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『午後二時の、善良な目撃者』  作者: 久遠 睦


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追放者のアジト

第6章 追放者のアジト


1

恐怖というのは、アドレナリンが切れた瞬間に、寒気となって襲ってくるものらしい。  優子は、国道沿いの大型ショッピングモールの立体駐車場に車を停め、ハンドルに突っ伏して震えていた。  家を飛び出してから二時間が経過していた。  とりあえずバイパスを走り続け、隣の市に入った。ここまで来れば、偶然権田や近所の住人に会う確率は低い。  だが、これからどうすればいい?

助手席のシートには、クーラーボックスが鎮座している。中には、夫の好物になるはずだった常備菜と、夫の社会的地位を吹き飛ばす爆弾(証拠)が同居している。なんという皮肉だろう。  スマートフォンは、電源を切った。  健一からの着信は三十件を超え、LINEには『どこにいるんだ』『警察に捜索願を出すぞ』というメッセージが溢れていた。  捜索願。  出されれば、優子は「保護」の対象となり、警察の手によってあの家へ――権田の監視下へ――強制送還される。

「……どこかへ行かなきゃ」  優子は顔を上げた。  ホテル? カードを使えば足がつく。現金は財布に入っている三万円だけ。これでは数日も持たない。  実家? 真っ先に連絡がいくだろうし、老いた両親を巻き込むわけにはいかない。  友人?  優子は頭の中のアドレス帳を検索し、そして愕然とした。  いない。  優子の周りにいるのは、「理央ちゃんのママ」として付き合うママ友や、ご近所付き合いの奥様方だけだ。彼女たちは皆、あやめ台という平穏な水槽の中で生きている。  『夫が権力者に脅されていて、殺人の証拠を持って逃げているの』  そんな話を信じて、かくまってくれる人間など一人もいなかった。  私は十八年間、何を築いてきたのだろう。  綺麗な家、円満な家庭、愛想の良いご近所付き合い。それらは全て、非常時には何の役にも立たない砂の城だった。

孤独感が、胸を締め付ける。  涙が溢れそうになったその時、ふと、ある女性の顔が脳裏をよぎった。  あやめ台の「異物」として排除された、かつての隣人。  神崎玲子かんざきれいこ

三年前まで、優子の家の二軒隣に住んでいたシングルマザーだ。フリーのライターをしていて、昼夜逆転の生活や、派手なファッションが地域で浮いていた。  彼女はある時、自治会の予算の使い道について権田に公然と異議を唱えた。  その直後からだ。彼女に関する根も葉もない噂――男を連れ込んでいる、子供を虐待している――が流れ始めたのは。  結局、玲子は居づらくなって引っ越していった。  優子はどうしたか?  『関わらない方がいい』という周囲の空気に同調し、挨拶もそこそこに彼女を遠ざけたのだ。助けを求めるような玲子の視線に気づかないふりをして。

今なら分かる。あれも権田の「浄化」だったのだ。  そして玲子は、権田の本性を誰よりも早く見抜いていた数少ない人物だった。

優子は震える手で、手帳を取り出した。  まだ玲子と当たり障りのない仲だった頃、緊急連絡網として書いた携帯番号が残っているはずだ。  あった。  優子は深呼吸をし、公衆電話を探すために車を降りた。自分のスマホはもう使えない。

モールの端にある公衆電話ボックス。十円玉を数枚入れ、記憶した番号を押す。  コール音が鳴る。一回、二回、三回。  出ないか。もう番号が変わっているかもしれない。  諦めて受話器を置こうとしたその時。

『……はい』  不機嫌そうな、低い女性の声がした。 「あ、あの……神崎さんの携帯でしょうか」 『そうだけど。誰? 登録ない番号だけど』 「私、西園寺です。あやめ台の、西園寺優子です」  沈黙が落ちた。  電話の向こうで、タバコの煙を吐き出すような息遣いが聞こえる。 『……西園寺さん? ああ、あの完璧な奥様ね。何の用? いまさら私に』  冷たい声。当然だ。優子は彼女を見捨てた側の人間なのだから。 「お願いがあるの。……私、今、逃げているの」 『は?』 「権田さんから。……彼の、殺人の証拠を持って」

長い沈黙の後、玲子が短く笑ったような音がした。 『……あんた、正気?』 「正気よ。他に頼れる人がいないの。……虫のいい話だって分かってる。でも、あなたしか思いつかなくて」  優子の声は震えていた。プライドも恥もかなぐり捨てた、必死の懇願だった。  玲子はしばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。 『……今、どこ』 「N市の、イオンモールの公衆電話」 『三十分で迎えに行く。北口のロータリーで待ってな。……その代わり、面白くなかったら即刻置き去りにするからね』

プツリ、と電話が切れた。  優子は受話器を握りしめたまま、その場に崩れ落ちそうになった。  繋がった。  細い、蜘蛛の糸のような希望が。


2

三十分後。  北口のロータリーに、一台の傷だらけの軽バンが滑り込んできた。  窓が開き、サングラスをかけた女性が顔を出す。  ショートカットに、大ぶりのピアス。三年前より少し痩せたが、その鋭い眼光は変わっていない神崎玲子だった。

「乗りな」  玲子は顎で助手席をしゃくった。  優子はクーラーボックスを抱えて走り寄り、後部座席に押し込んでから助手席に滑り込んだ。  車内はタバコとコーヒーの混じった匂いがした。足元には取材資料らしき雑誌が散乱している。西園寺家のピカピカに磨かれた自家用車とは対極にある空間だ。 「久しぶりね、西園寺さん」  玲子はサングラスを外し、呆れたように優子を見た。 「その恰好、家出少女にしては所帯じみてるわよ」 「……ごめんなさい」 「謝らなくていい。とりあえず出すよ。追っ手は?」 「分からない。でも、スマホは切ったし、車もモールの駐車場に置いてきた」 「ふーん、主婦にしちゃ上出来だ」

軽バンが乱暴に発進する。  優子はシートベルトを握りしめながら、横目で玲子を見た。  三年前、彼女が村八分にされていた時、私は何をしていただろう。  ゴミ集積所で彼女の悪口を言う奥様方に、曖昧に微笑んで同調していなかったか。  『神崎さんって、ちょっと変わってるわよね』  そんな言葉で、彼女を切り捨てていなかったか。

「あの、神崎さん」 「玲子でいいよ。他人行儀なのは気持ち悪い」 「……玲子さん。その、三年前は……」 「やめな」  玲子は前を向いたまま、ピシャリと言った。 「過去の懺悔なんて聞きたくない。あんたがあの時、自分を守るために私を無視したのは知ってる。でも、それを責めるつもりもない。あの街じゃ、権田に逆らう方が狂ってるんだから」  その淡々とした口調が、逆に優子の胸をえぐった。  彼女は知っていたのだ。優子の弱さも、卑怯さも。その上で、許すでもなく、ただ事実として受け入れている。  それが、大人の強さというものに見えた。

「それで? お姫様が城を捨ててまで持ってきた『お宝』ってのは、何なの?」  玲子の問いに、優子は意を決して口を開いた。 「……カセットテープよ。二十年前の」


3

玲子の現在の住まいは、隣の市にある築四十年の古いアパートだった。  外階段は錆びつき、廊下には住人の自転車が無造作に置かれている。  「狭いけど、権田の息はかかってない場所だよ」  玲子が鍵を開け、重い鉄のドアを押し開ける。  部屋の中は、本と書類の山だった。壁一面の本棚、床に積み上げられた資料。その隙間に、万年床とパソコンデスクがある。  生活感はないが、強烈な「個」の匂いがする部屋だった。  優子の家の、モデルルームのように片付いたリビングとはまるで違う。けれど、今の優子には、この雑然とした空間が、どんな高級ホテルよりも安全な洞窟のように思えた。

「適当に座って。コーヒー淹れるから」  玲子はキッチン(といっても一口コンロがあるだけのスペース)に立ち、やかんでお湯を沸かし始めた。  優子はクーラーボックスからジップロックを取り出し、ちゃぶ台の上に置いた。  味噌の匂いが少し移ったその袋を、玲子が興味深そうに覗き込む。

「これ?」 「ええ。……聞いてくれる?」  優子は持ってきたラジカセ――これも車から下ろしてきた――をコンセントに繋いだ。  再生ボタンを押す。  ノイズ混じりの雨音。権田の声。男の悲鳴。  六畳一間のアパートに、二十年前の殺人の記録が響き渡る。

テープが終わると、玲子は長い溜息をつき、タバコに火をつけた。  紫煙が天井へと昇っていく。 「……なるほどね。こりゃあ、本物の爆弾だ」  玲子の目が、獲物を狙う猛獣のように光った。 「権田が必死になるわけだ。時効のない殺人教唆。しかも、実行犯の証言付きときた」 「このテープをくれた男は、捕まったわ。警察は権田さんを一度連行したけど、すぐ釈放された。……証拠不十分で」 「そりゃそうよ。警察署長は権田のゴルフ仲間だもん。このテープがなきゃ、揉み消されて終わり」

玲子は吸い殻を灰皿に押し付けると、優子を真っ直ぐに見た。 「で、どうするの? これを警察に持っていく?」 「……信用できないの」  優子は膝の上で拳を握った。 「警察に行けば、また権田さんに情報が漏れるかもしれない。夫も……健一さんも、権田さんの味方になってる。もし私が捕まったら、このテープは闇に葬られるわ」 「旦那まで敵に回ったか。キツいねえ」  玲子は憐れむでもなく、面白がるように言った。 「それで? あんたはどうしたいの。ただ逃げ回って、時が過ぎるのを待つ?」 「違う」  優子は顔を上げた。 「私は、あの男を許せない。私の平穏を壊し、娘を脅し、夫を取り込んだ。……このままじゃ終わらせない。彼を社会的に抹殺して、家族を取り戻したい」

家族を取り戻す。  口に出してから、優子はその言葉の虚しさに気づいた。  権田を倒したとして、私を疑い、怒鳴りつけた夫との関係は元に戻るのだろうか?  それでも、やるしかなかった。理央のためにも。

玲子はニヤリと笑った。 「いい目になったじゃない。三年前の、死んだ魚みたいな目よりずっといい」  彼女はパソコンデスクに向かい、ノートPCを開いた。 「警察がダメなら、世論よろんだよ」 「世論?」 「私はこれでも、フリーのジャーナリストの端くれなの。週刊誌やネットニュースにコネがある。……このネタ、私が書いてもいい?」  優子は驚いた。 「あなたが?」 「そう。警察に持ち込む前に、記事にして世間にバラ撒く。一度火がついたら、いくら権田でも揉み消せない。署長だって保身のために動かざるを得なくなる」  玲子の指がキーボードの上で踊る。 「タイトルはそうね……『地元の名士・権田惣一郎の黒い履歴書』。いや、『殺人テープが暴く独裁者の正体』かな」

優子の胸が高鳴った。  反撃の狼煙のろしだ。  たった一人で逃げ惑っていた優子に、強力な武器と参謀が加わったのだ。 「お願い。……やって」 「オッケー。取引成立ね」  玲子はコーヒーカップを二つ持ち、片方を優子に差し出した。 「乾杯しましょ。共犯者さん」  「共犯者」。  阿久津には脅し文句として使われたその言葉が、玲子が言うと、頼もしい響きに聞こえた。  優子はカップを受け取った。インスタントコーヒーの安っぽい香りが、今はどんな高級なアールグレイよりも芳醇に感じられた。


4

その夜、優子は玲子のアパートに泊めてもらうことになった。  「万年床だけど、車中泊よりマシでしょ」と言って、玲子は煎餅布団を貸してくれた。  狭い部屋で、二人の女が川の字(といってもシングル布団二枚だが)になって横になる。   「ねえ、玲子さん」  暗闇の中で、優子は尋ねた。 「どうして私を助けてくれたの? 見捨ててもよかったのに」  玲子は寝返りを打ち、背中を向けたまま答えた。 「……あんたが、持ってたからだよ」 「え?」 「クーラーボックス。家出するのに、わざわざ煮物まで持って逃げるなんてさ。どんだけ家族のこと考えてんのよって、呆れただけ」  玲子の声は少し笑っていた。 「そういう『お母さん』の執念みたいなの、嫌いじゃないのよ。私は子供を手放したからね」    優子は胸が詰まった。  玲子の子供は、元夫に引き取られたと聞いていた。その原因を作ったのも、あやめ台での孤立が遠因だったかもしれない。 「……ありがとう」 「いいから寝な。明日は忙しくなるよ。原稿書いて、裏取りして、出版社に売り込む。……全面戦争だ」

玲子の寝息が聞こえ始めても、優子は眠れなかった。  天井のシミを見つめながら、遠く離れた我が家を思う。  今頃、健一はどうしているだろう。怒り狂っているか、それとも権田に謝罪に行っているか。  理央は泣いているだろうか。    帰りたい。  でも、もう以前の「西園寺優子」には戻れない。  私は、街のタブーを暴く告発者になるのだ。    優子は布団の中で、自分の手を強く握りしめた。  その手は、家事で荒れた主婦の手だったが、今は戦士の手のように熱を持っていた。    その時。  部屋の隅に置かれた玲子のパソコンが、青白く点滅した。メールの着信通知だ。  こんな時間に?  優子は気になったが、玲子を起こすのも悪いと思い、目を閉じた。    だが、優子は知らなかった。  そのメールが、出版社からの返信などではなく、もっと別の、危険な場所からのメッセージであることを。  そして、この「アジト」さえも、決して絶対安全な場所ではないことを。

権田の支配力は、彼女たちが想像するよりも深く、暗く、この街の外にまで根を張っていたのだ。


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