第8話 黒塗りのセダン
大通りから外れた人気のない裏路地。
看板に電気が灯されなくなってから一体どれ程の年月が経っているのか―――。
路地に入ってしばらく進んだところに、人が寄りつかなくなり、景色と同化したような建物がひっそりと佇んでいた。
昔はさぞかし人で賑わったのだろうと思われる、キャバレーのなれの果て。
天井から配線が垂れ下がり、曇った窓ガラスの奥には、ホコリにまみれて荒れた中の様子が朧気にうかがえる。
そこから電柱二本程を数えた先に、件のセダンは停まっていた。
少し離れたここからでも分かる。黒塗りの車体には曇り一つない。
その近くに、シークレットサービスのような、黒サングラスに黒スーツの男が二人、周りを見張るように立っている。
「……裏取引の現場かよ」
一葉も同じように抱いた感想を口にしつつ、音弥が辺りの様子に眉間のシワを深くした。
「まあ、人に見られたいものでもないだろうからね。こっちは場所がどこになったって、モノだけ回収できれば何も問題ないけど」
「にしたって、物々し過ぎるだろ、これは。まかり間違って人死にが出たりしても、誰にも気付かれずに片付けられる状況ってことだぞ」
「人死にって……」
「ああ、大丈夫大丈夫、あの人はそういう人じゃないから。そんなことしたら表社会で生きていけないでしょ。大企業の会長なんて張ってられなくなるよ」
「大企業の会長は張るもんじゃねえだろ」
「うん? まあそうかな」
そんな会話を交わしつつ、キャバレーの前を通り過ぎたところで怜が一歩前に出た。自然、こちらは一歩引いたところで足を止める形になる。
セダンに近付いた怜は腰をかがめ、コンコンと窓を軽くノックした。その顔に浮かんでいるのは、爽やかな営業スマイルだ。
「どうも、花屋です」
怜が叩いたのは、運転席の方ではなく、スモッグがかけられた後部座席の方だった。そばに立つシークレットサービスには目もくれず、その窓にだけ笑顔を向ける。
少し間を置いて、ゆっくりと窓が下り始めた。
我知らず、ごくりと唾を呑み込んでしまう。見ているだけにも関わらず、緊張が喉に張り付いているようだ。呑み込んで初めて、そのことに気付く。
大企業の会長―――、怜は先程そう言ったが、周りの状況を考えると、それをそっくりそのまま受け取るのは正しいことではないような気がしていた。だが、離れたここからでは、窓の奥にいる人物の顔は影になっていてよく見えない。
「久しいな」
聞こえてきた声は、低く太い声だった。
「今回も仕事振りは見せてもらったよ。ご苦労だったな」
「いえいえ、これが我々の仕事ですから。会長が贈られた花は喜んでいただけたようでしたよ」
「そうか」
「ご友人も喜ばれているでしょうね」
「……はっ、友人か。わざわざそういう言い方をするところが好かんな」
「間違ってるとも思いませんけどね。彼女のお母様はただの知り合いなんかじゃないでしょう」
「―――周到なことだな。そこまで調べたか」
「それが仕事ですから」
中の人物はふん、と鼻を鳴らし、何かを窓の外に差し出した。
「そら、お望みのもんだ」
窓のサッシに乗せるように出されたそれは、分厚く膨れた大き目の茶色の封筒。ありがとうございます、と怜は受け取り、中を改める。その手がふいに止まった。
「―――ちょっと多いですね」
「取っておけ、礼だ」
笑顔のままの怜は、「いえ、」と言って首を傾ける。
「困りますねえ、こういうのは。我々の商売は信用第一。きっちりするところは、きっちりしておかないと」
そう言って、よいしょ、と封筒から中身を全て取り出す。
軽い動作で取り出されたものに、ひゅ……っと一葉の喉が鳴った。すかさず、ギラリと鋭い視線が寄せられる。サングラス越しであるにも関わらず、まざまざとそれを感じられたことがまた、さらに喉をしめた。
隣の音弥に小突かれ、引っ掛かったものを何とか飲み下す。
あれは一体、何の金だ。
実際に数えなくても、帯で括られたそれが百万の束であることは分かる。それが、全部で十束程。
つまり、一千万。
確かに安いものではないだろうが、あの花の対価としてはあまりにも高額過ぎる。それに。
あんなに束になった一万円札なんて、今まで普通に暮らしてきた一葉にとっては、ほとんど馴染みがなくかなり異質なものだ。それを平然と手にしている怜にも、どこかうすら寒さを感じる。
「こういうものは適正価格でいかないと。余分な金額はお返しします」
「相変わらず細かいなお前は。取っておけと言っているだろう」
「いえ、お気遣いは無用です。いらない恩を売られても困るだけですし」
言って、怜は束を二つ返す。
適正価格と言うが、それでも八百万だ。その金額が尋常でないことに変わりはない。だが怜は、戻した束を車の中の手が受け取ったのを見て「ご理解いただけたようで」と笑った。
「我々の商売は互いに持ちつ持たれつ。対等でいきましょうよ」
「はは、若造が。言うじゃないか。ただの花屋にしておくには勿体ない肝の座りようだな」
離れているのに、くつくつと喉で笑う声だけは聞こえる。怜はどこまで行っても涼しい顔だ。
「だが、そこが、俺がお前を気に入っている理由でもある」
「お褒めに預かり光栄です。―――ああ、そういえば」
思い出したように付け加えた怜が、何かを言う。だが、一葉の耳にはその内容は入ってこなかった。
それより、八百万という現実的な衝撃の方がデカい。それに、現物で百万の束が行ったり来たりするような状況がそうあるものとも思えない。
俺は一体どこに入ろうとしているんだ。
一葉はこの時初めてそう思った。
※
今回の報酬を目にして息を呑んだ新入りに、音弥はイライラと足で地面を叩いていた。
ガキが。なんだってお前みたいなやつがわざわざこっち側に足を突っ込むんだ。
そういうものに免疫のない素人を、わざわざこちら側に引き込む怜の気も知れない。
何考えてやがる、とイライラを吐き出すように舌打ちをした。
開店祝いの花―――。
たまに依頼を寄越す車の中の客は、花屋にとっては上客だ。内容も面倒だが、その分見返りは大きい。それが分かっているから、怜もあの客とは適度に距離を保ちつつ、今の関係を崩そうとはしない。
いかにも、な黒塗りのセダンの内と外で駆け引きのような応酬が繰り広げられるのを、音弥はただ黙って見ていた。
はたから聞いていると、きな臭い話をしているようだが、実際のところ本人たちにはそれを楽しんでいるフシがある。
そんな会話を楽しむなんて、頭のイカレた連中のすることだ。
正直、音弥自身はそう思っているが、それでもそんな花屋にいるのは、いるだけの理由があるからである。
お前にわざわざそうする理由はあるのか?
そう思って、黙ったままでいる隣の新入りを音弥は横目で見やった。
「―――おい」
新入りがこちらを向く。何を思っているか、分かるようで分からない目だ。
シークレットサービスの一人がこちらに顔を向けるが、何も言われることなく通過していく。
音弥は、顔を少し先の怜とセダンに向けたまま、「お前がどういうつもりでこっち側に来てんのか知らねえが、」と声を低めて続けた。
「本気でこっち側に来るつもりなら、ただちょっと覗いて帰る、じゃ済まねえぞ。ここは、夜道で背中を刺されてもおかしくない世界なんだ。引き返すなら今のうちだぜ」
花屋の仕事は、単に花を手配することではない。もっと裏側の、根本のところに関わる仕事だ。
花屋の仕事がなければ、そもそもさっきの「開店祝いの花」はこの世に存在すらしていない。
一瞬、間が空いた。
普通の神経をした人間なら、これでわざわざ関わろうと思うやつはいない。
だが、こちらに視線を寄越した新入りの顔は、意外にも揺れていなかった。
「―――逆に聞きますけど、音弥さんはどうしてここにいるんです?」
「ああ?」
「音弥さんの言うこっち側がどこのことなのかは分かりませんけど、こっち側でもあっち側でも、俺にとってはどっちでもいいんです。ただ食べていければ」
こいつ―――……。
「―――あいつもいけ好かねえやつだが、お前も相当だな。イカレてやがる」
言ったところで、
「話は終わりだ」
セダンの中の客が言葉を切り上げた。それを合図に、シークレットサービスが滑るような早さで車に乗り込む。
「出せ」
窓が上がり、セダンが動き出す。
「毎度ご贔屓に」
怜が離れていくセダンに向かって頭を下げる。
ようやく顔を上げて怜が音弥たちの方を振り返ったのは、ウザい程に黒光りする車体が完全に見えなくなってからだった。




