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『午後二時の、善良な目撃者』  作者: 久遠 睦


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透明な侵入者

第8章 透明な侵入者


1

「……本気なの? これで」  玲子は、安宿の洗面所の鏡に映った自分の姿を見て、絶句していた。  トレードマークだった金髪のメッシュは黒染めスプレーで塗りつぶされ、派手なピアスは外されている。代わりに身につけているのは、色褪せたベージュのカーディガンと、ゴムウエストの黒いパンツ。そして、どこのスーパーでも売っているような、ロゴ入りの安っぽいサンバイザーだ。  その姿は、かつての尖ったフリーライターの面影など微塵もない。どこにでもいる、少し生活に疲れた中年女性そのものだった。

「完璧よ」  優子は満足げに頷いた。  優子自身も変貌を遂げていた。  丁寧にブローされていた髪は無造作に後ろで束ねられ、少し猫背気味に背中を丸めている。顔には、あえてファンデーションを塗らず、眼鏡をかけ、大きな白いマスクをしている。  十八年間維持してきた「綺麗な奥様」のオーラを、意識的に消し去っていた。

「人間はね、興味のないものは見ないの」  優子は玲子の襟元を整えながら言った。 「特に、中年の女性に対して、世間の男の人たちは驚くほど無関心よ。私たちが『風景』の一部になりきれば、警備員の目だって節穴になるわ」 「……あんた、言うようになったわね」  玲子は苦笑しながら、ウエストポーチの位置を直した。この中には、あのカセットテープと、それを再生するための小型プレイヤー、そして配線ケーブルが入っている。 「でも、悔しいけど説得力がある。私、今誰かとすれ違っても、二秒後には忘れられる自信があるわ」 「それが狙いよ。私たちは透明人間になるの」

作戦決行の日。土曜日。  あやめ台市民フェスティバルの開催日だ。  空は皮肉なほど晴れ渡り、絶好の祭り日和となっていた。  二人は、玲子の軽バンではなく、バスと電車を乗り継いで街へ向かった。  駅に降り立つと、法被はっぴを着た人々や、楽しげな家族連れで溢れかえっていた。  その喧騒の中、二人の地味な中年女性に目を留める者は、誰一人としていなかった。


2

あやめ台中央公園は、街の中心にある広大な芝生広場だ。  今日はその中央に巨大な特設ステージが組まれ、周囲には焼きそばや綿菓子の屋台がひしめき合っている。  スピーカーからは陽気な音楽が流れ、子供たちの歓声が響く。平和の象徴のような光景だ。  だが、優子の目には、その裏にある異様な緊張感が見て取れた。

「……いるわね」  玲子が小声で囁く。  会場の要所要所に、お揃いの黒いジャンパーを着た屈強な男たちが立っていた。背中には『自警団』の文字。  表向きは祭りの警備ボランティアだが、その目つきは鋭く、来場者の顔を一人一人確認している。  中には、あの阿久津を追っていた時の男たちも混じっているかもしれない。

「入り口の検問、結構厳しいわよ」  メインゲートでは、手荷物検査が行われていた。 「大丈夫。正面からは行かない」  優子はサンバイザーを目深に被り直した。 「こっちよ。裏口があるの」

優子はこの祭りの裏側を知り尽くしていた。  理央が小学生の頃、PTA役員として何度も手伝いに駆り出されたからだ。機材の搬入経路、スタッフの休憩所、そして、ステージ袖への近道。  それらの記憶が、今、潜入ルートとして鮮やかに蘇る。

二人は会場の裏手、公衆トイレの脇にある植え込みの隙間を抜けた。  そこには、業者用の搬入口がある。  『関係者以外立入禁止』の看板の前に、若い警備員が一人立っていた。  スマホをいじりながら、退屈そうにあくびをしている。

「行くわよ」  優子はスーパーの袋を二つ提げ、玲子に目配せをした。  そして、堂々と警備員に歩み寄った。

「お疲れ様ですー! これ、差し入れです!」  優子は急に、明るく甲高い「おばさん声」を出した。  警備員が驚いて顔を上げる。 「えっ、あ、はい?」 「婦人会からです。皆さん朝から大変でしょう? 冷たいお茶とおにぎり、そこの詰め所に置いておきますからね」  優子は警備員の返事も待たずに、ズカズカとゲートの中に入ろうとする。  そのあまりに自然で、厚かましい振る舞いに、警備員は制止するタイミングを失った。 「あ、ありがとうございます……でも、パスとか……」 「あらやだ、忙しくて忘れちゃったわよ! すぐ戻るからいいでしょ? ほら、後ろの人も待ってるし」  優子は玲子を振り返る。  玲子もまた、猫背でペコペコと頭を下げ、「すんませんねえ」と小芝居を打った。  警備員は困ったように頭をかき、「……じゃあ、手早くお願いしますよ」と通してしまった。

ゲートを通過し、テントの影に入った瞬間、二人は顔を見合わせて小さくガッツポーズをした。 「すごいわ、西園寺さん」  玲子が感心したように言う。 「あいつ、私たちの顔なんて見てなかった。『差し入れを持ってきたおばさん』という記号としてしか認識してなかったわ」 「言ったでしょう。おばさんは最強の迷彩服だって」  優子は心臓が早鐘を打っているのを悟られないよう、深く息を吐いた。


3

バックヤードは、出演者の控室テントや機材トラックが並び、表の喧騒とは違う慌ただしさに包まれていた。  目指すは、ステージ脇にある音響テントだ。  そこにあるメインミキサーに、玲子のプレイヤーを接続し、マイクの回線に割り込ませる。それが今回のミッションだ。

権田のスピーチは、午後二時から。  現在時刻は一時半。あと三十分しかない。  二人はパイプ椅子の搬入を手伝うふりをしながら、徐々にステージへと近づいていった。

その時。 「あれ? 西園寺さんの奥さんじゃない?」

背後からかけられた声に、優子の全身が凍りついた。  心臓が口から飛び出しそうになる。  ゆっくりと振り返るべきか、無視して進むべきか。  無視すれば怪しまれる。  優子は覚悟を決めて、ゆっくりと振り返った。

そこに立っていたのは、近所の鈴木さんだった。  お揃いの法被を着て、ゴミ袋を片付けている最中らしい。  鈴木さんは優子の顔を覗き込み、そして首を傾げた。 「……人違いかしら? ごめんなさい、後ろ姿が似てたから」

気づかれていない。  マスクと眼鏡、そしてこの貧相な格好のおかげだ。  鈴木さんの中にある「エレガントな西園寺優子」と、目の前の「地味な作業員」が結びつかなかったのだ。  優子は声を低くして、愛想笑いを浮かべた。 「いえいえ、よく間違われるんですよぉ」 「そうよねえ。西園寺さんがこんな格好するわけないものね」  鈴木さんは納得したように笑い、「お疲れ様です」と言って去っていった。

優子はその場にへたり込みそうになった。  鈴木さん。昨日まで笑顔で挨拶を交わしていた隣人。  彼女は悪気なく、優子の存在を否定した。「こんな格好するわけない」と。  それは、優子が築き上げてきたアイデンティティが、いかに表面的なものであったかを突きつけられる瞬間でもあった。

「行くよ」  玲子に背中を叩かれ、優子は我に返った。  感傷に浸っている場合ではない。  音響テントまであと二十メートル。

テントの前には、スタッフTシャツを着た若い男が二人いた。  彼らはミキサー卓の前で談笑している。  どうやって彼らを追い払うか。  玲子がポケットから何かを取り出した。百円ライターだ。 「私がボヤ騒ぎを起こす。その隙に入り込んで」 「えっ、危ないわよ」 「大丈夫、ゴミ箱に火をつけるだけ。……あいつら、タバコ吸いたそうにしてるから、ちょうどいいわ」

玲子はテントの裏手にある喫煙スペースへと回っていった。  数分後。 「うわっ、火だ!」  誰かの叫び声が上がった。  ゴミ箱から煙が上がっている。  音響スタッフの二人が、「おい、水!」と慌ててテントを飛び出していった。

今だ。  優子は誰もいなくなった音響テントに滑り込んだ。  目の前には、複雑なつまみが並ぶ巨大なミキシングコンソール。  どれがメインスピーカーのフェーダー(音量調整つまみ)なのか。  優子は素人だが、玲子から叩き込まれた知識を総動員する。  『MASTER』と書かれた赤いフェーダー。これだ。  そして、外部入力端子(AUX)を探す。

その時、ステージの方から大きな拍手が湧き起こった。  司会者の声がスピーカーから響く。 『皆様、お待たせいたしました! あやめ台自治会長、権田惣一郎様のご挨拶です!』

始まった。  優子はテントの隙間からステージを見た。  スポットライトを浴びて、白いスーツを着た権田が中央に進み出てくる。  その笑顔は、どこまでも自信に満ち溢れ、輝いていた。  観客席の最前列には、来賓席が設けられている。  そこに座っている人物を見て、優子の手が止まった。

夫の健一と、娘の理央だった。  二人は権田に拍手を送っている。  健一は誇らしげに胸を張り、理央は少し退屈そうだが、綺麗なワンピースを着て大人しく座っている。   (あそこに、私がいるべきだったのに)

一瞬、強烈な喪失感が襲ってきた。  もし、あの日の午後二時、公園に行かなければ。  今頃、私はあの席で、良き妻、良き母として微笑んでいられたはずだ。  権田が殺人者だと知らずに。夫が裏切り者だと知らずに。  それは偽りの幸せかもしれない。でも、暖かくて、安全な幸せだった。

戻りたい。  ここから逃げ出して、全てを忘れて、あの席に戻りたい。  優子の指が、震えて止まった。

その時、テントの入り口がガサリと開いた。  戻ってきたスタッフか?  優子は息を呑んで振り返った。    そこに立っていたのは、ボヤ騒ぎに乗じて戻ってきた玲子だった。  玲子は優子の凍りついた表情と、視線の先にある家族の姿を見て、全てを察したようだった。  彼女は何も言わず、優子の隣に立ち、その震える手をぎゅっと握りしめた。

「……見なさい」  玲子は低い声で言った。 「あんたの家族は、今、悪魔に拍手してる。あんたがここで止めなきゃ、彼らは一生、悪魔の生贄いけにえのままだよ」

優子はハッとした。  そうだ。  戻る場所なんてない。あの幸せは、権田という怪物の手の上で踊らされているだけの幻だ。  私が守るべきなのは、過去の平穏じゃない。  理央の未来だ。

権田がマイクを握り、朗々とした声で話し始めた。 『えー、本日は晴天に恵まれ……この美しきあやめ台の平和は、住民の皆様の協力によって支えられています……』

平和。協力。  どの口が言うのか。  優子の目から迷いが消えた。  怒りが、冷たい刃となって心を研ぎ澄ませる。    優子は玲子からプレイヤーを受け取り、ケーブルをミキサーの端子に突き刺した。  玲子が入り口で見張りに立つ。 「やって! 西園寺さん!」

優子はミキサーのフェーダーに手をかけた。  これを上げれば、私の人生は完全に終わる。  西園寺優子という主婦は死に、告発者という名の犯罪者になるかもしれない。  それでもいい。

優子はプレイヤーの再生ボタンを押し、フェーダーを一気に最大まで押し上げた。

『……だから、頼みますよ会長』

権田の美辞麗句を切り裂いて、亡霊の声が会場中に轟いた。


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