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『午後二時の、善良な目撃者』  作者: 久遠 睦


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火曜日の聖域

第1章 火曜日の聖域

1

幸せというのは、音のしないものだと思う。  たとえば、磨き上げられたクリスタルガラスの曇りひとつない表面や、昼下がりのリビングに落ちるレースカーテンの影。あるいは、淹れたばかりのアールグレイから立ち上る湯気が、何にも乱されることなく真っ直ぐに天井へ向かっていく様子。  そういう静寂の中にこそ、本当の幸福は宿っている。少なくとも、四十三歳になった西園寺優子さいおんじゆうこはそう信じて生きてきた。

「行ってきます」 「行ってらっしゃい。今日は遅いの?」 「ああ、会議が長引くかもしれない。夕飯は先に食べててくれ」 「わかったわ。気をつけて」

午前八時十分。夫の健一けんいちを玄関で見送る。結婚して十八年、この儀式を欠かしたことはない。健一の背広の後ろ姿が角を曲がって見えなくなるまで見届けるのが、優子の朝のルーティンだった。  続いて八時半。大学二年生になる娘の理央りおが、トーストを口にくわえたまま慌ただしく二階から降りてくる。

「やばい、一限ギリギリ! ママ、私の水筒どこ?」 「キッチンのカウンターの上よ。中身、ルイボスティーにしておいたから」 「神! ありがとう、行ってきます!」

バタン、と少し乱暴に玄関ドアが閉まる音。その余韻が消えると、西園寺家には完全な静寂が戻ってくる。  優子は深く息を吸い込んだ。朝の少し冷えた、けれど清潔な空気。廊下のフローリングは昨夜のうちにモップをかけたおかげで、朝日を反射して鈍く光っている。  ここが私の城だ、と優子は思う。  誰にも侵されない、誰にも邪魔されない、完璧な聖域。  夫は中堅商社の課長として真面目に働き、娘は希望の大学で青春を謳歌している。優子自身は、専業主婦としてこの家を完璧にコントロールすることに誇りを持っていた。ローンはあと十年残っているが、今のペースなら繰り上げ返済も夢ではない。大きな病気もなく、親戚付き合いも円満。  世間から見れば「平凡」という言葉で片付けられるかもしれない。けれど、その平凡を維持するために、どれだけの細やかな配慮と努力が必要かを知っているのは、優子だけだった。

午前中は家事に費やす。今日は火曜日だから、水回りを念入りに掃除する日だ。  ゴム手袋をはめ、洗面台の鏡を磨きながら、ふと鏡に映った自分を見つめる。  目尻には笑い皺が刻まれ、頬のラインも二十代の頃のようにはいかない。けれど、手入れされた肌にはまだ艶があるし、白髪も定期的なカラーリングで隠せている。 「四十三歳……」  小さく呟いてみる。  悪くない、と思う。若い頃のような焦燥感はない。何者かにならなければならないというプレッシャーも、もうない。私は「西園寺優子」として、この家の主婦として完成されている。その安堵感が、優子の表情を穏やかにさせていた。

掃除を終え、簡単な昼食(昨夜の残りのラタトゥイユとバゲット)を済ませると、時計の針は午後一時半を指していた。  さて、と優子は立ち上がる。  午後二時からは、彼女だけの時間だ。


2

優子が暮らす「あやめ台」は、都心から電車で四十分ほどの場所に開発されたニュータウンだ。  開発から二十年が経ち、街路樹のハナミズキは立派に枝を広げ、街全体に落ち着いた風格が漂い始めている。住民も似たような所得層の、似たような家族構成の人々が多い。犯罪発生率は県内でも極めて低く、回覧板は滞りなく回り、ゴミの分別ルールは厳格に守られている。  つまり、善意と常識で舗装された街なのだ。

優子はスニーカーの紐をきゅっと結んだ。  日課のウォーキングは、健康維持と気分転換を兼ねている。コースは三パターンあり、その日の気分で決める。今日は天気がいいので、少し遠回りをして「見晴らし公園」を経由する四十分のコースを選んだ。  玄関を出ると、十月の柔らかな日差しが肌を包んだ。  歩き慣れたアスファルトの道。すれ違う顔見知りの奥さん数人と、「いいお天気ですね」と会釈を交わす。立ち話はしない。適度な距離感を保つのも、この街で長く快適に暮らすコツだ。

あやめ台の住宅街を抜け、緩やかな坂を登っていく。  午後一時五十五分。  街は午睡ごすいの時間に入っている。学校へ行った子供たちはまだ帰ってこないし、働きに出ている大人たちもいない。専業主婦や定年退職した高齢者たちが、それぞれの家の奥で静かに過ごしている時間帯だ。  世界から音が消えたような、この空白の時間が優子は好きだった。自分が透明人間になって、平和な街を見守っているような気分になれるからだ。

「見晴らし公園」は、その名の通り街一番の高台にある。  普段なら、ベンチで読書をする老人や、幼児を遊ばせる母親の姿がちらほらあるのだが、今日は誰もいなかった。  珍しいな、と思いながら、優子は公園の入り口に差し掛かる。  その時だった。  公園の奥、公衆トイレの裏手にある鬱蒼とした植え込みの影に、人の気配を感じた。

最初は、ただの立ち話かと思った。  しかし、何かがおかしい。  二人の男性が向き合っているのだが、その距離が近すぎる。そして、周囲を警戒するように、不自然に声を潜めている雰囲気が、三十メートル離れた優子の場所まで伝わってきたのだ。  優子の足が止まる。  本能的な警戒心というよりは、単なる好奇心だった。こんな平日の真昼間に、男の人たちが何をしているのだろう。

一人は、見覚えのある背中だった。  仕立ての良いグレーのジャケットに、整えられた白髪交じりの短髪。背筋がピンと伸びたその姿勢は、あやめ台自治会の会長を務める権田ごんだだ。  権田は六十代半ばで、地元の名士だった。元は銀行の支店長を務めていたとかで、物腰は柔らかく、正義感が強い。先日の防災訓練でも、先頭に立って指揮を執っていた姿が印象に残っている。優子も何度か挨拶をしたことがあるが、いつも紳士的な笑顔を返してくれる「頼れる街のリーダー」だ。

権田さんだわ、と優子は安堵しかけた。  彼がいるなら、何も怪しいことはないはずだ。  そう思って、挨拶をしようと一歩踏み出し――その足を、空中で止めた。

権田の向かいに立っている男の異様さに気づいたからだ。  年齢は三十代後半だろうか。季節外れの薄汚れたジャンパーを羽織り、猫背で、落ち着きなく視線を彷徨わせている。清潔なこのあやめ台には似つかわしくない、澱んだ空気を纏った男だった。  男の顔色は青白く、何かを懇願するように権田にすがりついていた。

「……頼みますよ、これじゃ足りない」  風に乗って、男のかすれた声が聞こえた。 「約束が違うじゃないですか」 「約束?」  答えた権田の声は、優子が知っているあの温厚な響きではなかった。  氷のように冷たく、無機質な声。 「勘違いするな。これは慈悲だ。本来なら、君には一円だって渡す必要はないんだよ」

優子は息を呑んだ。  見てはいけないものを見ている。その自覚が、背筋を冷たい手で撫でられたように這い上がってくる。  引き返すべきだ。今すぐに、音を立てずに。  頭では分かっていた。けれど、足がすくんで動かない。

権田が懐から茶封筒を取り出した。  厚みのあるその封筒を、男の胸元に押し付ける。 「これで最後だ。二度とこの街に顔を出すな。……もし次に来たら、分かっているね?」 「ひっ……」  男が短く息を吸い込み、封筒をひったくるように受け取った。  その時、男がバランスを崩し、足元の砂利を派手に蹴散らした。  ジャリッ、という乾いた音が、静寂な公園に響き渡る。

その音に反応して、権田が顔を上げた。  ゆっくりと、まるで獲物を探す捕食者のような動きで、首を巡らせる。  そして。  公園の入り口に立ち尽くす優子と、視線が交差した。

時間は永遠に感じられた。実際には一秒か、二秒のことだっただろう。  権田の目は、笑っていなかった。  あの、いつも優子たちに向けていた「良いおじいちゃん」の慈愛に満ちた瞳ではない。光を吸い込まない、暗く濁った瞳が、優子という存在を「認識」し、「分析」し、「敵対者」としてタグ付けしていくのが分かった。

(見られた)

優子の脳内で警報が鳴り響く。  逃げなきゃ。  優子は咄嗟に、ウォーキングの途中であることを装って、視線を時計へと逸らした。 「あら、もうこんな時間」  誰に聞かせるわけでもなく、わざとらしく独り言を呟く。声が震えていないか心配だった。  権田の方を見ないように、けれど走って逃げ出したことがバレないように、不自然なほどの早歩きできびすを返す。  背中に、権田の視線が突き刺さるのを感じた。  心臓が早鐘を打つ。  ドクン、ドクン、ドクン。  自分の足音さえも、追っ手の足音のように聞こえる。

角を曲がり、権田たちから見えない位置に入った瞬間、優子は全速力で走り出した。  四十三歳の体が悲鳴を上げる。息が切れる。脇腹が痛む。それでも足は止まらなかった。  あやめ台の平和な住宅街が、突然、書き割りのセットのように不気味なものに見えた。  どの家の窓からも、誰かが見ているような気がする。  あの完璧だった静寂が、今は優子を追い詰める「沈黙」へと変わっていた。


3

自宅の玄関ドアを閉め、二つの鍵をすべてかけた瞬間、優子はその場にへたり込んだ。  冷たいタタキに膝をつき、荒い息を整える。  手足の震えが止まらない。  玄関の鏡に映った自分の顔は、死人のように青白かった。

「……何よ、あれ」  声に出すと、恐怖がより現実味を帯びて迫ってきた。  自治会長の権田。あんなに信頼されていた人が、あんなチンピラのような男と、現金の授受をしていた。  慈悲。最後。二度と来るな。  あの言葉の意味は何だろう。恐喝? それとも、何か犯罪の隠蔽?  普通の主婦である優子の想像力では、具体的な答えには辿り着けない。ただ一つ確かなのは、あれが「善意の行い」などでは決してなかったということだ。

警察に通報するべきだろうか?  優子は震える手でスマートフォンを取り出した。  しかし、指が「110」を押す直前で止まる。  何と通報する?  『公園で男の人が封筒を渡していました』  それだけだ。犯罪の決定的瞬間を見たわけではない。ナイフを見たわけでも、死体を見たわけでもない。ただ、封筒を渡して会話していただけ。  もし通報して、警察が権田の元へ行ったらどうなる?  『ああ、あれは困っている知人に金を貸してやっただけですよ』  そう言われたら、それまでだ。  逆に、通報者が優子だと知られたら?  権田はこの街の名士だ。警察署長とも懇意にしていると聞いたことがある。もし、名前が漏れたら。  あの冷たい目が、今度はこの家に向けられることになる。

優子はリビングへ這うように移動し、窓のカーテンを少しだけ開けて外を覗いた。  いつもの平和な通り。誰もいない。  けれど、優子は知ってしまった。  この平穏な街の皮が一枚めくれた下には、ドロドロとした何かが流れていることを。  そして、自分はその蓋をうっかり開けてしまったのだということを。

「ただいまー」  玄関が開く音に、優子は飛び上がりそうになった。  娘の理央が帰ってきたのだ。 「……おかえり」  精一杯の平常心を装って声をかけるが、裏返ってしまった。  理央は気づかずに、靴を脱ぎながら言った。 「今日さ、駅前で新しいケーキ屋さん見つけたんだよ。今度行こうよママ。……あれ、どうしたの? 顔色悪いよ」  リビングに入ってきた理央が、怪訝そうに優子を覗き込む。 「ううん、何でもないの。ちょっと貧血気味で」 「えー、大丈夫? 更年期とか?」 「もう、失礼ね」  笑ってみせたが、頬が引きつるのが自分でもわかった。  理央の無邪気な顔を見ていると、涙が出そうになった。  守らなければ。  この子の笑顔も、夫との穏やかな老後も、私が築き上げてきたこの城も。  あの一瞬の目撃が、この幸せを壊すトリガーになるなんて絶対に許せない。

その夜、夫の健一が帰宅し、家族三人で夕食のテーブルを囲んだ。  メニューは煮込みハンバーグ。健一の好物だ。 「うん、やっぱり優子のハンバーグは美味いな」  健一が満足そうにビールを飲む。理央が大学の話をして、健一が相槌を打つ。  いつもの幸せな光景。  しかし、優子の胸の中には、黒い塊が居座ったまま消えなかった。  テレビのニュースを見るのも怖い。窓の外の物音に過敏になる。  夫に相談しようか、何度も迷った。  『今日、権田さんが怪しかったの』  そう言えば、健一はきっと笑い飛ばすだろうか。それとも、正義感の強い彼のことだ、直接権田に確かめに行こうとするかもしれない。それは一番危険なことだ。

結局、優子は黙っていることを選んだ。  私が忘れればいい。見なかったことにすればいい。  権田だって、ただの主婦が通りかかっただけだと思っているはずだ。私のことなんて覚えていないかもしれない。  そう自分に言い聞かせ、皿を洗う。  冷たい水が手に当たる感覚だけが、現実だった。

――ピンポーン。

午後九時。  インターホンの音が、静まり返ったリビングに銃声のように響いた。  優子の手が止まる。皿がカチャリとシンクにぶつかった。 「こんな時間に誰だ?」  健一が不思議そうに立ち上がる。 「宅急便かな。俺が出るよ」 「待って!」  優子は鋭い声で叫んだ。  健一と理央が、驚いて優子を見る。 「……あ、あの、私が。私が出るわ。散らかったままだから」  言い訳にもならないことを口走りながら、優子は泡だらけの手を拭いもせずにモニターへと駆け寄った。  心臓が喉から飛び出しそうだった。  もし、モニターの向こうに、あの男が立っていたら。  あるいは、冷たい目をした権田が立っていたら。

震える指で、モニターの通話ボタンを押す前に、画面を確認する。  暗視カメラの荒い画像の中に映っていたのは――。

隣の家に住む、佐藤さんだった。  手には回覧板を持っている。

優子はその場に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。 「……はーい」  なんとか絞り出した声で応答する。 「ごめんなさいね、夜分に。回覧板、回し忘れちゃってて」 「いえ、大丈夫です。ご苦労様です」  ドア越しに回覧板を受け取り、鍵を閉める。  たったそれだけのことなのに、全身から冷や汗が噴き出していた。

リビングに戻ると、健一が心配そうに見ていた。 「優子、本当に大丈夫か? やっぱり病院行った方がいいんじゃないか?」 「大丈夫よ。ちょっと疲れてるだけ」  優子は微笑んだ。  完璧な主婦の仮面を被り直す。

大丈夫。まだ何も起きていない。  これは私の取り越し苦労だ。更年期のホルモンバランスの乱れが見せた幻影だ。  そう思おうとした。

だが、受け取った回覧板をテーブルに置いた時、その一番上に挟まれていたプリントの文字が、嫌でも目に入った。  それは、今週末に行われる『秋の街内一斉清掃』のお知らせだった。  発行責任者の欄には、達筆な文字でこう書かれていた。

『あやめ台自治会長 権田 惣一郎』

そして、その横に手書きの付箋が貼られていた。  丸文字の、佐藤さんの字ではない。鋭く、几帳面な大人の字で。

『いつも街の美化にご協力ありがとうございます。西園寺様』

ただの事務的なメッセージに見える。  けれど、優子にはそれが、死刑宣告のように思えてならなかった。  彼は知っている。  私がどこの誰で、どこに住んでいるかを。  そして、わざわざこの付箋を通して、「見ているぞ」と告げているのだ。

優子の聖域は、もう安全な場所ではなくなっていた。  午後二時の、たった数秒の出来事が、四十三年かけて積み上げてきた幸福を、薄いガラスのように粉砕しようとしていた。


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