3・砕かれる心、開かれる扉
カレンの指先が、灰色の花びらに触れた時に溢れ出したのは「思い出」の奔流だった。
レンと共に笑った日々、贈られた言葉、そして――直視することを避けてきた残酷な真実。
断片的な、けれども確かな記憶が溢れ流れ出てきていた。
眩しいほどの日差しと、潮騒の音だった。 海辺のカフェのテラス席。
レンが少し照れくさそうに、小さな包みを差し出した。
「これ、カレンに似合うと思って」
中に入っていたのは、透き通った茶色の石――スモーキークォーツのアクセサリーだった 。
「煙色って、少し寂しそうに見えるけど、実は大地に足を着ける強さをくれる石なんだって」
そう言って笑う彼の指の温かさがずっと続くものだと思っていた。
喧嘩をして背を向け合った雨のあの日。
レンが追いかけてきて、傘もささずに彼女の肩を掴んだ。
「ごめん、僕が間違ってた。君を失うことだけは、考えられないんだ」
彼の服から漂う、雨の匂いと洗剤の香り。抱きしめられた時の心音。
カレンの右の膝にある小さな小さな傷跡をレンが見つけた、秋のある日。
幼い時に転んだ時、運悪く割れた瓶の破片の上に膝をついてしまい、少しだけ縫った事を恥ずかしそうに言うと、レンは微笑んで
「それもカレンの一部だ」
と言ってくれた…この傷跡さえ大事な大事な思い出。
そんな些細な日常の断片が、鋭いガラスの破片となってカレンの胸を切り裂く。
疲れている時に「無理をするなよ」と困ったように笑いながら、カレンの好きな料理を作ってくれたレン。
時折子供っぽい笑顔を見せたレン。
素直に謝れないカレンに、仕方ないな、と軽く苦笑しながら笑わせようと必死になっていたレン。
そんな彼はしばらくして、いつの間にか食が細くなり顔色も悪く、咳き込むことが増えていった。
「記憶より遠くから、君だけを見つめてる」
微笑む顔だけは変わらず優しく愛しみに溢れていた……
そして、最も深く、暗い場所に隠していた残酷な景色。
白く無機質な病室の空気。鳴り続けるモニターの音。
レンの顔は、この森の木々のように白く、生気を失っていた。
彼の大きな手は冷たく、握り返してくれることはなかった。
「行かないで、レン。置いていかないで」
そう叫ぶ自分の声が、森のさざめきと重なる。
「…行かないで」
叫びは森に吸われ、カレンの体から急速に色が失われていく。
レンの死を認めず、思い出の中に逃げ込もうとするほど、彼女は森に取り込まれ、透明になっていく。
カレンは、咲き誇る灰色の花を前に、震える両手を差し出した。
指先がその薄い花びらに触れる。
驚くほど冷たく、けれど懐かしい温もりが心の奥底へ流れ込んでくる。
まるでレンが抱きしめてくれているような…そんな抗いがたい温かさ。安堵、安心、安らぎ…甘美な感情がカレンを満たしていく。
この花を抱きしめ、このまま動かずにいれば、自分もやがて完全な透明となり、レンの心の一部として永遠に溶け合えるだろう。
現実の…彼がいない虚無な場所に戻る必要などどこにもない。ここで共に、静止した光の中で朽ち果てていこう、…一瞬だけそう思う。
しかし、彼女の視界に映る花は、ただ静かに、けれどあまりにも残酷に「終わり」を告げていた 。
「……行かなきゃ、いけないのね」
カレンは、掠れた声で呟いた。
カレンをこの森に繋ぎ止めていたのはレンへの執着。
彼を失った現実を認めず、レンとの過去だけを考えて内なる檻に閉じこもっていた。
だが、先程あふれ出した思い出では、レンが愛したのは、ガラスのように凍りついた自分ではなく、共に笑い、泣き、明日を夢見た「生身の自分」…。
レンはもうどこにもいない。それは変わらない。
でも、だからって私まで消えていいわけじゃない。
レンが愛してくれた自分を取り戻さなくては…。
だから、やるべきことはわかる。
しかし、その手に力をこめるにはいまだに躊躇いがあった。
いやよ…いやだよ…レン…傍にいてよ…傍にいさせてよ…一人はもう嫌なのよ…
その泣き言を言葉にすると、また森と同化していく部分が広がってしまう。
それでも、カレンはまだ震える手をそのまま差し出したままだ。
記憶より遠くから…
レンの優しい言葉が耳を掠める。
このまま過去にしがみつき、森の一部になれば二度とレンを失わずにすむ。
けれども、本当にレンはそれを望んでいるのだろうか…。
やらなくちゃ…。
やっと決意を手に込める。
花びらに触れる指先は、すでに感覚を失いかけている。
けれど、その奥にある「彼との日々」の重みだけは、今の彼女にとって唯一の熱だった。
大きく息を吸い込んだ彼女は、灰色の花を愛おしむように、けれど容赦のない力で強く、強く握りしめる。
パリン――。
彼女が指先に力を込めた瞬間、静寂は脆くも鋭い拒絶の悲鳴を上げた。
それは灰色の花が砕け散る音であると同時に、恋人の心を、自らの手で粉々に砕く音だった。
カレンに深く突き刺さっていた「レンの不在」という鋭利な破片が数を増やし、胸に、心臓に、喉に、体中に、突き刺さり、痛みを引き起こす。
そして愛する人を二度失うという、狂気にも似た耐え難い喪失感…。
「レン、ごめん……っ! ごめんなさい……!」
視界が真っ白に弾け、呼吸が止まる。
掌から伝わるのは、愛する人の心臓を自らの手で止めてしまったかのような、耐え難いほどの重みと、それに続く空虚な冷たさだった。
砕け散った灰色の破片は、彼女の涙を吸って、これまで森が見せてきたどの光よりも強く、荒々しく輝き始めた。
それは彼女を縛る呪縛ではなく、暗闇を切り裂くための「道」となって伸びていく。
掌に残ったのは、花の残骸ではない。
それは、かつて彼からもらったプレゼントの一部、あの「スモーキークォーツ」の輝き…彼の願いが込められた石。
砕かれた花の跡からは、今まで存在しなかった「光の道」が、森の奥へと、そしてそのさらに先へと真っ直ぐに伸びていた。
それは、過去を葬ったことで彼女にだけ開かれた、ただ一つの出口だった。




