第3話「本の番人」
図書館の天窓から差し込む朝の光が、閲覧室の机を白く照らしていた。
クラウスとの対話から一週間が過ぎていた。その間、私は図書館に通い続けた。騎士団編成史の読み込み、学園制度変遷記録の整理、そしてセバスティアンの研究分野に関連する古代文献の所蔵調査。調べるべきことは山のようにあった。
図書館に通う頻度が増したことで、ルーカスとのやり取りも日常になりつつあった。資料の所在を尋ね、閲覧手続きを済ませ、返却する。それだけの実務的な接点。ルーカスは相変わらず必要最小限の言葉しか発さなかったが、私の調べ物に対する案内は正確で、無駄がなかった。
問題は、図書館の外で起きていた。
「アネリーゼ様、ちょっとよろしいですか」
昼休みの教室で、マティルダが私の席に駆け寄ってきた。声を落としているが、表情が硬い。
「どうしたの」
「噂です。あまりよくない内容の」
マティルダは私の隣の椅子に腰を下ろし、扇子で口元を隠した。
「『王太子殿下の婚約者が、他の男子生徒と密会を重ねている』と。クラウス様と休憩棟で二人きりだったという話が、尾ひれをつけて広まっています」
胸の奥がざわついた。クラウスとの対話は休憩棟の廊下で行った。人通りのある場所を選んだつもりだったが、誰かの目には「密会」に映ったらしい。
ゲームの知識が頭をよぎる。悪役令嬢の断罪は、こうした悪評の蓄積の果てに起きる。一つひとつは小さな噂でも、積み重なれば「品位欠如」の根拠になる。
焦るな、と自分に言い聞かせた。噂を力で潰せば、それこそ「権力を振りかざす公爵令嬢」という悪評を上塗りすることになる。
「出所は分かる?」
「まだです。ただ、噂の広がり方を見ると、一般科の女子生徒の間から出ている可能性が高いと思います」
「調べてもらえる? 急がなくていい。正確さを優先して」
「承知いたしました」
マティルダは一礼して席を立った。その足取りに迷いはなかった。前回の「情報収集の名目づくり」の時よりも、動きが早い。少しずつ、マティルダの中で自分の役割が明確になり始めているのかもしれない。
ただ、噂の対処だけでは足りない。もう一つ、先手を打たなければならないことがあった。
放課後。生徒会室の前で、私は足を止めた。
扉の向こうにいるのは、私の婚約者だ。ジークヴァルト・フォン・ケーニヒスベルク殿下。第一王子。この学園で最も高い身分を持つ人物。
扉を叩いた。
「どうぞ」
低い声が返った。扉を開けると、ジークヴァルト殿下は窓際の執務机に座り、書類に目を通していた。近衛騎士が二名、部屋の隅に控えている。
「殿下、お時間をいただけますでしょうか」
ジークヴァルト殿下は書類から目を上げた。光属性の祝福を持つ王家の瞳が、静かにこちらを見る。
「アネリーゼか。構わない、座りたまえ」
私は執務机の前の椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばした。
「お忙しいところ恐れ入ります。ご報告とご相談がございます」
「聞こう」
「私は現在、学園の人材活用に関する調査を行っております。騎士科、学術科、一般科それぞれの生徒に意見を聞いて回っている段階です。その過程で、一部の生徒と個別に対話する場面がございました」
ジークヴァルト殿下は無言で頷いた。
「この調査は、将来的に殿下のお役に立つ知見を得ることを目的としております。しかし、婚約者である私が他の男子生徒と話をする姿が、誤解を招く可能性がございます。そのため、先にご事情をお伝えしておきたく参りました」
沈黙が落ちた。ジークヴァルト殿下は書類の端を指先で叩きながら、しばらく私を見つめていた。
「自由にしたまえ」
それだけだった。
「君が何を調べようと、私は構わない。必要であれば、生徒会の名前を使うことも許可する」
声に感情の色はなかった。怒りも、関心も、心配も。婚約者が他の男子生徒と個別に会っているという報告に対して、この人は何も感じていない。
安堵した。根回しは成功だ。ジークヴァルト殿下の許可があれば、今後の行動に対する政治的な防波堤になる。
同時に、胸の奥で何かが軋んだ。
この人は婚約者に対してすら無関心だ。
ゲームの中のジークヴァルトは「完璧な王太子」として描かれていた。聡明で、責任感があり、国のために全てを捧げる。けれど今、目の前にいるこの人は、完璧であろうとするあまり、自分以外の人間に心を向ける余裕を失っているように見えた。
「ありがとうございます、殿下。お言葉に甘えて、調査を続けさせていただきます」
私は立ち上がり、深く一礼した。ジークヴァルト殿下は既に書類に目を戻していた。
図書館に向かった。
閲覧室を通り過ぎ、受付窓口でルーカスに声をかけた。
「ルーカスさん、今日も書庫で作業をさせていただきたいのですが」
ルーカスは台帳から顔を上げた。一瞬だけ私の顔を見て、それから視線を外した。
「書庫の利用は問題ありません。ただ」
「ただ?」
「閲覧室でのお調べ物が周囲の目に触れることを気にされているのでしたら、書庫の方が適しているかと存じます」
私は息を止めた。
ルーカスは噂を知っている。「王太子の婚約者が他の男子生徒と密会している」という噂が学園内を回っていること。そして私が図書館に頻繁に通うことで、噂がルーカス自身にも飛び火する可能性があること。
彼の提案は、実務的な配慮だった。書庫なら閲覧室のように人目に晒されない。私の調べ物を続けつつ、噂の材料を減らせる。
けれど同時に、それは彼自身を守る言葉でもあった。平民の司書補が公爵令嬢と閲覧室で言葉を交わす姿は、貴族社会では望ましくない。噂がルーカスに向けば、彼の立場を危うくしかねない。
「ご配慮ありがとうございます。そうさせてください」
ルーカスは小さく頷き、書庫の鍵を取り出した。
「現在、西側の棚を整理中です。ご案内いたします」
書庫は図書館の奥にある施錠された区画だった。天井が低く、窓は小さい。棚と棚の間が狭く、すれ違うのがやっとだ。紙と革と埃の匂いが混じった、独特の空気。
ルーカスは先に立って棚の間を進み、整理中の西側の一角に私を案内した。
「こちらの机をお使いください。必要な資料があれば、お申し付けいただければお持ちします」
示された作業机は、古い木製の小さなものだった。その隣の棚は確かに整理中で、本が一部抜かれた状態になっている。そして棚の向こう側、通路を挟んだ先に、もう一つの作業机があった。
その机の上には、草稿の束が置かれていた。
ルーカスは何も言わずに来た道を戻っていった。彼が案内したのはこの机であり、隣の棚であり、その向こうの作業机は案内の対象ではなかった。
私は自分の机に鞄を置き、椅子に座った。
しかし、隣の草稿が視界に入った。棚が半分抜かれた状態では、通路の向こう側が見通せる。草稿の一枚目が、机の端からわずかにずれて表が見えていた。
筆跡は几帳面だった。文字は小さく、行間には書き込みがびっしりと詰まっている。タイトルが目に入った。「風属性祝福における気流制御の理論的考察」。
風属性。私と同じ系統の祝福に関する研究論文だった。
草稿に手を伸ばすつもりはなかった。だが次の瞬間、別のことに気づいた。草稿の束の下に、もう一枚の紙がある。そこには別の筆跡で書かれたタイトルがあった。「風属性祝福における気流制御の基礎理論」。著者名は「ディートリヒ・ヴィント」。
ディートリヒ・ヴィント。王立学園図書館長。セバスティアンの父。
二つのタイトルはほぼ同じだった。しかし上の草稿は書き込みだらけの未発表の下書きで、下の紙は発表済みの論文の表紙だった。
内容が酷似している。いや、酷似しているのではない。上の草稿が原型で、下の発表論文がそれを整えたものだ。執筆の順序が、著者名と逆転している。
セバスティアンが書いた研究を、父ディートリヒが自分の名前で発表している。
私は草稿から目を離し、自分の手元に視線を戻した。心臓が少し速くなっていた。
これは偶然だ。ルーカスが整理中の棚の隣にセバスティアンの作業机があり、そこに草稿が放置されていた。ルーカスが意図的に見せたわけではない。
けれど、この情報を私が手にしたことは事実だった。
鞄から手帳を取り出し、今日の日付を書いた。その下に、短く一行だけ記した。
書庫の外から、微かに本を棚に戻す音が聞こえた。ルーカスが通常業務に戻っている音だ。
ジークヴァルト殿下の無関心。噂の存在。書庫で見つけた草稿。一日の中で三つの事実が重なった。
ジークヴァルト殿下に対しては、安堵と虚しさが入り混じっていた。婚約者に心配されないことは計画上好都合だ。けれど、人として向き合われていないという事実は、理屈とは別の場所で何かを削る。
ルーカスの配慮については、感謝していた。ただの職務だと頭では分かっている。彼は司書補として、利用者が快適に作業できる環境を整えただけだ。それでも、「噂が減る場所に案内する」という判断の裏にある気遣いを、冷たい言葉の中に感じてしまう自分がいた。
これは信頼というほどのものではない。ただ、資料探しの協力者として、ルーカスの存在が確かなものになりつつあった。
帰路、寮への道を歩きながら、ゲームの知識を頭の中で反芻した。
セバスティアンのルートでは、彼の家庭環境に関する詳しい描写はなかった。父が図書館長であること、セバスティアン自身が学者肌であること、程度の情報しか覚えていない。論文の盗用など、ゲームには出てこなかった。
これはゲーム外の事実だ。一周しかプレイしていない私には、知りようがなかった情報。
ゲームの知識だけでは足りない。この世界には、ゲームに描かれなかった人間関係と問題が存在する。私が頼れるのは前世の経験と、自分自身の目だ。
寮の扉を開けた。部屋に入り、鞄を机に置く。手帳を開き、さきほどの一行を見つめた。
明日、セバスティアンの動向を確認する必要がある。ただし、追い詰めるようなやり方は取らない。前世で学んだことがある。人は追い詰められると、本当のことを言えなくなる。
窓の外で夕暮れの鐘が鳴った。空が橙色に染まっている。
この学園には、まだ私の知らないものがたくさんある。




