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『午後二時の、善良な目撃者』  作者: 久遠 睦


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黒い通知

第7章 黒い通知


1

翌朝、優子が目を覚ますと、部屋の中は煙草の煙で白く淀んでいた。  玲子はパソコンの前で固まったまま、画面を睨みつけている。その背中から漂うのは、昨夜の頼もしさではなく、焦燥と激しい怒りだった。

「……おはよう。玲子さん、眠ってないの?」  優子が声をかけると、玲子はゆっくりと振り返った。充血した目が、ギラギラと光っている。 「おはよう、お姫様。……悪い知らせと、もっと悪い知らせがある。どっちから聞きたい?」  優子は身構えた。 「……悪い知らせから」 「昨夜、あんたが寝てる間に私のクラウドストレージに不正アクセスがあった。パスワードは破られ、保存していた取材データ、顧客リスト、過去の記事のアーカイブ……全部、綺麗さっぱり消されたわ」 「えっ……」 「プロの仕業よ。足跡ひとつ残さずに、私というライターの『資産』を一瞬で焼却した。……あの権田って男、ただの昭和の地上げ屋かと思ってたけど、随分とハイテクな掃除屋を飼ってるみたいね」

優子は血の気が引くのを感じた。  この汚いアパートにいれば安全だと思っていた。けれど、敵は物理的な壁など無視して、回線を通じてここへ侵入していたのだ。 「じゃあ、もっと悪い知らせって……?」 「今朝、書き上げた原稿を懇意にしてる週刊誌の編集長に送ったの。そしたら、十分もしないうちに電話がかかってきた」  玲子はデスクの上のスマートフォンを顎でしゃくった。 「『神崎さん、残念だけどこのネタは扱えない』だってさ。理由を聞いたら、言葉を濁してたけど、要するに『圧力がかかった』ってこと」 「そんな……まだ送ったばかりなのに?」 「先手を打たれてたのよ。業界内に、私の悪評が流されてる。『神崎玲子はネタを捏造して企業を強請ゆする恐喝屋だ』ってね。……権田は、私が動くことを予測して、私の信用を先回りして潰したんだわ」

優子は言葉を失った。  カセットテープという「真実」を持っていても、それを発信する「場所」がなければ、ただのゴミと同じだ。  権田は、優子の声を届かなくするために、周りの空気を真空に変えてしまったのだ。

「ごめんなさい……私のせいで、あなたの大事な仕事まで」  優子が謝ると、玲子は乱暴に頭をかいた。 「湿っぽいのはナシ。……逆に燃えてきたわ。ここまでやるってことは、あいつ相当ビビってる証拠よ。このテープが致命傷になるって認めてるようなもんじゃない」  玲子は強気な笑みを浮かべたが、その指先が微かに震えているのを優子は見逃さなかった。  彼女もまた、追い詰められている。

その時。  ピンポーン。  玄関のチャイムが鳴った。  二人の体が強張る。  こんな朝早くに、誰が?

「……宅配便?」優子が小声で尋ねる。 「何も頼んでない」玲子が首を振る。  玲子は音を立てずに立ち上がり、ドアの覗きドアスコープへと忍び寄った。  優子も息を潜める。  玲子が片目で外を覗き――そして、ハッと息を呑んで飛び退いた。

「逃げるよ」  玲子の声は悲鳴に近かった。 「え?」 「作業着の男が二人。……手に、工具を持ってる。『ガスの点検』を装ってるけど、あれはピッキングツールだ。鍵を開けて入ってくる気よ」

ガチャン、ガチャン。  ドアノブが不自然に回される音が響く。  チャイムが連打される。 「神崎さーん! ガス点検でーす! 漏れが検知されたんで、緊急で開けますよー!」  嘘だ。ガス漏れなんてしていない。  彼らは強行突入するつもりだ。優子とテープを確保するために。

「窓から出る!」  玲子は優子の手を取り、ベランダへと走った。 「ここのベランダ、隣のビルの非常階段に近いから飛び移れるの。靴履いてる暇ない、サンダルでいいから!」  優子はクーラーボックスを抱きかかえ、玲子の後を追った。  二階のベランダ。隣の雑居ビルの鉄階段まで、一メートルほどの隙間がある。  下はコンクリートの路地裏だ。落ちれば骨折どころでは済まない。

「跳ぶよ!」  玲子が軽やかに柵を乗り越え、向こう側へ着地する。  優子は足がすくんだ。  怖い。  けれど、背後のドアで、バリッという破壊音が聞こえた。  チェーンが切られた音だ。もう、部屋の中に彼らが入ってくる。

優子は目を閉じ、死に物狂いで跳んだ。  ドスン。  着地の衝撃で膝をつく。クーラーボックスがガチャリと音を立てた。 「早く!」  玲子に手を引かれ、優子は錆びた鉄階段を駆け下りる。  上を見上げると、玲子の部屋のベランダに、男たちが立ってこちらを見下ろしているのが見えた。  作業着にマスク姿。その目は無機質で、感情が読み取れない。

彼らは叫びもせず、追っても来なかった。  ただ、携帯電話を取り出して、どこかへ連絡を入れている。  それが余計に恐ろしかった。  『ネズミが逃げた。次のポイントで捕獲せよ』  そう報告しているように見えたからだ。


2

玲子の軽バンで走り出してからも、優子の震えは止まらなかった。  後部座席でクーラーボックスを抱きしめ、何度も後ろを振り返る。  今のところ、追尾してくる車はない。  だが、街中のすべての車が、すべての信号機が、自分たちを監視しているように思えてならなかった。

「……どこへ行くの?」  優子が尋ねると、ハンドルを握る玲子は舌打ちをした。 「アジトはバレた。実家も仕事場もダメ。……こうなると、ネットカフェか、ラブホテルくらいしか潜伏場所がないわね」 「そんな……」 「金はある?」 「財布に三万くらい」 「私は手持ちが一万ちょっと。カードは止められてる可能性があるから使えない。……長期戦は無理ね」

二人は、社会というシステムから弾き出された異物だった。  家も、金も、信用もない。あるのは、巨大な敵の秘密だけ。

その時、優子のポケットに入れていたスマートフォンが震えた。  電源を入れてしまったのだ。先ほどの逃走の際、緊急通報が必要になるかもしれないと思って。  着信画面を見て、優子は息を呑んだ。  『夫』。  健一からだ。

「出ちゃダメ!」  玲子が叫ぶ。「GPSで居場所を特定される!」 「で、でも……メッセージが」  通知バーに表示されたメッセージの冒頭を見て、優子の思考が停止した。

『理央が事故に遭った。K大学病院に搬送された。意識がない。すぐ来てくれ』

理央が。  事故。意識がない。  優子の頭の中が真っ白になった。  権田の脅しだ。  『娘の大学に行くぞ』という阿久津の言葉。  『大事なものを落とさないように』という権田の言葉。  あいつら、本当にやったんだ。

「病院に行かなきゃ!」  優子は半狂乱で叫んだ。 「K大学病院だって! 玲子さん、お願い、向かって!」 「待って、落ち着いて!」  玲子は車を路肩に寄せ、急ブレーキをかけた。 「それ、本当なの? 罠かもしれないわよ」 「罠でもいい! 理央が死にそうなのよ! 私が逃げたせいで……あの子が!」  優子はドアを開けようとした。  玲子が助手席に身を乗り出し、優子の肩を掴んで揺さぶった。 「しっかりしろ! いいからスマホを見せなさい!」

玲子は優子の手からスマホを奪い取り、メッセージを凝視した。  そして、冷静な声で言った。 「……おかしいわ」 「何が!?」 「『意識がない』なんて重大な状況なら、普通は電話をかけてくるはずよ。それなのに、なんでメッセージ一通だけなの? それに、K大学病院はあやめ台から一番近い大病院よ。権田の影響力が強いエリアだわ」 「でも、もし本当だったら……!」 「理央ちゃんのスマホに電話してみる」  玲子は自分のスマホを取り出し、優子のスマホに表示されている理央の番号を入力した。  非通知設定で発信する。

プルルル、プルルル。  長い呼び出し音。  優子は祈るような気持ちで待った。出て。お願い、出て。  十回、二十回。  出ない。やっぱり、意識がないんじゃ。  そう思いかけた時。

『……はい』  小さな、怯えたような声がした。  理央の声だ!

「理央!? 私よ、ママよ!」  優子が玲子の手からスマホを奪って叫ぶ。 『……ママ? ママなの?』 「理央、無事なの? 事故に遭ったって……」 『え? 事故? 何言ってるの? 私、今大学の図書館にいるけど』

力が抜けた。  優子はシートに深く沈み込んだ。 「……よかった。本当によかった……」 『それよりママ、どこにいるの? パパがすごく怒ってる。ママが浮気して男と駆け落ちしたって……家の中、めちゃくちゃだよ』  浮気。駆け落ち。  健一はそうやって娘に説明したのか。妻の名誉を守るどころか、汚名を着せて自分を正当化している。 「……嘘よ。そんなことしてない」 『じゃあ帰ってきてよ! 昨日の夜、知らないおじさんたちが来て、家の中を何か探してたよ。パパは『防犯点検だ』って言ってたけど……私、怖くて』

家探しだ。  権田の手下が、堂々と西園寺家に入り込み、証拠を探したのだ。  健一はそれを黙認した。いや、手引きしたのかもしれない。  あの家はもう、完全に敵の陣地だ。

「理央、聞いて」  優子は涙を堪えて言った。 「ママは今、悪い人たちと戦ってるの。でも絶対に理央を守るから。……しばらく家に帰れないけど、パパの言うことを信じちゃダメ。そして、知らない人には絶対についていかないで」 『ママ……?』 「愛してるわ。……切るね」

通話を切ると同時に、玲子がスマホを取り上げ、電源を落とした。 「ギリギリだったわね。今の通話で、大体のエリアは絞られたかもしれない」  玲子は車を再び発進させた。 「旦那からのメッセージは、あんたをおびき寄せるための嘘だった。……最低な野郎だわ。娘の命をダシに使うなんて」  玲子の声には、軽蔑と怒りが滲んでいた。

優子は窓の外を見た。  夫は、もう完全に「向こう側」の人間だ。  私を捕まえるためなら、娘の事故死すら捏造する。  そこまでして守りたい「平穏」とは、一体何なのだろう。

「……ねえ、玲子さん」  優子は虚ろな声で言った。 「私、甘かった。記事が出れば勝てると思ってた。でも、彼らは記事が出る前に私を潰しに来た」 「そうね」 「どうすればいいの? 証拠はあるのに、誰も見てくれない。誰も信じてくれない」

玲子はしばらく無言で運転していたが、やがてハンドルを切って、古びたコインランドリーの駐車場に入った。 「……最後の手段があるわ」 「最後?」 「ああ。ハイリスク・ハイリターンな賭けだけどね」  玲子はサイドブレーキを引き、真剣な眼差しで優子を見た。 「メディアがダメ、警察もダメ。なら、直接『現場』で公開処刑にするしかない」

「現場?」 「今週末、あやめ台で『市民フェスティバル』があるのを知ってる?」  優子はハッとした。  知っている。毎年恒例の、街一番のイベントだ。中央公園に特設ステージが組まれ、屋台が並び、多くの住民が集まる。  そして、その開会式で挨拶をするのは、実行委員長である権田惣一郎だ。

「権田がステージに立って、善人面してスピーチをしているその最中に」  玲子はニヤリと笑った。 「あいつ自身の声で、殺人の指示を出しているテープを大音量で流すのよ。……住民全員の前でね」

公開処刑。  それはあまりにも無謀で、過激な作戦だった。  会場には権田の取り巻きも、警備員もいるだろう。そこへ乗り込んでいくのは、自殺行為に等しい。  だが。  優子は想像した。  あの完璧な笑顔の権田が、自分の声によって仮面を剥がされ、狼狽する姿を。  そして、その場にいるはずの健一や、ご近所さんたちが、真実を知る瞬間を。

「……やるわ」  優子は言った。  もう、隠れるのは終わりだ。  逃げ回って擦り切れるくらいなら、真正面からぶつかって、この手で決着をつけてやる。

「OK。じゃあ作戦会議といくか」  玲子はダッシュボードから地図を取り出した。 「敵は強大。こっちは主婦とフリーターの二人組。……上等じゃない。やってやろうよ、西園寺さん」    コインランドリーの乾燥機がゴーゴーと回る音の中で、二人の女は反撃の狼煙のろしを上げる計画を練り始めた。  失うものなど、もう何もない。  だからこそ、彼女たちは強かった。


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