日常という名の迷彩服
第3章 日常という名の迷彩服
1
主婦の鞄というのは、一種の四次元ポケットだと思う。 折り畳み傘にエコバッグ、予備のマスク、飴玉、鎮痛剤、そして特売のチラシ。そこには、家族の急な要望やトラブルに対応するための全てが詰まっている。 だが今日の西園寺優子の鞄には、それらとは異質の、冷たくて硬いものが二つ入っていた。
一つは、駅前の家電量販店で買ったばかりの、ペン型ICレコーダー。 もう一つは、娘の理央が小学生の頃に使っていた防犯ブザーだ。
午前十一時。優子は駅前のカフェチェーン店で、冷めたカフェラテを前にしていた。 周囲にはパソコンを開くビジネスマンや、楽しげに談笑する大学生たちがいる。その日常の喧騒の中に身を置くことで、優子はどうにか平常心を保っていた。
ICレコーダーを買う時、若い店員に用途を聞かれて、優子は反射的に嘘をついた。 「夫のいびきがひどくて、病院で診てもらうために録音したいんです」 店員は「ああ、なるほど」と納得して、高感度マイクがついた最新機種を勧めてくれた。 嘘をつくのが、驚くほど滑らかだった。 人間は、守るべきものができた時、こうも簡単に道徳の皮を脱ぎ捨てられるのか。優子は自分の変化に寒気を感じつつも、どこかで冷静な自分も感じていた。
テーブルの上でスマートフォンが震える。 優子は素早く画面を確認する。娘の理央の位置情報を知らせるGPSアプリの通知だ。 『理央が大学キャンパスに到着しました』 画面上の地図で、娘のアイコンが大学の講義棟にあることを確認し、ようやく息を吐き出す。 昨夜、優子は理央のスマホに、半ば強引にこの共有アプリを入れさせた。「最近地震が多いから」と理由をつけて。理央は「過保護すぎ」と呆れていたが、今の優子には嫌われることよりも、娘の命の方が重要だった。
男の脅迫電話の声が蘇る。 『来なかったら、次は娘の大学に行くぞ』 優子はカフェラテを一気に飲み干した。 行くしかない。 相手が何を望んでいるのか、どこまで本気なのかを見極める。そして、こちらの会話を録音して証拠に残す。それが、警察に駆け込むための「手土産」になるはずだ。 私は、ただのお人好しな主婦じゃない。 優子は鞄の底にある防犯ブザーを指先で確かめ、席を立った。
2
午後二時五分前。 「見晴らし公園」は、あの日と同じように静まり返っていた。 雲ひとつない秋晴れ。風が吹くと、枯れ葉がアスファルトの上を乾いた音を立てて転がっていく。 優子は、スーパーの買い物袋を提げて公園に入った。中身は長ネギと牛乳パック。あくまで「買い物のついでに通りかかった主婦」を装うための小道具だ。 ジャケットの胸ポケットには、録音状態にしたICレコーダーが忍ばせてある。
約束のベンチに、男はいた。 今日は薄汚れたジャンパーではなく、使い古された黒いパーカーを着ていた。フードを深く被り、膝を抱えるようにして座っている。 優子が近づくと、男はビクリと肩を震わせ、顔を上げた。 近くで見ると、その顔色は土気色で、目の下にはどす黒いクマがあった。唇は乾燥してひび割れ、指先は小刻みに震えている。 脅迫電話の主とは思えないほど、男は消耗しきっていた。
「……来たか」 男がしわがれた声で言った。 「ええ。約束通り」 優子は二メートルほどの距離を保って立ち止まった。買い物袋を両手で抱えるように持つ。これが盾代わりだ。 「座れよ」 「結構です。ここで話します」 優子は毅然と言い放った。「娘には手を出さないで。それが条件よ」 男は鼻で笑った。 「はっ、肝が据わってやがる。さすが、あの『あやめ台』で生き残ってる奥様だ」 男はポケットからタバコを取り出そうとしたが、箱が空だと気づいて舌打ちをし、クシャリと握りつぶした。
「俺の名前は阿久津。……まあ、偽名だと思ってもらっていい」 阿久津と名乗った男は、虚ろな目で公園の遊具を見つめた。 「二十年前、俺は権田の運転手兼、何でも屋をやってた。あの古狸が、まだ銀行の支店長やりながら、裏で地上げを仕切ってた頃の話だ」 優子の脳裏に、昨日の古新聞の記事がよぎる。 「……建設談合の、事件ですね」 阿久津の目が鋭く優子を捉えた。 「へえ、調べたのか。仕事が早いな」 「自殺した関係者というのは……」 「自殺なわけねえだろ」 阿久津は吐き捨てるように言った。 「あの人は、最後まで立ち退きに反対してた地主の息子だ。権田にとっては目の上のたんこぶだった。ある雨の夜、泥酔して工事現場の穴に落ちたことになってるが……実際に背中を押したのは誰か、俺は見てた」
優子は息を呑んだ。 予想はしていた。けれど、実際に当事者の口から聞く「殺人」という言葉の重みは、主婦の想像力を遥かに超えていた。 権田惣一郎。この街の誰もが尊敬する名士の手は、血で汚れていたのだ。
「俺はずっと、そのネタを切り札に権田から金を引っ張ってた。口止め料ってやつだ。だがあのジジイ、最近ボケてきたのか、それとも開き直ったのか、『もう時効だ』なんて抜かしやがる」 阿久津は爪を噛んだ。 「殺人には時効がねえんだよ。……だが、俺が警察に行けば、俺自身も共犯で捕まる。だから、第三者の証言が必要なんだ」 「それが、私?」 「ああ。善良な市民であるあんたが、『権田が阿久津に金を渡して脅されている現場を見た』と証言すれば、警察も動く。再捜査が始まれば、権田はビビって俺に退職金を払うはずだ。俺は金を持って海外に逃げる。それでおしまいだ」 身勝手な論理だった。 自分の保身のために、赤の他人を巻き込もうとしている。 「断ると言ったら?」 優子は胸ポケットのレコーダーを意識しながら尋ねた。 阿久津は歪んだ笑みを浮かべた。 「言っただろ。娘の大学に行くって。可愛いお嬢さんの顔に、一生消えない傷をつけてやることもできるんだぜ」 阿久津がポケットからカッターナイフを取り出し、カチカチと刃を出したり引っ込めたりした。 その金属音が、優子の神経を逆撫でする。
怒りが、恐怖を上回った。 優子は一歩、前に踏み出した。 「いい加減にして」 低い声が出た。自分でも驚くほどのドスが効いた声だった。 「あなたの事情なんて知らない。過去に何があったかもどうでもいい。でも、私の家族に指一本でも触れたら……あなたを殺してでも止めるわ」 阿久津が目を丸くした。 普通の主婦が、殺人犯の共犯者に向かって「殺す」と言い放ったのだ。 「……なんだよ、急に」 阿久津が気圧されたように背を丸めた、その時だった。
遠くから、ブオン、という低いエンジン音が聞こえた。 阿久津が弾かれたように顔を上げる。 公園の入り口に、一台の黒いセダンがゆっくりと滑り込んできたのだ。 スモークガラスで中の様子は見えない。だが、その威圧感のある車体には見覚えがあった。 権田が公用で使っている車だ。
「マズい……!」 阿久津の顔から血の気が引いた。 「尾けられてたのか……!」 阿久津はパニックになり、きょろきょろと周囲を見回した。逃げ道を探している。だが、セダンは公園の出口を塞ぐように停車した。 「おい、これを持っとけ!」 阿久津は突然、優子の方へ突進してきた。 優子が身構える隙もなく、阿久津は優子の買い物袋の中に、何かを乱暴にねじ込んだ。 「えっ、何?」 「預けとく! 俺が捕まったら、警察に届けろ! これがありゃ権田は終わりだ!」 「ちょっと、困るわ!」 「頼んだぞ! あんたしかいねえんだ!」
阿久津はそう叫ぶと、セダンとは反対側の、植え込みの斜面を転がるように駆け下りていった。 フェンスを乗り越え、隣の団地の敷地へと姿を消す。 優子は取り残された。 心臓が早鐘を打っている。 黒いセダンから、運転席のドアが開く音がした。
逃げなきゃ。 優子は反射的に動いた。阿久津とは逆方向、公園の裏手にある細い遊歩道へ向かって早足で歩き出す。 買い物袋の長ネギが飛び出しそうになるのを押さえながら、背後の気配に全神経を集中させる。 誰かが降りてきた気配がする。 足音は聞こえない。だが、視線を感じる。 あの、粘着質な、冷たい視線を。
優子は振り返らなかった。 ここで振り返れば、目が合う。目が合えば、認識される。「共犯者」として確定されてしまう。 私はただの買い物帰りの主婦。公園を横切っただけ。何も見ていない。誰も知らない。 心の中で呪文のように唱えながら、優子は角を曲がり、住宅街の人混みの中へと逃げ込んだ。
3
自宅のキッチンに戻った優子は、買い物袋の中身をテーブルにぶちまけた。 長ネギ、牛乳、豚肉のパック。 そして、その隙間から、古びた茶色い封筒が出てきた。 阿久津が無理やりねじ込んだものだ。
触りたくなかった。 これを捨ててしまえば、全て終わるかもしれない。 だが、阿久津の「娘の顔に傷をつけてやる」という言葉と、「これがありゃ権田は終わりだ」という言葉が天秤にかかる。 もし阿久津が捕まったり殺されたりしたら、この証拠は永遠に闇に葬られ、権田はのうのうと街を支配し続ける。そして、秘密を知る優子への監視は続くだろう。 終わらせるには、権田を社会的に抹殺するしかない。
優子は意を決して封筒を開けた。 中から出てきたのは、一本の古びたカセットテープと、数枚の写真だった。 写真は、二十年前の日付が入った工事現場のスナップだ。若い頃の権田が、泥酔した様子の男性と肩を組んでいる。そして、その男性が倒れている現場検証のような写真……。 これだけでも十分怪しいが、決定的なのはカセットテープだろう。 ラベルには『10月4日 交渉』と殴り書きされている。
カセットテープ。 再生する機器なんて、今の西園寺家にはない。 優子は家中を探し回り、ようやく納戸の奥から、理央が昔英語の勉強に使っていた古いラジカセを引っ張り出してきた。 コンセントを繋ぎ、テープをセットする。 再生ボタンを押す指が震えた。
『……だから、頼みますよ会長』 『しつこいな。開発はこの街のためだ。君のような個人的な感傷で止めるわけにはいかんのだよ』 ノイズ混じりの音声。若い男の声と、権田の特徴的な低い声だ。 『ここを退くつもりはありません』 『そうか。……残念だ』 ガタン、という物音。 『おい、やれ』 『……うわぁっ!』 悲鳴。鈍い打撃音。そして、雨の音。 『……死んだか?』 『はい。首の骨が……』 『事故だ。酔っ払って足を滑らせた。いいな』 『は、はい……』
テープがカチリと止まった。 優子は口元を押さえた。吐き気がした。 決定的な証拠だ。殺人の指示と、実行の瞬間が記録されている。 阿久津――おそらくテープの中で「はい」と答えている男――は、これを二十年間隠し持っていたのだ。
これは爆弾だ。 この平和な西園寺家のダイニングテーブルの上に、核爆弾があるのと同じことだ。 もし権田が、優子がこれを持っていると知ったら? 脅しでは済まない。確実に、消しに来るだろう。
その時、玄関のチャイムが鳴った。 優子は飛び上がった。 ラジカセを抱きかかえ、慌てて周囲を見回す。隠さなきゃ。どこに? チャイムがもう一度鳴る。 「宅配便でーす!」 明るい声が聞こえ、優子は全身の力が抜けて椅子に座り込んだ。 宅配便だ。ただの宅配便。
だが、優子は気づいていた。 この家はもう、安全地帯ではない。 壁一枚隔てた外には、権田の目が光っている。 そして手元には、男の命とも言える証拠品。
優子はカセットテープと写真を、ジップロックに入れた。 そして、冷蔵庫の野菜室の奥、使いかけの味噌のパックの底に隠した。 灯台下暗し。主婦の聖域である冷蔵庫の中こそ、男たちが最も見ない場所だ。
「戦うしかないのね」 優子は呟いた。 録音した今日の会話。そして、過去の殺人の証拠。 武器は揃った。 あとは、これをどう使い、どうやって家族を守り抜くかだ。
夕暮れのキッチンで、優子は夕食の支度を始めた。 包丁を握る手に、力がこもる。 トントン、トントン。 まな板を叩くリズムは、これから始まる孤独な戦いの序曲のように響いた。




