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『午後二時の、善良な目撃者』  作者: 久遠 睦


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硝子の迷宮

第2章 硝子の迷宮


1

その朝、西園寺家で十八年間続いてきた「完璧な朝食」の儀式が、ついに崩れた。  トーストは焼き色が濃すぎて焦げ臭く、いつもは半熟でとろりとしている目玉焼きの黄身は、白く固まってゴムのような食感になっていた。

「あれ、今日ちょっと焼きすぎじゃない?」  娘の理央がフォークで硬い白身をつつきながら、無邪気に言った。 「ごめんなさい。ちょっと火加減を間違えちゃって」  優子はキッチンのシンクに向かったまま、背中で答えた。振り返ることができなかった。目の下のクマを、厚塗りのファンデーションでも隠しきれていなかったからだ。  昨夜は一睡もできなかった。  目を閉じると、瞼の裏にあの公園の光景が焼き付いて離れない。権田の冷たい目と、砂利を蹴る音。そして、回覧板に貼られた黄色い付箋の鮮烈な記憶。

『西園寺様』

あの文字が、優子の脳内で何度もリフレインしていた。  夫の健一は、新聞を読みながらコーヒーを啜り、何も気づかずに言った。 「まあ、たまにはこういうしっかり焼いたのも美味いよ。優子も疲れてるんだろ。無理するなよ」  その優しさが、今は痛い。  健一は知らないのだ。この家の土台が、今まさにシロアリに喰われるように、見えないところから崩れ始めていることを。

家族を送り出した後、優子は逃げ出したい衝動に駆られた。  布団に潜り込んで、何も見なかったことにして眠り続けたい。  だが、現実はそれを許さない。今日は水曜日。燃えるゴミの日だ。  主婦にとって、ゴミ出しは避けて通れない公的な義務であり、同時に最も神経を使う社交の場でもある。  優子は深呼吸を繰り返し、鏡の前で笑顔の練習をした。口角を上げ、目尻を下げ、いつもの「穏やかな西園寺さん」を作る。  大丈夫。私は何も見ていない。ただの鈍感な主婦。  そう自分に言い聞かせ、四十五リットルのゴミ袋を二つ提げて玄関を出た。

ゴミ集積所は、自宅から五十メートルほど先にある。  あやめ台の住宅街は、朝の爽やかな空気に包まれていた。しかし、優子にとっては、すべての家の窓が監視カメラのレンズのように見えた。カーテンの隙間から誰かが見ているのではないか。  早足で集積所に向かう。  そこにはすでに、近所の主婦が二人いた。三軒隣の田中さんと、向かいの鈴木さんだ。

「あら、西園寺さん、おはようございます」 「おはようございます」  優子は努めて明るく挨拶を交わす。 「急に冷え込みましたわ音」 「ええ、本当に。衣替えが間に合わなくて」  中身のない、安全な会話。これこそが平和の象徴だ。優子は少しだけ安堵し、持ってきたゴミ袋をネットの中に投げ込んだ。  その時だった。

「おはようございます、奥様方。精が出ますな」

背後から響いた、朗々とした男の声。  優子の背筋が凍りついた。振り返らなくても分かる。その声の主は、権田惣一郎だ。  田中さんと鈴木さんが、パッと花が咲いたような笑顔になる。 「あら、自治会長! おはようございます」 「朝のパトロールですか? いつもご苦労様です」

優子はゆっくりと振り返った。  権田は、今日も仕立ての良いジャージに身を包み、手にはゴミ拾い用のトングを持っていた。爽やかな銀髪、日焼けした肌、白い歯。どこからどう見ても、街のために尽くす好々爺だ。  権田の視線が、ゆっくりと優子に向けられた。  一瞬、あの公園での冷酷な光が宿った気がしたが、次の瞬間には温和な笑顔に変わっていた。

「やあ、西園寺さん。おはよう」 「……おはよう、ございます」  声が震えなかった自分を褒めてあげたい。  権田は一歩、優子の方へ近づいた。その距離感が、パーソナルスペースをわずかに侵食する絶妙な嫌らしさを持っていた。 「昨日はどうも」  心臓が跳ねた。  田中さんたちが不思議そうな顔をする。「昨日?」  権田は優子から目を逸らさずに続けた。 「いやなに、回覧板の件ですよ。西園寺さんのところはいつも提出が早いから助かる。几帳面な性格が現れていますな」 「い、いえ、そんな……」 「几帳面といえば」  権田はトングの先で、優子が出したばかりのゴミ袋を軽くつついた。 「ゴミの分別も完璧だ。さすがだね。……街を汚す『不純物』は、早めに処理しないといけない。そう思いませんか?」

不純物。  その単語の響きに、優子は昨日の男の顔を重ねた。  権田は笑っている。けれど、その目は笑っていない。 「綺麗な街を守るには、我々住民が常に目を光らせておかないといけない。余計な雑草は抜き、ゴミは捨て、秩序を保つ。それがここに住む者の義務ですよ」  それは、同意を求めているのではない。  共犯者になれという命令か、あるいは沈黙を守れという脅迫か。 「……そう、ですね」  優子は頷くしかなかった。 「うん、分かってくれて嬉しいよ」  権田は満足げに頷くと、「では、私はこれで」と軽く手を挙げ、優子の横を通り過ぎていった。  すれ違いざま、彼が低く、誰にも聞こえない声量で呟いたのを、優子の耳だけが拾った。

「午後二時の散歩も、ほどほどになさい」

優子は息をするのも忘れて立ち尽くした。  田中さんが「熱心な会長さんねえ」と感心したように言う声が、遠くから聞こえるようだった。  彼は知っていた。  私が昨日、あの公園にいたことを確信している。そして、「次は許さない」と警告したのだ。


2

逃げ場はない。  家に戻った優子は、リビングのソファに深く沈み込んだ。  警察に行くという選択肢は、完全に消えた。あんなに堂々と脅しをかけてくるということは、権田には自信があるのだ。自分が警察や世間をコントロールできるという絶対的な自信が。  もし下手に動けば、この街での生活を失うことになる。  夫の会社に変な噂を流されるかもしれない。娘の就職に響くかもしれない。この平穏な「あやめ台」で、村八分にされるかもしれない。  それは、優子にとって死に等しいことだった。

だからといって、ただ震えて待っているだけでいいのだろうか?  権田は「不純物は処理する」と言った。  もし、私がその不純物だと判断されたら?

(情報を、集めなきゃ)

優子の中で、小さな炎が灯った。それは恐怖から生まれた、生存本能という名の炎だった。  敵の正体を知らずして、城は守れない。  権田惣一郎とは何者なのか。昨日の男は誰なのか。二人の間に何があったのか。  警察手帳も探偵のライセンスも持っていない優子だが、主婦には主婦の武器がある。  それは、「井戸端会議」という名の、世界で最も精度の高い情報ネットワークだ。

優子はスマートフォンを手に取り、LINEを開いた。  宛先は『あやめ台グルメ・ランチ会』のグループ。  ここには、街の古参である六十代の奥様方から、情報通の若手ママまでが揃っている。  優子は慎重に文面を打った。唐突すぎず、かつ自然に話題を誘導できるように。

『皆さん、こんにちは。急に寒くなりましたね。実は今日、実家から大量に栗が届いたんです。もしよかったら、午後にお茶でもいかがですか? 渋皮煮を作ってみたので、味見していただきたくて』

送信ボタンを押して数分もしないうちに、既読がつき、スタンプが返ってくる。 『行く行く!』『西園寺さんの渋皮煮、絶品だものね』  釣れた。  優子は急いでキッチンに立ち、昨夜眠れずに作り置きしておいた栗の渋皮煮を皿に盛り付けた。  これはただのお茶会ではない。  優子にとっての、初めての聞き込み捜査だ。

午後一時。  西園寺家のリビングに集まったのは、三人の女性だった。  向かいの鈴木さん(四十五歳・おっとり)、斜め裏の加藤さん(三十八歳・教育熱心)、そして街一番の情報通である江口さん(六十二歳・あやめ台在住歴二十年)だ。  紅茶を淹れ、和やかな雰囲気を作る。  話題は天候から子供の受験、そして最近オープンしたパン屋の話へと移っていく。  優子は笑顔で相槌を打ちながら、タイミングを計っていた。

「そういえば」  加藤さんがふと声を潜めた。「最近、変な人がうろついてるって話、聞きました?」  優子の手が止まる。 「変な人?」 「ええ。ジャンパーを着た、ちょっと薄汚れた感じの男の人。公園とか、駅前とかでブツブツ言ってるらしくて。娘の塾の帰り道が心配で」  間違いない。昨日の男だ。  鈴木さんが眉をひそめる。「嫌ねえ。あやめ台も物騒になったものね」

ここで仕掛けるしかない。優子は努めて何気ない調子で言った。 「そういえば、今朝ゴミ出しの時に権田会長にお会いしたんですけど、会長も『不純物は処理しないと』なんて、随分厳しいことをおっしゃってて。やっぱり、そういう不審者対策のことなんでしょうかね」

江口さんが、紅茶のカップを置いて大きく頷いた。 「ああ、権田さんはねえ、昔からそういう『浄化』には厳しい人だから」 「昔から?」優子は身を乗り出しかけて、慌てて背もたれに戻った。「……正義感が強いんですね」 「正義感、というよりは潔癖ね」  江口さんは懐かしむような、でも少し苦い顔をして言った。 「西園寺さんは引っ越してきてまだ十年くらいでしょう? 知らないかもしれないけど、この街が開発された当初、もっと古い地権者の人たちと一悶着あったのよ」 「へえ、そうなんですか」 「ええ。立ち退きに反対する農家の人とかね。そういう反対派を、一件ずつ説得して回って、今の綺麗な街並みを作ったのが、銀行員時代のエリートだった権田さんなのよ」 「説得、ですか」 「表向きはね。でも当時、反対派のリーダーだった人の畑が謎の火事で燃えたり、悪い噂が流れて居づらくなったり……いろいろあったのよ。結局、権田さんに逆らった人はみんな、いなくなっちゃったわ」

背筋が寒くなった。  反対派のリーダー。火事。悪い噂。  権田の言う「浄化」の意味が、少しだけ見えた気がした。彼は邪魔なものを排除することに躊躇いがない人間なのだ。   「でもね」江口さんが声をさらに低くした。「最近見たっていう不審者……私、ちょっと見かけたんだけど、なんとなく見覚えがあるのよね」 「えっ、誰なんですか?」  優子は思わず食い気味に聞いてしまった。  江口さんは首を傾げた。 「はっきりとは思い出せないんだけど……昔、権田さんの下で働いていた、若い秘書みたいな男の人に似てる気がして。ほら、二十年くらい前、選挙に出る出ないで権田さんが騒がれた時期があったでしょう? その時にいつも後ろにいた、あの……」

――選挙。秘書。  新しいキーワードだ。  その時、加藤さんが「あ、もう二時半! 塾の送迎に行かなきゃ」と立ち上がったことで、話は中断された。 「ごめんなさい、私もそろそろ」 「美味しかったわ、ご馳走様」  お茶会はお開きになった。  玄関で彼女たちを見送りながら、優子は心の中で情報を整理していた。

1.権田は過去に、強引な手口で街の「浄化」を行っていた可能性がある。  2.不審な男は、かつて権田の側近だった人物かもしれない。  3.だとしたら、昨日の金の受け渡しは、単なる恐喝ではなく、「口止め料」の可能性が高い。

過去の悪事を握る元部下が、金を無心に来た。そして権田はそれを「最後」だと言って切り捨てた。  パズルのピースがはまりかけている。  だが、その絵が完成した時、優子は知ってはいけない秘密の全貌を見てしまうことになる。


3

みんなが帰った後のリビングは、以前よりも一層静まり返って感じられた。  優子は片付けをしながら、窓の外を見た。  庭のハナミズキが風に揺れている。平和な景色だ。  だが、今の優子には、その木陰に誰かが潜んでいるような気がしてならなかった。

その時、ダイニングテーブルに置きっぱなしにしていた優子のスマホが震えた。  ビクッとして画面を見る。  知らない番号からの着信だった。  090から始まる携帯番号。  優子は躊躇った。出たくない。でも、もし理央に何かあったという連絡だったら? あるいは夫に?  三度目のコールで、恐る恐る通話ボタンを押した。

「……はい、西園寺です」  耳を澄ませる。  相手は無言だった。  いや、完全に無言ではない。微かに、ざあざあというノイズが聞こえる。風の音だ。屋外にいるのだ。 「もしもし?」  もう一度呼びかける。  すると、受話器の向こうから、低い、押し殺したような男の声が聞こえた。

『見たんだろ』

心臓が止まるかと思った。  あの男の声だ。昨日の公園で、権田にすがっていた男。 「……え?」 『とぼけるなよ、奥さん。あの時、公園の入り口に立ってた女だろ。綺麗な服着て、幸せそうな顔してさ』  どうして。どうして私の番号を?  混乱する優子に、男は嘲笑うように続けた。 『俺は見てたんだよ。あんたがどこの家に帰ったか。表札も見た。……いい家だなぁ。旦那も娘も、幸せそうで』 「やめて……!」  優子は思わず叫んでいた。 「家族には手を出さないで! 私は何も見てない、誰にも言ってない!」 『ハハ、必死だな。……まあいい。俺も鬼じゃない。取引しようぜ』 「取引……?」 『あんたは権田が俺に金を渡してるのを見た。それは事実だ。……俺は今、金が必要なんだよ。権田の古狸はもう出し渋りやがる。だからさ』

男の声が、急に真剣なトーンに変わった。 『あんたが証言してくれれば、俺はもっとデカいネタで権田を揺すれる。警察に垂れ込むんじゃない。俺の駒になれよ、奥さん』 「そんなこと……できるわけないでしょう!」 『断れば、あんたの可愛い娘がどうなるかな』  理央。  優子の脳裏に、今朝「行ってきます」と笑った娘の顔が浮かぶ。 『明日の午後二時。またあの公園に来い。一人でな。……来なかったら、次は娘の大学に行くぞ』

プツリ。  通話が切れた。  優子はスマホを握りしめたまま、その場に崩れ落ちた。  足の力が抜けて、立ち上がれない。

権田からは「沈黙しろ」と脅され、不審な男からは「協力しろ」と脅された。  板挟みだ。  どちらに転んでも、優子の平穏な日常は破滅する。  警察に行けば、男は逮捕されるかもしれないが、権田の報復が待っている。  黙っていれば、男が娘を襲うかもしれない。

「どうすればいいの……」  涙が滲んできた。  ただ、普通に暮らしていただけなのに。  夕飯の献立を考え、掃除をし、家族の帰りを待つ。そんなささやかな幸せを守ることが、どうしてこんなに難しいのか。

泣きじゃくりながら、ふと、優子の視線が床に落ちた。  そこには、先ほど江口さんが持ってきた手土産の包み紙が落ちていた。地元の古新聞で作られたエコバッグだ。  その古新聞の片隅にある記事の見出しが、優子の目に飛び込んできた。

『建設談合疑惑、真相は闇の中へ――関係者の自殺により捜査終了』

日付は二十年前。  記事の横に小さく載っている写真。建設会社の役員たちが並んでいるその端に、若き日の権田惣一郎が写っていた。  そして、そのすぐ後ろに控えている若い男。  画質は粗いが、その目つきは、間違いなくあの男だった。

優子は涙を拭った。  泣いている場合ではない。  彼らは私を、ただの「無力な主婦」だと思って脅してきている。  私が守るべきものを人質にとって、ゲームの駒のように扱おうとしている。

許さない。  優子の中に、恐怖とは別の、熱く激しい感情が湧き上がってきた。  それは、家族を脅かされた母親だけが持つ、凶暴なまでの怒りだった。

私は、あなたたちの思い通りにはならない。  この硝子ガラスのように脆い幸福を壊そうとするなら、私にも考えがある。

優子はゆっくりと立ち上がった。  その目からは、もう涙は消えていた。  明日の午後二時。約束の場所へ行く。  ただし、ただの「善良な目撃者」として行くつもりはなかった。


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