1・外へは出られない森
「レン…レンはきっとここにいる」
カレンの声は、冷たい空気に触れた瞬間に涼やかな鈴の音へと姿を変え、誰にも届くことなく霧散した。
半年間、探し続けてきた恋人の影。
「あの森に入れば、二度と外へは出られない」
という不吉な噂を知りながら、カレンは迷わず足を踏み入れた。
この森では、死んだ感情だけが永遠の輝きを許されている。
ガラスの森は、誰かの捨てきれない執着を糧にして、今日も音もなく透明な枝を伸ばし続けている。
その森は、遠くから見ると霧のようだった。 近づくにつれて、それが無数の透明な葉と枝だとわかる。
木々は音を立てずに揺れ、揺れるたび、ひかりが細かく砕けて空気に溶けた。
森の奥の一部は色が濃い部分がある気がするが、光の加減なのかもしれない。
カレンは一度足を止め、周囲を見回す。
光の粒がキラキラと目に入り、少し眩しい。
地面は鏡のように滑らかで、空を歩いているのか地面を歩いているのか、曖昧になる。
歩くたび、かすかな音が響く 。
それは、どこか遠くで薄い布が擦れ合い、金属の環が小さく鳴るような、生活の匂いのする音にも似ていた。
だが、今のカレンにとってその微かな違和感は、すぐに森の冷たい静寂の中へと霧散していった。
今は、この音を聴くたびに、焦燥が消え、代わりに奇妙な静寂が満ちていく。
葉の縁は薄く青く光り、幹の中には空気の層が閉じ込められていてひんやりする。
…だから森はいつも少しだけ冷たい。
そして様々な言葉が、枝から枝へ、名前のつかない感情の残響となって伝わっていくのを感じる。
透明な木の幹の奥に、何かわずかな水が流れた跡が見て取れる。見た瞬間に胸に何かが去来する…まるで誰かが流した涙が、鮮度を保ったままガラスの中に閉じ込められ、永久に乾くことを許されない剥製のようだった。
葉の一片には、気泡のような何かが固定されているのが見える。それは絶望のうめきが空気に触れる前に結晶化し、二度と誰の耳にも届くことはない…そんな思いが横切るが気のせいだ。
それらの「感情の跡」は森によって美しく静かに「記録」と「ピン止め」をされている…。
恋人を探し不吉な森を歩いている彼女の心はすでに現実の世界から半分剥離していた。
無意識に深く息を吸い込むと冷たい空気が肺にしみた。
カレンはふと、背後に言いようのない圧迫感を感じて振り返ったが、そこにはただ、延々と続く透明な樹木と鏡の地面が広がっているだけだった。
それは、あまりにも静謐で、冷酷な光景。
自分が通ってきたはずの空間に手を伸ばしても、見えない硬質な壁に指先が弾かれる。空気そのものが結晶化し、透明な盾となって「外」の世界を拒絶しているようだった。
「そんな……。嘘よ……」
焦燥に駆られ透明な大気を激しく叩くが、鈴のような澄んだ音が響くだけで、微動だにしない。
「その扉は外へは開かないから」
不意に、森のさざめきが歌のように彼女の意識に流れ込んできた。それは警告であり、残酷な事実の宣告でもあった。
風が吹いても、葉が擦れ合う音はしない。ただ、空間そのものが軋むような共鳴音だけが耳の奥に響く。
生物の気配が一切なく、腐敗も再生もない、ただ透明な永遠だけが続く光景は、どこか完成された地獄のようだった。
この森は、一度迷い込んだ者の「執着」を糧にして育つ場所…。
前へ進む道はある。けれど、来た道を引き返すことは許されない。
ふと足元に視線を落としたとき、彼女は息を呑んだ。
履き慣れたはずの靴の輪郭が、足首のあたりから淡く、霞のようにぼやけている。いや、それは単に消えていくのではない。足の指先から、皮膚、骨、血の通った温もりまでもが、足元の鏡のような地面と完全に同期し、透明な結晶へと質感を書き換えられているのだ。
かつて自分という人間を定義していた境界線が、静かに、しかし抗いようのない力で解けていく。
自分がこれまで積み上げてきた記憶、恥ずかしかった失敗、レンと共有した二人だけの秘密までもが、無理やり心から引き剥がされ、ガラスの葉脈へと吸い取られ、情報の断片として標本にされるような感覚だった。
しかし、それは恐ろしいというより、むしろ深い慈しみを伴う感覚だった。
自分が森を歩いているのではなく、森が自分という存在をゆっくりと咀嚼し、その奥底へ記憶し始めている。
細胞の一つひとつに刻まれたこれまでの人生が、冷たいガラスの葉脈へと転写され、静かなさざめきの中に吸収されていくのがわかる。
自分が呼吸するたび、森の枝葉がかすかに震えた。自分の鼓動が、地下を流れる冷たい水脈の音と重なっていく。
体温が奪われるのではなく、この少し冷たい空気と混じっていく。
「私は消えるんじゃない。この森に、覚えられていくんだ」
意識の端々が森の冷気と混ざり合い、彼女の存在は、名前のつかない感情の残響となって枝から枝へ伝わっていく。
森に記憶されるに従い、彼女の体は光を透過し、ついには光そのものへと溶け込んでしまいそうだった。
カレンの体は徐々に透明度を増し、膝のあたりまでが背後の景色を透過させていた。絶望感と孤独感が彼女を蝕むが、同時に彼女は不思議と安堵していた。
外へ戻る術を失った今、森の奥深くへ消えた恋人の影を追い続け、このまま透明になってしまえば、もう二度と喪失の痛みに耐える必要はないのだから。
…透明になった膝を見た時、一瞬だけ、ずっと以前にレンに指摘された「小さな小さな傷跡」も消えた事が胸をざわめかせた。
…たったの一瞬のことだった。




