立っていた。小柄な少女は私の姿を見つけると、小走りに駆け寄ってきた。
「アネリーゼ様」
エルヴィラは一礼した。形式的には正しいが、どこか慣れていない動きだった。平民出身の彼女にとって、貴族への礼は学園に入ってから覚えたものなのだろう。
「あなたのことを聞きました。いろんな方とお話をされているって」
「ええ、学園の調査の一環です」
「わたしにも何か、できることはありませんか」
エルヴィラの目はまっすぐだった。天真爛漫な明るさの中に、何かの役に立ちたいという純粋な意志が見える。
ゲームでは、私とエルヴィラが対話する場面はなかった。悪役令嬢とヒロインは対立するだけで、言葉を交わすことすらなかった。
けれど今、この子は自分から私に話しかけてきた。ゲームとは違う展開が、ここにある。
「ありがとう、エルヴィラさん。ぜひ、一度ゆっくりお話ししましょう」
エルヴィラは顔を輝かせて頷いた。
教室の扉を開けながら、私は考えた。次に向き合うべき相手が、自ら現れた。




