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『午後二時の、善良な目撃者』  作者: 久遠 睦


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善意という名の包囲網

第4章 善意という名の包囲網


1

敵は、城門をこじ開けて入ってくるのではない。  笑顔で招待され、裏口から招き入れられるのだということを、西園寺優子は思い知らされることになる。

その夜、夫の健一は上機嫌で帰宅した。  普段は仕事の愚痴をこぼすか、疲れ切って黙り込むことが多い彼が、珍しく鼻歌交じりでネクタイを緩めている。 「ただいま。いやあ、今日はいい酒だった」  頬を紅潮させた健一からは、高いウィスキーの香りがした。 「おかえりなさい。……何かいいことあったの?」  優子は冷蔵庫の野菜室――あの「爆弾」が眠る場所――からビールを取り出しながら、努めて明るく尋ねた。 「ああ。実はな、うちの会社がずっとアプローチしてた大手ゼネコンの役員と、急に繋がることができたんだよ」 「えっ、すごいじゃない」 「だろう? それが驚いたことに、仲介してくれたのが、この街の自治会長の権田さんなんだよ」

優子の手から、グラスが滑り落ちそうになった。  全身の血液が逆流するような感覚。  権田。その名前が、この家庭の団欒だんらんにまで侵入してきた。

「……権田さんが? どうして?」  優子の声の震えに、健一は気づかない。彼は誇らしげに語り続けた。 「駅前のバーで偶然一緒になってね。『西園寺さんのご主人ですね』って声をかけてくれたんだ。優子がいつもゴミ出しや掃除を完璧にやってくれているおかげで、西園寺家の評判はすごくいいらしいぞ」  健一は無邪気に笑った。 「それで仕事の話になって、俺が困ってるって言ったら、その場で知り合いの役員に電話してくれてさ。いやあ、地元の名士っていうのはすごいな。あんな顔の広い人だとは知らなかった」

優子は奥歯を噛み締めた。  偶然なわけがない。  権田は、優子の弱点を探っていたのだ。そして、夫の出世欲とプライドが攻め入る隙だと見抜いた。  恩を売る。  それは、脅迫よりも遥かにタチの悪い支配の方法だ。これで健一は、権田に頭が上がらなくなる。もし優子が権田を告発しようとすれば、夫は全力でそれを止めるだろう。「恩人になんてことをするんだ」と。

「今度の日曜日、権田さんの家でホームパーティーがあるんだって。俺たち家族も招待されたぞ」  健一の言葉に、優子は息を呑んだ。 「……え?」 「奥さんと娘さんも是非、って。お近づきの印に、最高級の和牛を用意してくれるらしい。理央も肉が好きだし、ちょうどいいじゃないか」 「ま、待ってよ。急すぎるわ。それに私、日曜日は……」 「なんだ、予定あるのか? 空けておいてくれよ。これは俺の仕事にも関わる大事な付き合いなんだ」

健一の目に、珍しく強い光が宿っていた。  それは、家族を守る大黒柱としての責任感と、久しぶりに掴んだチャンスへの執着だった。  優子は言葉を飲み込んだ。  「行きたくない」と言えば、怪しまれる。「あの人は危険だ」と言えば、理由を問われる。  理由を話せば、あのカセットテープの存在を明かさなければならない。そうすれば、健一まで危険に晒すことになる。

「……分かったわ。予定、調整してみる」 「頼むよ。優子の内助の功に期待してるからな」  健一は満足げにビールの缶を開けた。プシュッ、という軽快な音が、優子には手錠をかけられる音のように聞こえた。


2

翌日の木曜日。  優子は一日中、落ち着かない時間を過ごした。  味噌パックの下のカセットテープ。あれをどうにかしなければならない。けれど、持ち歩くのは危険だし、家に置いておくのも不安だ。  そして何より、日曜日のパーティーだ。  敵の本丸に、家族全員で乗り込むことになる。権田はそこで何をするつもりなのか。ただの懐柔策か、それとも……。

午後四時。  娘の理央が大学から帰ってきた。 「ただいまー」  その声のトーンが、いつもより弾んでいることに優子は敏感に反応した。 「おかえり。……何かいいことあった?」  優子がリビングのドアを開けると、理央が大きな紙袋を抱えて立っていた。高級フルーツ店『千疋屋せんびきや』のロゴが入った袋だ。

「これ見て! 駅前で困ってたお爺さんを助けたら、お礼にって貰っちゃった!」  理央が袋から取り出したのは、桐箱に入った立派なシャインマスカットだった。一房一万円は下らない代物だ。 「お爺さんって……どんな人?」  嫌な予感が背筋を駆け上がる。 「えっとね、銀髪で、背が高くて、すごくダンディな人。杖をついて歩道橋の階段を登りづらそうにしてたから、荷物を持ってあげたの」  理央は目を輝かせて続けた。 「そしたら、『君は西園寺さんのお嬢さんだね』って。ママのこと知ってるみたいだったよ。『お母さんはいつも街のために尽くしてくれる、素晴らしい人だ』って褒めてた」

優子は眩暈めまいがして、テーブルに手をついた。  権田だ。  杖なんてついていないはずだ。演技だ。  娘の優しさにつけ込み、接触を図ったのだ。

「……その人、他に何か言ってなかった?」 「うーん? ああ、そういえば」  理央はマスカットを冷蔵庫に入れようとしながら、何気なく言った。 「別れ際にね、『お母さんに伝えてくれ』って。『あまり無理をして、大事なものを落とさないように気をつけて』だって。ママ、最近忙しいの? 心配されてるね」

『大事なものを落とさないように』  それは、優子が隠し持っている証拠品のことか。それとも、理央という宝物のことか。  二重の意味を含んだ、背筋の凍るようなメッセージ。  権田は、いつでも理央に手が届く場所にいるのだと誇示している。

「理央」  優子は強い口調で言った。 「このマスカット、食べちゃダメ」 「えっ、なんで? せっかく貰ったのに」 「知らない人から貰ったものを食べるなんて、不用心すぎるわ!」  思わず声を荒げてしまい、理央が驚いて肩をすくめる。 「何よ、そんな怒らなくてもいいじゃん。あのお爺さん、変な人じゃなかったよ。住所も名前も教えてくれたし……権田さんっていう、自治会長さんだって」

理央には、母の剣幕の意味が分からない。  優子は唇を噛んだ。  説明できないもどかしさが、胸の中でどす黒い渦になって暴れ回る。 「……ごめんなさい。最近、物騒な事件が多いから、つい」 「もう、心配性すぎ。毒なんて入ってるわけないでしょ」  理央は不満そうに部屋へ上がっていった。

一人残されたキッチンで、優子は桐箱に入った美しいマスカットを見つめた。  宝石のように輝く緑色の果実。  それが、権田の歪んだ欲望の凝縮体に見えた。  優子は震える手で箱を掴み、そのままゴミ箱に捨てようとした。  だが、できない。  もし捨てたことがバレたら? もし、理央が「美味しかった」と嘘をつく羽目になったら?  権田は日曜日のパーティーで、必ず聞くはずだ。「マスカットの味はどうだったかね」と。

逃げ道は完全に塞がれた。  夫は権田に恩義を感じ、娘は権田に好感を抱いている。  家庭内において、優子だけが孤立していた。  一番安全なはずの家が、今や権田のてのひらの上にある。


3

日曜日。  あやめ台の一角に立つ権田の邸宅は、周囲の家よりも一回り大きく、高い生垣に囲まれた要塞のような屋敷だった。  午後一時。  西園寺一家は、手土産のワインを持って門をくぐった。  健一は上等なジャケットを着て、理央もワンピースでおめかししている。優子だけが、葬列に参列するような強張った顔をしていた。

「ようこそ、いらっしゃいました」  玄関を開けたのは、権田の妻だった。  六十代の上品な婦人で、小柄で愛想が良い。だが、その目はどこか焦点が合わず、夫の影に怯えているような弱々しさを感じさせた。  そして、その奥から権田が現れた。

「やあ、健一くん。待っていたよ」  権田は健一の肩を親しげに抱き、次に理央に向かって微笑んだ。 「理央ちゃん、先日はありがとう。マスカット、口に合ったかな?」 「はい! すっごく甘くて美味しかったです。ありがとうございました!」  理央が屈託なく答える。  優子はその朝、泣く泣くマスカットを洗い、家族に出したのだ。毒見のように自分で一粒食べてから。  権田の視線が、最後に優子を捉えた。  ねっとりとした、爬虫類のような視線。

「奥さん、今日は楽しんでいってください。……顔色が少し悪いようだが、大丈夫かな?」 「……ええ、おかげさまで」  優子は精一杯の虚勢を張って見返した。  ここで倒れるわけにはいかない。懐に入り込んだ以上、逆に弱点を見つけてやる。

パーティーは、広々とした庭で行われた。  招待客は西園寺家の他にも、地元の議員や商店街の役員など、数組の夫婦がいた。  BBQコンロでは霜降りの牛肉が焼かれ、高価なワインが次々と開けられる。  健一は権田に紹介された議員と名刺交換をして、有頂天になっていた。  理央も、権田の妻に茶道を勧められて楽しそうに話している。

優子だけが、蚊帳の外だった。  いや、観察されていた。  グラスを片手に庭の隅に立っていると、いつの間にか権田が隣に来ていた。  周囲の談笑にかき消されるような小声で、彼は囁いた。

「阿久津という男がね、行方不明になったらしいよ」

優子はグラスを持つ手に力を込めた。 「……そうですか」 「かわいそうに。借金取りに追われていたようだ。どこかの山奥で、静かに眠っているかもしれないな」  権田はワインを一口含み、愉悦に浸るように目を細めた。 「不純物は消えた。……ところで、彼が何か持っていたものを、君に預けたりしていないかね?」    核心を突いてきた。  優子は心臓が破裂しそうになるのを抑え、権田を睨みつけた。 「いいえ。何も」 「ほう。そうか」  権田は意外そうな顔もせず、ただ淡々と続けた。 「ならいいんだ。もし持っていたら、早めに返してほしいと思ってね。……あれは私の大事な思い出の品だから」

思い出の品。殺人教唆の証拠を、そう呼ぶのか。  この男は狂っている。  権田は優子の肩に手を置いた。その手は冷たく、重かった。 「ご主人、優秀な方だね。近々、大きなプロジェクトを任されるそうだ。……君の行動ひとつで、彼の未来がどうなるか。賢い君なら分かるはずだ」

それは最後通告だった。  証拠を出せ。さもなくば、夫のキャリアを潰す。  優子が何か言い返そうとした瞬間、庭の入り口のインターホンが鳴った。  お手伝いさんが対応し、困った顔で権田の元へ駆け寄ってくる。

「旦那様、あのお方が……」 「誰だ?」 「それが、警察の方が」

場の空気が一瞬で凍りついた。  警察。  優子の心臓が高鳴る。阿久津が見つかったのか? それとも誰かが通報を?

庭に入ってきたのは、二人の刑事だった。  一人は中年のベテラン、もう一人は若い刑事だ。  権田は表情一つ変えず、「これはこれは、署長さんではありませんか」と出迎えるフリをした。  だが、刑事たちの顔は険しかった。

「権田惣一郎さんですね。……署への任意同行をお願いしたい」 「ほう、何の容疑で?」 「阿久津次郎さんの件です。彼の所持品から、あなたの指紋がついた封筒が見つかりましてね」

優子は目を見開いた。  阿久津は捕まったのか? それとも……死体で見つかったのか?  ざわめく招待客たち。健一が不安そうに優子を見る。  権田は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに余裕の笑みを取り戻した。 「やれやれ、誤解があるようだ。……まあいいでしょう。すぐに戻りますから、皆さん、続けていてください」

権田は刑事たちに連れられていく。  去り際、彼は優子を振り返り、ニヤリと笑った。  その目は言っていた。  『勝ったと思うなよ』と。

優子はその場に立ち尽くした。  これはチャンスなのか、それとも新たな罠の始まりなのか。  確かなのは、警察が動き出したことで、事態はもう後戻りできない領域へ突入したということだ。  私の冷蔵庫にある「本物の証拠」。  あれが火を噴く時が、刻一刻と迫っていた。


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