隣にいる他人
第5章 隣にいる他人
1
帰りの車内は、葬儀の帰り道のように静まり返っていた。 ハンドルを握る健一の横顔は険しく、後部座席の理央はスマートフォンの画面を見つめたまま、膝の上で小さく丸まっている。 優子は助手席で、流れる街並みをただ呆然と眺めていた。 あやめ台の美しい街路樹が、今の彼女には鉄格子の檻のように見えた。
「……間違いだ」 沈黙を破ったのは、健一だった。 「権田さんが逮捕されたわけじゃない。ただの任意同行だ。きっと何かの間違いだよ」 それは自分に言い聞かせるような、縋るような口調だった。 「そうね」 優子は感情を押し殺して相槌を打った。 ここで「彼はクロよ」と言ってしまいたかった。冷蔵庫の中にあるカセットテープの話をして、あの男の化けの皮を剥がしてやりたかった。 だが、健一の次の言葉が、優子の口を縫い合わせた。
「せっかく紹介してもらったプロジェクト、どうなるんだ……。もし権田さんが黒だったら、俺の立場も危うくなる」 健一が心配しているのは、正義や真実ではない。自分自身の保身とキャリアだ。 もし優子が証拠を出せば、権田は失脚する。それは同時に、健一が掴みかけたビッグチャンスを妻が自らの手で握り潰すことを意味する。 「パパ、大丈夫だよ」 理央が顔を上げて言った。 「あんなに優しいお爺さんが犯罪なんてするわけないし。ネットのニュース見たけど、まだ『参考人招致』って書いてあるだけだよ」 「そうだよな。理央の言う通りだ」 健一はバックミラー越しに娘に微笑みかけ、少し安堵した表情を見せた。
優子は指先が冷たくなるのを感じた。 この狭い車内で、世界が二つに分断されている。 権田を信じたい夫と娘。 権田の罪を知っている私。 家族なのに、言葉が通じない。ガラス一枚隔てた向こう側に、彼らがいるような疎外感。
「優子」 不意に健一が名を呼んだ。声のトーンが低い。 「お前、今日のパーティーで、なんか変だったぞ」 心臓が跳ねる。 「……変って、何が?」 「権田さんを見る目だよ。怯えてるっていうか、避けようとしてたろ。失礼じゃないか」 「そんなことないわよ。ただ、少し体調が悪くて」 「またそれか」 健一は苛立たしげにハンドルを叩いた。 「お前、最近おかしいぞ。神経質になりすぎだ。理央のマスカットを捨てさせたり、俺の仕事の話にも上の空だったり。……何か隠してるんじゃないのか?」
ドキリとした。 夫の勘は、こういう時だけ鋭い。 だが、それは優子を理解しようとする勘ではなく、自分の平穏を乱す異物を排除しようとする勘だ。 「隠し事なんて……ないわよ」 「ならいいけどさ。頼むから、俺の足を引っ張るようなことだけはしないでくれよ」
足を引っ張る。 その言葉が、優子の胸に深く突き刺さった。 私は家族を守ろうとして、命懸けで戦っているのに。 この人は、私が邪魔だと言うのか。
家に着くまで、優子は二度と口を開かなかった。 車窓に映る自分の顔は、能面のように無表情だったが、その瞳の奥では、夫への「諦め」という名の冷たい炎が揺らめき始めていた。
2
その夜、西園寺家を包む空気は、今までで最も重苦しかった。 夕食は誰も手をつけず、早々にそれぞれの部屋へと引き上げていった。 優子は一人、キッチンに残っていた。 シンクの前で洗い物をしながら、耳だけは研ぎ澄ませている。 二階から健一の足音が聞こえないか。理央が起きてこないか。
ジャーッという水の音に紛れて、優子は冷蔵庫を開けた。 野菜室の奥。使いかけの味噌のパック。 その底に、ジップロックに入ったカセットテープと写真はある。 優子は震える手でそれを確認した。 ある。まだ、ここにある。 だが、ここはもう安全ではない。
今日、警察が動いたことで、権田は追い詰められた。 釈放されれば――あるいは拘束中であっても弁護士を通じて――彼は必ず証拠の回収に動く。 彼は知っているのだ。優子が何かを持っていることを。 もし家探しをされたら? 空き巣を装って侵入されたら、この冷蔵庫なんて真っ先に調べられるだろう。
(移動させなきゃ)
優子は焦燥感に駆られた。 どこへ? 銀行の貸金庫? 駅のロッカー? 実家? いや、私が動けば、それを見張られているかもしれない。 権田が逮捕されても、彼の息のかかった人間は街中にいる。「善良な目撃者」たちだ。
その時、背後でドアが開く音がした。 「……何してるんだ?」 優子は悲鳴を上げそうになり、慌てて冷蔵庫を閉めた。 振り返ると、パジャマ姿の健一が立っていた。水を取りに来たのだろうか。その目は、昼間よりも一層疑り深く細められている。
「……明日の朝食の下準備よ。お味噌汁の具を確認してたの」 嘘だ。自分でも分かるほど声が上ずっていた。 健一は無言で優子を見つめ、ゆっくりとキッチンに入ってきた。 彼が近づく一歩一歩が、優子には尋問官の足音のように聞こえる。
「優子」 健一が優子の目の前で立ち止まる。 「お前、警察が来た時、顔色が真っ青だったな」 「……誰だって驚くわよ」 「それだけじゃない。権田さんが連行される時、お前、見てたろ。……まるで『ざまあみろ』って顔で」
見ていたのか。 優子は背筋が寒くなった。夫は、妻のことを愛しているから見ているのではない。自分の日常を脅かす不穏な分子として、妻を監視しているのだ。
「言えよ。何を知ってるんだ?」 健一の手が、優子の肩を掴んだ。 「権田さんのことで、何か変な噂でも聞いたのか? それとも、あの阿久津とかいう男と何か関係があるのか?」 「痛い、離して」 「答えろよ! 俺の人生がかかってるんだぞ!」
健一が声を荒げ、優子を揺さぶった。 その拍子に、優子の体が冷蔵庫にぶつかる。 ドン、という鈍い音。 その衝撃で、冷蔵庫のマグネットが一つ、床に落ちた。 それは、「ゴミ出しカレンダー」を止めていたマグネットだった。
優子は床に落ちたマグネットを見つめながら、ふと冷静になった。 この人は、私のことを心配していない。 自分の出世と、世間体と、平穏な生活だけを守りたいのだ。 もし私が「権田は人殺しよ」と言って証拠を見せたら、彼はどうするだろう? 『警察に届けよう』と言うだろうか? いいや。きっとこう言うはずだ。 『これを燃やしてしまえば、俺たちは助かる』と。 あるいは、『これを権田さんに返して、恩を売ろう』と。
十八年連れ添った夫婦の信頼なんて、恐怖と欲望の前では紙切れよりも薄い。 優子はゆっくりと顔を上げた。 その目には、もう怯えはなかった。あるのは、深い絶望と、そこから生まれた冷徹な決意だけだった。
「……何でもないわ。更年期で、情緒不安定なのよ。あなたも言ってたじゃない」 優子は、夫が一番納得しやすい「言い訳」を差し出した。 健一は虚を突かれたように手を離した。 「……そうか。やっぱり、そうなのか」 彼はバツが悪そうに視線を逸らした。 「悪かったな、大声出して。……病院、行ったほうがいいんじゃないか?」 「ええ、考えておくわ」
健一は「水はいいや」と呟き、逃げるように寝室へ戻っていった。 残された優子は、冷蔵庫にもたれかかり、深く息を吐いた。 欺いた。 夫を、敵として認識し、欺いたのだ。 もう、後戻りはできない。 この家の中に、味方は一人もいない。
3
翌、月曜日。 朝のニュースショーは、地元の名士・権田惣一郎のニュースを小さく扱っていた。 『あやめ台の自治会長、参考人聴取終了。容疑を否認』 画面には、警察署から出てくる権田の姿が映っていた。 一夜明けても、その表情には疲れも見えず、詰めかけた記者たちに鷹揚に手を振ってさえいる。 「ほら、やっぱり!」 朝食の席で、健一がトーストをかじりながら声を上げた。 「ただの誤解だったんだよ。すぐに釈放されたじゃないか」 理央も安心したように頷く。 「よかったー。やっぱり権田さんはいい人なんだよ」
優子は無言でコーヒーを啜った。 釈放されたのではない。拘束するだけの決定的な証拠がなかっただけだ。阿久津の証言だけでは弱い。あるいは、阿久津自身が口を封じられたか。 権田は戻ってきた。 この街に。そして、私のすぐそばに。
健一が出勤し、理央が大学へ行った後。 午前九時。 優子は動き出した。 昨夜の夫とのやり取りで、決心がついた。この家に証拠を置いておくことはできない。 そして、夫や警察さえも信用できない今、頼れるのは「第三の場所」だけだ。
優子はクーラーボックスを用意した。「作りすぎたおかずを実家に持っていく」というカモフラージュのためだ。 その底に、保冷剤と一緒にジップロックに入れたテープと写真を隠す。 目指すのは、隣の市の駅にあるコインロッカーだ。あやめ台の中では危険すぎる。生活圏の外に出なければ。
玄関を出る。 いつもの朝の光景。だが、空気の密度が違った。 向かいの家で庭掃除をしている鈴木さんと目が合う。 「おはようございます、西園寺さん。どちらへ?」 「ええ、ちょっと実家まで」 「あら、お車? 気をつけてね」 鈴木さんの笑顔が、貼り付けたように見えた。 彼女は昨日のパーティーにも来ていた。権田信者の一人だ。 私が車を出したことを、誰かに報告するだろうか?
優子は愛車の軽自動車に乗り込み、アクセルを踏んだ。 バックミラーを見る。 誰もついてきていない。 だが、あやめ台の出口にある交差点で信号待ちをしている時、横断歩道を渡る人物に目が釘付けになった。
権田だった。 今朝、釈放されたばかりの彼が、もう街のパトロールをしている。 権田は横断歩道の真ん中で立ち止まり、ゆっくりと優子の車の方を向いた。 スモークガラス越しだが、目が合ったのが分かった。 彼はニヤリと笑い、手にした携帯電話を耳に当てた。 そして、口元が動く。
『逃がさないよ』
そう言ったように見えた。 信号が青に変わる。 優子は悲鳴を上げてアクセルをベタ踏みした。 急発進した車は、交差点を乱暴に曲がり、街の外へと疾走する。
逃げなきゃ。どこか遠くへ。 しかし、運転しながら優子は気づいてしまった。 スマホが鳴っている。 ディスプレイに表示された名前は『夫』。 こんな時間に、仕事中の健一から?
嫌な予感がして、ハンズフリーで通話に出る。 「……もしもし」 『優子、今どこだ?』 健一の声は焦っていた。 「ちょっと買い物に……」 『家にいろと言っただろ! 今、権田さんから電話があったんだ』 「えっ……」 『「奥さんが心配だから、見舞いに行きたい」って。俺も今、早退して向かってる。権田さんもすぐに行くそうだ。おい、聞いてるか? 家にいてくれよ、失礼があったら困るから!』
優子はハンドルを握りしめたまま、凍りついた。 権田は、私が家を出たのを見て、即座に健一に連絡したのだ。「見舞い」という名目で、家の中を――そして私を――調べ上げるために。 もし私が家にいなければ、「徘徊している」「精神的に不安定だ」として、連れ戻されるかもしれない。 かといって、家に戻れば、袋の鼠だ。
前方には、隣町へと続くバイパスが見えてきた。 後戻りするか、突き進むか。 優子はアクセルを緩めなかった。 帰れない。もう、あの家には帰れない。 夫という名の鎖を引きちぎり、優子は初めて「主婦」という枠組みから逸脱するアクセルを踏み込んだ。
助手席のクーラーボックスの中で、氷がカランと音を立てて崩れた。 それは、優子の日常が完全に崩壊した音でもあった。




