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『午後二時の、善良な目撃者』  作者: 久遠 睦


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断罪のパレード

第9章 断罪のパレード


1

その瞬間、あやめ台の時は止まった。

『……だから、頼みますよ会長』 『しつこいな。開発はこの街のためだ。君のような個人的な感傷で止めるわけにはいかんのだよ』

巨大なスピーカーから放たれたのは、陽気な祭囃子でも、権田の美声でもなかった。  ザラザラとしたノイズの奥から響く、生々しい男たちの会話。  数千人の観衆が、何が起きたのか理解できずに顔を見合わせる。マイクのハウリングか? 演出か?  だが、ステージ上の権田だけは違った。  彼はスピーチの途中で口を開けたまま、石像のように硬直していた。その顔から、瞬時に血の気が引いていくのが、遠目にもはっきりと分かった。

『……残念だ』 『おい、やれ』 『……うわぁっ!』

悲鳴。  打撃音。  そして、冷酷な雨音。

会場の空気が一変した。  ざわめきが波紋のように広がり、やがてどよめきへと変わる。  子供が泣き出し、母親たちが不安そうに空を見上げる。  権田は震える手でマイクを握りしめ、何かを叫ぼうとした。しかし、スピーカーの音量が大きすぎて、彼の声はかき消される。

『……死んだか?』 『はい。首の骨が……』 『事故だ。酔っ払って足を滑らせた。いいな』

決定的な言葉が、青空の下に響き渡った。  それは、この美しい街のいしずえに、死体が埋まっていることを告げる弔鐘ちょうしょうだった。

「切れ! 音を切れェッ!」  権田が絶叫した。  その形相は、いつもの温厚な紳士のものではない。血管を浮き上がらせ、唾を飛ばして喚き散らす、狂乱した老人の姿だった。  舞台袖のスタッフたちが慌てふためき、音響テントの方へ視線を走らせる。

テントの中では、優子がフェーダーを握りしめたまま、必死に抵抗していた。  外から男たちが怒号を上げて入ってこようとする。 「おい! 何やってんだ! 開けろ!」  入り口で玲子がパイプ椅子を振り回し、バリケードのように立ちはだかっていた。 「触るんじゃないよ! 今、クライマックスなんだから!」 「どけ! このアマ!」  屈強なスタッフの一人が玲子を突き飛ばした。  玲子が機材ケースに背中を強打し、崩れ落ちる。 「玲子さん!」  優子が叫ぶ。  その隙に、別のスタッフがミキサー卓に飛びつき、乱暴に電源コードを引き抜いた。

ブツンッ。  不快な破裂音と共に、テープの音声が途切れた。  会場に、耳が痛くなるような静寂が戻った。


2

静寂は、数秒しか続かなかった。  その後を埋めたのは、疑念と恐怖のさざ波だ。 「今の、何?」「人殺しって聞こえたけど」「権田さんの声だったよな?」  人々はステージ上の権田を凝視している。

権田は、肩で息をしながら、整髪料で固めた髪を振り乱していた。  彼はマイクが生保されていることを確認すると、引きつった笑顔を張り付けた。 「……し、失礼しました! ただいま、悪質な電波ジャックによる妨害がありました!」  権田の声が裏返る。 「最近流行りの、AIを使った音声捏造ディープフェイクです! 私を陥れようとするテロリストの仕業です! 皆さん、騙されないでください! 警察にはすぐに通報しますから!」

苦しい言い訳だった。  だが、混乱する群衆の中には、「ああ、AIか」「やっぱり偽物か」と安堵の表情を浮かべる者もいた。  人は、信じたいものを信じる。  自分たちの街のリーダーが殺人者であるという現実より、誰かの悪戯いたずらだという嘘の方が、心地よいからだ。

来賓席の健一も、立ち上がって叫んでいた。 「そうだ! 権田さんがそんなことするはずがない! 誰だ、こんな悪質なことを!」  彼は権田を守ることで、自分自身の選択が間違いでなかったと証明しようと必死だった。

テントの中で、優子はその光景を見ていた。  やっぱり、ダメなのか。  ここまでやっても、権力という巨大な岩は動かないのか。  スタッフに腕を掴まれ、外へ引きずり出されそうになりながら、優子は絶望しかけた。

「……諦めるな」  足元で、玲子が呻くように言った。  彼女は唇から血を流しながら、ニヤリと笑っていた。 「舞台は整った。……あとは主役の出番だよ、西園寺さん」

主役。  優子はハッとした。  そうだ。テープはただのきっかけに過ぎない。  最後に真実を決定づけるのは、「誰か」の肉声だ。  AIでも捏造でもない、生身の人間の告発だけが、あの嘘を突き破れる。

優子はスタッフの手を振りほどいた。  火事場の馬鹿力だった。驚く男たちを突き飛ばし、優子はテントを飛び出した。  逃げるためではない。  ステージへ向かうために。


3

優子は階段を駆け上がった。  サンバイザーを投げ捨て、マスクを引きちぎる。  乱れた髪、汗ばんだ顔、安っぽいカーディガン。  スポットライトの中に飛び込んだ彼女は、どこにでもいる、なりふり構わない中年女性の姿だった。

突然の乱入者に、権田がギョッとして後ずさる。 「だ、誰だお前は! 警備員! 何をしている!」  警備員たちが駆け寄ろうとするが、優子は権田のマイクスタンドをひったくった。

キーン、とハウリング音が鳴り響く。  優子は数千人の視線を一身に浴びた。  足が震える。喉が渇く。  怖い。逃げ出したい。  でも、視界の隅に、呆然と口を開けている夫と娘の姿が見えた。  理央が、怯えている。  その顔を見た瞬間、優子の腹の底から、熱い塊が込み上げてきた。

「捏造じゃありません!」  優子の声が、スピーカーを通して会場に響いた。  震えているが、よく通る声だった。スーパーのタイムセールで店員を呼ぶ時と同じ、生活に根ざした力強い声。

「今のテープは本物です! 二十年前、この人が殺人を指示した証拠です!」 「貴様……!」  権田が優子に掴みかかろうとする。  優子はそれを睨みつけた。 「触らないで!」  その剣幕に、権田が一瞬怯んだ。

優子は客席に向き直った。  広場を埋め尽くす、ご近所さんたちの顔、顔、顔。 「私は、あやめ台三丁目に住む、西園寺優子です!」  名乗った。  もう、後戻りはできない。 「皆さんが知っている、普通の主婦です。毎日ゴミを出し、スーパーで買い物をし、この街で暮らしている、ただの主婦です!」

ざわめきが静まり返る。  「西園寺さんだ」「あの奥さんが?」「どういうこと?」

「私は見ました。この人が、裏で汚い取引をしているところを。私は聞きました。この人が、私の家族を脅し、娘の命を奪うと言った言葉を!」  優子は涙を流しながら、叫んだ。  悲劇のヒロインとしてではなく、怒れる母として。 「この街は綺麗です。ゴミひとつなくて、平和で。……でも、その平和は、この人の犯罪の上に成り立っていたんです! 私たちは騙されていたんです!」

「黙れ! 狂人だ! この女は頭がおかしい!」  権田が優子からマイクを奪おうと揉み合いになる。  男の力には勝てない。優子は突き飛ばされ、ステージの床に倒れ込んだ。 「連れて行け! 精神病院へぶち込め!」  権田が警備員に怒鳴り散らす。  その醜悪な姿は、巨大なスクリーンに大写しになっていた。

警備員が優子を取り押さえようとした、その時。 「やめろッ!」  客席から、一人の男が柵を乗り越えて飛び出してきた。  健一だった。  彼は顔面蒼白で、しかし鬼のような形相でステージに駆け上がってきた。

「健一さん……」  優子が呟く。  健一は優子を助け起こすのではなく、権田の前に立ちはだかった。 「権田さん……嘘ですよね?」  健一の声は震えていた。 「妻が言ってることは妄想ですよね? 脅したなんて、娘を殺すなんて、嘘ですよね?」 「当たり前だ! 君の妻は病気なんだよ!」  権田は健一の肩を抱こうとした。 「さあ、妻を連れて帰りなさい。私がいい病院を紹介して……」

「触るなッ!」  健一が権田の手を振り払った。  その目には、涙が溜まっていた。 「妻は……優子は、嘘をつくような女じゃない」  健一は絞り出すように言った。 「十八年間、一度だって俺を騙したことなんてなかった。……俺が気づかなかっただけだ。妻が何かに怯えているのを、俺が見ようとしなかっただけなんだ!」

健一は優子の方を向き、泣き崩れるように膝をついた。 「すまない……優子、すまない……!」  優子は夫の背中を抱きしめた。  遅すぎる。でも、彼は最後に、権力ではなく家族を選んだ。    それだけで十分だった。


4

形勢は逆転した。  西園寺夫婦の姿――泣き崩れる夫と、彼を支えて権田を睨みつける妻――は、どんな演説よりも雄弁に真実を物語っていたからだ。

客席から、一人、また一人と、スマートフォンを掲げる者が現れた。  最初は若者たちが。次に主婦たちが。そして、高齢者たちまでもが。  数千台のスマートフォンのレンズが、一斉にステージ上の権田に向けられる。  現代の処刑台だ。   「説明しろ!」「人殺し!」「西園寺さんを放せ!」  怒号が飛び交う。  権田は後ずさった。  「違う、私は……この街のために……」  彼の声はもう、誰にも届かない。    そこへ、サイレンの音が近づいてきた。  会場の警備のために待機していた警察官たちではない。県警本部のパトカーの列だ。  制服警官たちがステージになだれ込んでくる。  その先頭にいた刑事が、権田の前に立ち、手帳を示した。

「権田惣一郎。殺人教唆および恐喝の容疑で逮捕状が出ている」 「な、何を……署長はどうした! 彼に電話をさせろ!」 「署長なら、今朝ほど重要参考人として連行されましたよ」  刑事は冷たく言い放った。 「ネットで出回っている告発記事、読みましたか? 『フリーライター神崎玲子』によるスクープ記事。……あれで県警も動かざるを得なくなったんですよ」

優子は目を見開いた。  舞台袖を見ると、玲子が柱にもたれかかり、スマホを振ってウィンクしていた。  彼女は、消されたはずの記事のバックアップをどこかに隠し持っていたのか、あるいは優子が奮闘している間に、その場で書き上げて配信したのか。  どちらにせよ、彼女の「仕事」は完璧だった。

権田の両手に手錠がかけられる。  ガチャン、という冷たい金属音が、マイクを通して会場に響いた。  かつて街を支配した王は、無様に項垂うなだれ、両脇を抱えられて連行されていく。  観衆の怒号は、いつしか拍手へと変わっていった。  それは権田への称賛ではなく、勇気ある告発者への賛辞だった。


5

騒動が収束した後のステージ裏。  優子はパイプ椅子に座り、救護班の女性に擦りむいた腕の手当を受けていた。  アドレナリンが切れ、全身の震えが止まらない。

「ママ!」  理央が泣きながら走ってきて、優子に抱きついた。 「ごめんなさい、私、ママのこと……!」 「いいのよ、理央。無事でよかった」  優子は娘の温もりを確かめるように、強く抱きしめ返した。  健一は少し離れた場所で、ばつの悪そうに立っていたが、やがておずおずと近づいてきた。 「優子。……本当に、すまなかった。俺はなんて馬鹿だったんだ」 「……ええ、本当に馬鹿だったわ」  優子は涙を拭って、少しだけ笑った。 「これからは、私の言うこと、ちゃんと聞いてね」 「ああ。一生、頭が上がらないよ」

そこへ、玲子が氷嚢ひょうのうを頬に当てながらやってきた。 「感動の再会中、悪いけど」  玲子は健一を一瞥いちべつし、「あんた、次は無いからね」と凄んだ。健一がヒッと縮み上がる。  そして、優子に向き直り、ニカッと笑った。

「やったね、共犯者さん。……世界一カッコいい主婦だったよ」 「あなたのおかげよ。玲子さん」  優子は手を差し出した。  玲子はその手を握り返した。  汗と泥で汚れた手同士の握手。それは、あやめ台のどんな綺麗な社交辞令よりも、固く、熱い絆で結ばれていた。

ステージの向こうには、夕焼けに染まったあやめ台の街並みが広がっている。  昨日までと同じ風景。  けれど、その空気は以前よりも少しだけ澄んで見えた。  「完璧な街」のメッキが剥がれ、ありのままの、少し不格好だけど人間臭い街へと戻っていく予感がした。

優子は大きく深呼吸をした。  明日からはまた、スーパーに行き、ご飯を作り、洗濯をする日常が待っている。  でも、もう恐怖はない。  私は知っている。自分が何を守り、何と戦える人間なのかを。

「さあ、帰ろうか」  優子は立ち上がり、家族と友人に声をかけた。  午後五時のチャイムが、街に優しく響き渡った。


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