春を待つ庭で
第10章 春を待つ庭で
1
季節が二つほど巡った。 あやめ台の街路樹は、ハナミズキの赤い実を落とし、今はふっくらとした蕾を枝先に宿している。 三月の風はまだ冷たいが、その中には確かな春の匂いが混じっていた。
西園寺家の朝は、相変わらず忙しない。 「ママ、今日お弁当いらないって言ったじゃん!」 「あら、そうだった? じゃあパパに持たせるわ」 「俺はいいよ、昼は社食で蕎麦にするから……って、なんだその卵焼き、美味そうだな。やっぱり貰っていくよ」
キッチンでのやり取りは、半年前と変わらないように見える。 だが、変化は確実にあった。 夫の健一は、以前よりも少し白髪が増えた。大手ゼネコンとのプロジェクトが白紙になり、社内での出世コースからは外れたようだ。それでも、今の彼の表情は、あの頃の常に何かに怯え、虚勢を張っていた顔よりもずっと穏やかだった。 「出世より、胃薬がいらない生活の方が性に合ってるよ」と、彼は照れくさそうに笑うようになった。 理央もまた、少し大人びた。大学の講義の傍ら、ボランティアサークルに入り、社会活動に参加し始めたらしい。「権田さんの事件で、大人がみんな正しいわけじゃないって分かったから」というのが彼女の弁だ。
そして、優子は。 「行ってらっしゃい」 二人を送り出した後、彼女はエプロンを外し、薄手のジャケットを羽織った。 専業主婦としての「完璧な城」を守るだけの生活は、もう終わりにした。 週に三回、駅前の図書館でパート職員として働き始めたのだ。 社会と繋がり、自分の名前で働き、自分の財布を持つ。そのささやかな自立が、優子にかつてない自信を与えていた。
自転車の鍵を手に取り、玄関を出る。 あやめ台の空気は変わった。 ゴミ出しのルールは少し緩くなり、あちこちの庭木が自由に枝を伸ばし始めている。権田という厳格な管理者がいなくなったことで、街は少しだけ「だらしなく」なり、その分だけ息がしやすくなった。 向かいの鈴木さんが、布団を干しながら手を振ってくる。 「西園寺さん、おはようございます。今日はお仕事?」 「ええ、行ってきます」 以前のような、腹の探り合いを含んだ挨拶ではない。ただの隣人としての、軽やかな挨拶。 優子はペダルを漕ぎ出した。
2
権田惣一郎の裁判は、連日ワイドショーを賑わせた後、今は静かに司法の手続きが進んでいる。 殺人教唆、恐喝、公職選挙法違反。余罪は叩けば叩くほど出てきた。 かつての名士は、全てを失った。あの広大な屋敷も売りに出され、今は更地になっている。 妻は離婚し、静かに街を去ったという。
阿久津もまた、恐喝の罪で服役している。 だが、優子は知っていた。彼があの時、優子にテープを託した本当の理由を。 自分の保身のためだけではなかったはずだ。彼もまた、二十年間、権田という呪縛に苦しみ、誰かにそれを断ち切ってほしかったのではないか。 そうでなければ、あんな決定的な証拠を、ただの主婦に預けたりはしない。
図書館での仕事を終えた午後二時。 優子は、少し寄り道をして帰ることにした。 駅前のカフェ。テラス席に、見慣れた人物が座っているのが見えた。 黒い革ジャンに、サングラス。手元には煙草とノートパソコン。 神崎玲子だ。
「……また、そんな不健康そうな顔して」 優子が向かいの席に座ると、玲子はサングラスをずらしてニヤリと笑った。 「よお、英雄。パート帰りの主婦にしちゃ、いい顔してるじゃない」 「あなたのおかげよ。……その後の仕事はどう?」
玲子はあのスクープ記事で、ジャーナリストとしての名声を一気に取り戻した。 今は大手週刊誌と契約し、全国を飛び回って企業不正や政治汚職を暴いているらしい。 「忙しくて死にそうよ。おまけに、あやめ台の事件を本にしないかってオファーまで来てる」 「へえ、すごいじゃない。書くの?」 「断ったわ」 玲子は煙草の煙を吐き出しながら、さらりと言った。 「私の手柄みたいに書かれるのは癪だからね。あれは、あんたの戦いだった。私が消費していいネタじゃない」
優子は胸が温かくなった。 この人は、口は悪いし態度は大きいけれど、誰よりも義理堅い。 「それにね、私、引っ越すことにしたの」 「えっ、どこへ?」 「都内。仕事が増えたから、アクセスのいい場所に拠点を移す。……だから、今日はその報告」 玲子は少し寂しそうな、でも晴れやかな顔をしていた。 優子は頷いた。 寂しくなる。でも、引き留めるつもりはなかった。彼女には彼女の戦うべき場所がある。
「西園寺さん」 帰り際、玲子が言った。 「あんたは変わったよ。最初に会った時の、世間知らずで鼻持ちならない奥様とは別人だ」 「……褒め言葉として受け取っておくわ」 「ああ。……何かあったら呼びな。地球の裏側にいても、飛んできてやるから」 「あなたこそ。ご飯が食べたくなったら来なさいよ。味噌汁くらいご馳走するわ」
二人は握手もしなかった。抱き合いもしなかった。 ただ、短く手を挙げて、左右の道へと別れた。 それで十分だった。 互いに背中を預け合って戦った記憶は、どんな言葉よりも強く二人を繋いでいる。
3
買い物を済ませて家に帰ると、午後四時を回っていた。 夕食の下拵え(したごしらえ)をする前に、優子は庭に出た。 狭いながらも手入れされた庭。そこには、一輪の福寿草が黄色い花を咲かせていた。
半年前、優子はこの庭を「完璧な幸福の象徴」だと思っていた。 雑草一本許さず、他人の目を気にして作り上げた、ガラス細工のような庭。 けれど今は違う。 少し雑草が生えていても、落ち葉があっても、気にならない。 嵐が来れば花は散る。けれど、根っこさえ生きていれば、また次の季節には花が咲くことを知ったからだ。
幸福とは、何も起きないことではない。 何かが起きても、それを乗り越えていけるという自信のことだ。 そして、その自信は、誰かに守ってもらうものではなく、自分自身の足で立ち、自分の目で見て、自分の頭で考えることでしか得られない。
遠くで、夕焼けを告げるチャイムが鳴り響く。 あの時、恐怖のどん底で聞いたチャイムとは違う、優しく、どこか懐かしい音色。
優子は空を見上げた。 雲ひとつない青空が広がっている。 誰の視線も感じない。監視する目も、脅かす声もない。 あるのは、自由な風だけだ。
「さて、と」 優子は大きく伸びをした。 今夜の夕食は何にしようか。 健一は胃に優しいものがいいと言っていたけれど、理央は肉が食べたいと言うだろう。 間を取って、豚肉と大根の煮物にしよう。 冷蔵庫の中には、もう爆弾なんて入っていない。あるのは、家族のための食材だけだ。
優子は土のついた軍手を外し、家の中へと戻っていった。 リビングの窓から差し込む西日が、彼女の背中を長く、力強く伸ばしていた。
私は、西園寺優子。四十四歳。 どこにでもいる主婦。 そして、自分の人生を、自分の意思で生きる一人の女性だ。
キッチンに立ち、包丁を握る。 トントン、トントン。 軽快な音が、平和な夕暮れに響き始めた。 それは、彼女が新しく紡ぎ始めた、揺るぎない日常のリズムだった。
(完)




