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攻略対象全員の人生を導いた悪役令嬢を導いたのは、前世でプレイしたゲームにはいなかった図書館の司書補でした  作者: 月雅


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第2話「騎士の空洞」

「アネリーゼ様、本気でクラウス様に話しかけるおつもりですの?」


昼休みの教室で、マティルダが声を潜めた。周囲の生徒たちが食堂へ向かう中、私たちだけが机を挟んで残っている。


「ええ。ただし、二人きりで話すつもりはないわ」


「それでも噂にはなります。王太子殿下の婚約者が、侯爵家の嫡男に個人的に接触したとなれば」


マティルダの懸念はもっともだった。廊下でクラウスとエルヴィラが談笑していた光景を目にしてから数日。ゲームのクラウスルートが動き出す前に、彼と話す機会を作らなければならない。しかし公爵令嬢が侯爵家嫡男に個人的に声をかければ、それだけで学園内の噂の種になる。


「だから名目が要るの。マティルダ、あなたにお願いしたいことがあるのだけれど」


マティルダは首を傾げた。


「学園改革に関する情報収集をしているということにしてほしいの。騎士科の現状について広く意見を聞いて回っている、と。クラウス様だけでなく、複数の騎士科生徒に話を聞く予定がある、という体裁で」


「なるほど」マティルダは扇子の先で唇に触れた。「あたしの社交網を使って、先に噂を流しておけばいいのですね。『グランツ公爵令嬢が学園の人材活用について調査を始めた』と」


「さすがね」


「お任せくださいませ。今日の午後のお茶会で、三家ほどに耳打ちしておきます」


マティルダが席を立ち、軽く一礼して教室を出ていく。伯爵令嬢として公爵家の私には敬語を崩さないが、その動作には気負いがない。この子の社交力は本物だ。ゲームでは「取り巻きA」として切り捨てられるだけの端役だったなんて、信じられない。


翌日の放課後。騎士科の訓練場に隣接する休憩棟の廊下で、私はクラウス・フォン・エッシェンバッハを待った。


午後の実技訓練が終わる時間を見計らっていた。騎士科棟は一般科の生徒も通行可能だが、訓練場そのものに立ち入ることはできない。休憩棟の廊下なら、訓練後の騎士科生徒が水を飲みに来る場所として自然だ。


足音が近づいた。重い革靴の音。汗を拭きながら廊下を歩いてくる長身の青年。火属性の祝福を持つ騎士科首席、クラウス。


「クラウス様」


私は一歩前に出て、軽く頭を下げた。公爵家から侯爵家への挨拶だ。形式上は私が上位だが、相手は年上の男子生徒であり、ここは彼の領域に近い。


クラウスは足を止めた。汗に濡れた前髪の下から、琥珀色の目がこちらを見る。


「グランツ公爵令嬢。何か御用ですか」


警戒の色があった。王太子の婚約者が騎士科の訓練場まで来る理由を、彼は測りかねている。


「お時間をいただけますか。学園の人材活用について調査をしておりまして、騎士科の現状について直接お話を伺いたいのです」


「人材活用?」クラウスは首の汗を手ぬぐいで拭いながら眉を上げた。「俺に聞くことですか。そういう話は騎士科の教官か、生徒会に聞いた方が早いでしょう」


「教官や生徒会の方にもお話を伺う予定です。ですが騎士科首席であるクラウス様のご意見も伺いたいと思いました」


クラウスは数秒、黙った。それから「立ち話もなんですから」と休憩棟の椅子を示した。


木の長椅子に向かい合って座る。廊下には他の生徒もちらほら通るが、訓練直後で皆急いでおり、こちらに注意を払う者は少ない。


「それで、何を聞きたいんですか」


クラウスは足を組み、背もたれに体を預けた。侯爵家嫡男らしい堂々とした座り方だが、声にはまだ警戒が残っている。


私は鞄から手帳を取り出し、膝の上に置いた。聞く姿勢を見せるためだ。前世の相談所では、クライアントの前でノートを開くだけで相手の警戒が和らぐことを学んだ。「この人は自分の話を記録するつもりだ」と思わせれば、人は話し始める。


「クラウス様は騎士科で首席を取られていますね。剣術の腕は学年随一と伺っています」


「事実ですから否定はしません」


率直だった。謙遜も驕りもない、単純な事実の確認。


「では、卒業後のことは考えていらっしゃいますか」


「騎士団に入ります」


即答だった。


「どの部隊を希望されていますか」


「近衛か、国境守備隊か。まだ決めてません。強い部隊に入れればそれでいい」


「強い部隊に入って、何をしたいですか」


クラウスの指が止まった。手ぬぐいを握ったまま、こちらを見た。


「何を、って。守るに決まってるでしょう。国を。民を」


「もう少し具体的に伺えますか」


沈黙。


クラウスは視線を廊下の向こうに逸らした。訓練場から戻ってきた下級生が一人、クラウスの姿を見て慌てて一礼し、足早に通り過ぎていく。


「具体的に、と言われても」クラウスは低い声で言った。「騎士は強くなければならない。強ければ守れる。それだけのことでしょう」


私は手帳に目を落としたまま、黙って待った。


前世のカウンセリングで何百回と繰り返した沈黙だ。相手が言葉を探している時、こちらが口を挟めば思考は止まる。待てば、その人自身の言葉が出てくる。


十秒。二十秒。


「……正直に言えば」クラウスは手ぬぐいを膝の上で畳み直した。「考えたことがない。剣を振ること以外で、自分が何をしたいのか」


その声には、本人も気づいていない不安が混じっていた。


「親父は侯爵家の当主で、領地経営も軍務も全部やっている。俺はその長男で、騎士科に入って首席を取った。それだけです。剣が強いから首席になっただけで、騎士団の実情も、領地の問題も、考えたことがない」


私は顔を上げた。


クラウスは自分の両手を見ていた。大きな手だ。訓練で硬くなった掌。その手が何を守りたいのか、本人が分かっていない。


「クラウス様」


「何ですか」


「あなたの強さが本当に守りたいものは、何ですか」


クラウスの表情が変わった。


怒りではない。驚きでもない。もっと奥にある何かが揺れたような、そんな顔だった。琥珀色の目が一瞬だけ細くなり、それからゆっくりと私の方を向いた。


「……それは、答えが出たら伝えた方がいいですか」


「伝えていただけたら嬉しいです。でも、急ぎません」


クラウスは鼻から短く息を吐いた。笑ったのかもしれない。


「変わった方ですね、グランツ公爵令嬢は」


「よく言われます」


クラウスが立ち上がった。「訓練の片付けがあるので、失礼します」と言い、一礼して廊下を戻っていく。その背中はまっすぐだったが、歩調がほんの少しだけ遅かった。考え事をしている人間の歩き方だ。


私は手帳を閉じ、膝の上で指を組んだ。


手応えはあった。クラウスは「強ければ守れる」という信念を持っているが、その信念の中身が空洞であることに、今日初めて気づいた。気づかせた、というよりも、彼自身の言葉がそこに辿り着いた。


これでいい。前世の相談所でも、最初の面談で答えが出ることはなかった。大事なのは問いを残すこと。その人の中に、自分自身への問いかけを植えること。


ただ、胸の奥には別の感情もあった。人の心に踏み込む行為への、静かな緊張。クラウスの空洞を見つけたのは私だ。けれどそれを「見つけてよかった」と無邪気に喜べるほど、私は鈍くない。他人の内面に手を伸ばすことは、いつだって慎重でなければならない。


夕刻。図書館に戻った。


書庫で作業をするつもりだったが、受付の窓口を通りかかった時、ルーカスが私の方を見た。正確には、私が通りかかった瞬間に一瞬だけ視線を上げ、すぐに台帳に目を戻した。


「あの、ルーカスさん」


「はい」


「先日は資料の場所を教えていただき、ありがとうございました。おかげで必要な記録に辿り着けました」


「職務ですので」


素っ気ない返答だった。だが彼は台帳から顔を上げず、窓口の下から一枚の紙を取り出した。


「こちらを」


差し出されたのは、また紙片だった。区画番号と、短い注記。「一階閉架棚、区画番号三の八。騎士団編成史および部隊配置記録」。


私は息を止めた。


騎士団の組織図。数日前にルーカスが置いていった紙片と同じ系統の資料。しかし今回は「編成史」と「部隊配置記録」だ。より詳細な、より実務的な情報。


私は今日、クラウスと騎士団の話をした。その事実をルーカスが知っているはずがない。書庫にいたわけでも、休憩棟にいたわけでもない。


けれどこの紙片は、まるで私の次の一手を読んだかのように用意されている。


「……なぜ、この資料が必要だと」


ルーカスは台帳に目を落としたまま答えた。


「学園制度の変遷記録を調べる方が、次に必要とする資料は限られます。前回お渡しした組織図の閲覧履歴が残っていましたので、その延長かと」


閲覧履歴。なるほど、私が前回の紙片に従って組織図を閲覧した記録が、図書館の台帳に残っていたのだ。司書補として閲覧記録を管理する立場にあるルーカスは、私の調べ物の方向性を業務の中で把握している。


論理的な説明だった。超能力でも読心術でもない。ただの職務上の観察と推論。


それでも、私は鞄の中の紙片に指を触れた。この人の観察力は、ただの司書補の域を超えている。


「ありがとうございます。お借りします」


紙片を受け取る時、ルーカスの指先が一瞬見えた。インクの染みがついた、細い指。その手はすぐに台帳の上に戻った。


私は閉架棚に向かいながら、考えた。


ルーカス・ヘルダー。ゲームにいない人間。攻略対象でも、名前のあるキャラクターでもない。なのに、この学園で私の調べ物の意図を最も正確に察している人物。


存在を認知した、という段階だった。信頼でも好意でもない。ただ、この司書補が「普通の貴族とは違う調べ物をする生徒」として私を見ていることだけは分かった。


そしてそれは、私にとっても同じだった。ルーカスは「普通の司書補とは違う観察をする人」だ。


今はそれだけでいい。


閉架棚の薄暗い通路に入り、区画番号三の八を探す。騎士団編成史の古い革装本を棚から引き抜いた時、背表紙の裏にうっすらと埃の跡が見えた。この本を最後に手に取った人間は、かなり前のことらしい。


誰かがこの情報を必要としている。けれど誰もここまで辿り着かなかった。


私は本を開いた。クラウスの空洞を埋めるための手がかりが、この中にあるかもしれない。

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