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2・灰色の植物

森の奥へ進むほど、音という概念が世界から剥落していった 。


地面はどこまでも滑らかで、見上げればガラスの葉が重なり合い、砕けた光が雪のように降り注いでいる。


カレンはその光の渦の中で、幾度も幾度も、喉が枯れるまでレンの名を呼んだ。

しかし、彼女の声は森の冷たい空気に吸い込まれ、代わりに返ってくるのは、言葉にならない感情が枝を伝わっていく「さざめき」だけだった。


ガラスの幹に人影を見た気がした。が、駆け寄ると、反射した光…自分自身の影…。

今また、何度目かの影を追い、何度目かの幻に裏切られた。

カレンの膝下は、いつの間にか完全な透明へと変わっていた。


「レン、どこにいるの……?お願い、消える前に……あと一度だけでいいから」


そう弱音を吐くも、その声も空気に触れた瞬間に涼やかな鈴の音へと姿を変え、森を彩る無機質なものへと成り下がり、誰にも届かない。

彼女の弱音も絶望も、この森は美しく書き換えてしまう。


森の静寂が彼女の精神を蝕んでいく。焦燥感と孤独が、透明になりかけた体に重くのしかかる。


出口も見つからず、愛する人の姿もない。このまま自分も、名前も持たない「感情の残響」として、この墓場のような森に覚えられて終わるのだろうか。


先ほどまで雪のように降り注いでいた光は、今は鋭く、冷たく、彼女を突き刺し始めていた。


彼女は滑らかな鏡の地面を這うようにして進む。


ああ、あの木の幹は先ほども見たものではなかっただろうか…。


カレンの膝下はすでに完全な透明へと形を変えている。

歩くたびに鳴る鈴のような音だけが、彼女がまだ「個」として存在していることを証明していたが、地面を蹴る感覚はすでに心許ない。


カレンはそんな自分の足を見つめ、言いようのない嫌悪に襲われた。

レンを忘れたくないと願う一方で、この森の静寂に安らぎを感じ始めている自分。彼を探す足が、一歩ごとにこの残酷な美しさに染まっていく。


まだ…私でいたいのに…レン…


その時だった。

入り組んだガラスの幹の隙間に、周囲の眩い透明感とは明らかに異なる、沈んだ「灰色」が目に飛び込んできた。

透き通っていながらもどこか質量を持った、不思議な植物…。


カレンは吸い寄せられるようにその植物に歩み寄る。

森の伝説が、風の音に混じって脳裏に蘇る。

「この植物は百年に一度だけ花を咲かせる。その花が咲くとき、誰かの心がひとつ、ここに残るのだ」と 。


ひんやりとした幹の中に閉じ込められた空気の層を見つめながら、ある考えが胸を衝く 。


「もし、この森が感情を吸い上げて形にする場所だとしたら」


レンはもう、肉体としての形を失ってしまったのかもしれない。この森の一部として、完全に透明になってしまったのかもしれない。

けれど、彼の「心」だけは、この灰色の植物の中に、消えない光として留まっているのではないか。


それは残酷な推測でありながら、同時に彼女を突き動かす唯一の希望となった。

もしその心――その花に触れることができたなら。たとえ彼がガラスになっていたとしても、魂の欠片に触れることができれば、壊れかけた自分自身を繋ぎ止めるよすがになるかもしれない 。

ならば……。


カレンは透けて消えかかった手で、冷たいガラスの幹を支えにしながら、灰色の蕾を探してさらに深く、森の核へと踏み込んでいった。


「レン……」


呟いたカレンの声は、森の音とほぼ同じ硬質なものになっていた。


森の密度が一段と増し、光が複雑な乱反射を繰り返すその中心。

すべての音が死に絶え、時間が凍りついたかのような空白の空間までたどり着いた時にには、意識が遠のきかけ、自分という存在がどんどん希釈されていた。

それでも、彼女の視界にはあの「灰色」が飛び込んできていた。


周囲の眩い透明を拒絶するようにして、静かに佇む一輪の植物。

それは透明でありながら、煙が凝固したような、あるいは深い悲しみを閉じ込めたような、鈍い灰色の色彩を湛え、彼女を待っていた。

百年に一度だけ咲くその花は、今まさに開花しようとしていた。


カレンが吸い寄せられるように歩み寄ると、その花びらの隙間から、銀色にも似た微かな光が溢れ出す。

その光に触れた瞬間、彼女の脳裏に、かつて何度も触れたレンの温度、彼の声、そして彼が最後に向けた穏やかな眼差しが、網膜を焼くほどの鮮烈さで蘇る。


「……あぁ、ここにいたのね」


その花は、希望そのものだった。けれど、同時にそれはあまりに残酷な真実を突きつけていた。

花が咲くとき、そこには誰かの心が残る。つまり、この花が咲いているという事は、レンの肉体はもう……。


蕾が完全に開き、森全体が共鳴するように低くさざめいた。

言葉にならない感情が枝から枝へ、波紋のように広がっていく。

それは名前のつかない思いの残響であり、彼女の胸を締め付ける喪失の歌だった 。


カレンの体は、すでに胸のあたりまでが背後の景色を映し出し、ガラスの幹と同じ冷たさを帯びている。

彼女は震える指先を、その灰色の花びらへと伸ばした。

暗闇の中で、一筋の光を追いかけるように。


もしこの花がレンの心ならば……。


「記憶より遠くから、君だけを見つめてる」


不意に、自分の内側からか、あるいは森のどこからか、そんな囁きが聞こえた気がした。

目の前の花は、彼女の絶望を映し出す鏡のように、ただ美しく、灰色の光を放ち続けている。




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