第6話 開店祝いの花
「邪魔なんだよ、どけ」
「すみません」
設置を手伝う後ろから、音弥が次のスタンド花を抱えてやってくる。地面に降ろされたスタンドが、ガシャンと鈍い音を立てた。
一葉を睨むようにしてから、音弥はまた花の元へ戻っていく。
「手伝わせちゃって悪いね」
スタンド花が運ばれるのをそばのガードにもたれて眺めていた怜が、大して悪くもなさそうに言った。
眺めるだけで手伝おうという気はないらしい。「力仕事は俺の専門外」と言って早々に離脱してから、怜はそこで悠々と缶コーヒーを飲んでいる。
そばの自販機で買ったらしい缶の飲み口からは、温かそうな湯気が立ち昇っている。
「いえ―――。それにしても、すごい量のお祝いですね」
「ああ、そうだね。客はうちのお得意さんでもあるんだけど、今回は随分気合が入ってるみたいだ」
「お得意さん?」
「そ、忘れた頃に依頼を入れてくれる上客―――なんだけど、毎回ちょっと厄介な依頼を寄越してくる人なんだよね。ああほら、あそこの」
目で通りの向こうを示しながら、「なんだかんだであの人とも付き合いが長いなあ」と怜はコーヒーを啜る。
通りの向こうを見やると、そこには一台の黒塗りのセダンが停まっていた。
セダンが停まっているのは全く違う店の前だ。言われなければ、ここと関係のある車だとは気付かない。
「オーナーの女性のお知り合いかどなたかですか?」
祝いの花をこれだけ贈るということは、ここの店主とは特別の仲なのだろう。そう思って聞いたことだったが、怜は不思議に笑っただけだった。
「ああ、それはね、合ってるようでちょっと違うかな」
よいしょ、ともたれていたガードから体を起こし、足を地面につける。缶コーヒーを持つのと反対の手は、薄い上着のポケットに入ったままだ。
「この「開店祝いの花」はね、ただ店のオープンを祝うためのものじゃないんだ」
「……? どういうことですか?」
「ここにある花は全部、彼女を「夢の実現へ導いた花」さ。勇気を与えたとか、そういう比喩的な意味じゃないよ。事実、この花が彼女の夢を叶えたんだ。まさに、自分の店を持つ、ていう夢をね」
何でもない顔で言われるが、意味が分からない。
新しくオープンしたからお祝いの花があるわけで、「開店祝いの花」というものは、間違ってもその事象の前に起こり得るものではない。なのに、花が夢を叶えた、とは。
「ここのオーナーはね、元々小さな会社で事務仕事をしてる人だったんだ。ずっと独り身で身寄りもない。たった一人いた母親は、彼女が二〇歳の頃に亡くなってる」
ぴくり、と耳が跳ねた。身寄りがない、というところに思わず反応してしまう。
「小さい頃から自分の店を持つことが夢だったらしい。自分が焼いたパンでたくさんの人を笑顔にしたい、とりわけ、女手一つで育ててくれた母親を喜ばせたい、その一念だったんだろうね。でも、それを果たす前に母親が亡くなった。通っていた製パンの専門学校を、首席で卒業した年のことだったそうだよ。夢に向かって歩み始めたところで、彼女はその道を失っちゃったんだね」
「なんで、そんなこと知ってるんですか?」
尋ねるが、怜は窓越しに目まぐるしく動くオーナーから一瞬一葉に視線を移しただけで、その質問に答えようとはしない。口元に軽い笑みを浮かべたまま話を続ける。
「今まで、いろんな職場を転々としたみたいだ。一般企業の事務や、飲食店の店員なんかをね。貯金なんてできなくて、日々の生活を送ることだけで精いっぱい。昔の夢なんてすっかり忘れてた頃のことだ。ここの前を通って、彼女は急にそのことを思い出す―――」
その日、彼女は数年勤めた職場をクビになった。理由は謂れのない難癖に近いもの。バカバカし過ぎて言い返す気にもなれない。分かりました、と出てきて、これからどうしようと考えていた。
そもそも、自分は何がやりたかった。
社会に出て働いてきた今までと、その前の自分を振り返った。そうして、かつての夢を思い出す。
「たまたまテナント募集中だったこの場所を見て蘇ったんだね。自分が元々、どんな人生を夢見ていたのか」
かつて思い描いていたような店舗が、テナントを募集している。それも、問い合わせてみると、テナント料も破格の金額だ。なけなしの貯金と、少しばかりの工面で何とかできそうな金額である。
さらに、問い合わせ先の不動産屋では、ちょうどこちらも起業したてのリフォーム会社が、リフォーム例として宣伝に使えるモニターを探していた。話を聞けば、モニターになればこちらも随分と低予算でリフォームをしてくれると言う。
「自分の店を持つためにはまず大きな壁になる「初期費用」という壁を、彼女はたまたま運よく飛び越えることができたんだ。状況が背中を後押ししたんだね。あとは、ここに来るまでトントン拍子だ。着実に準備をして、店を開ける形にできたのが三カ月前のこと。それからメニューを考えたり、店員を募集したりの下準備を整えて、今日やっと、彼女の夢が実現するところだ」
まるで、それをすべて見てきたかのような口ぶりだ。ただ花を納めるだけの花屋に、そんなことが分かるわけがない。そもそも知っている必要もないことだ。
「俺がそれを知ってるのはね、うちが「開店祝いの花」の依頼を受けたからだよ」
―――は?
知っている理由がそれと言われても、一葉にはどう取ればいいのか分からない。
「何ですかそれ。どういうことです?」
眉を寄せたところで、繁之の「終わったぞ」という声がかかった。
怜は、ポケットに突っ込んでいた手を「はいよ」とあげ、残っていたコーヒーを一気に煽る。自販機のそばのゴミ箱にその缶をガコンと捨てると、そのまま設置済みの花の方に行ってしまった。
話はまだ途中だった。
「こっち側に全部詰めると、ちと不格好だが、肝心のパンが外から見えなくなるよりはマシか」
「でも、これはちょっと、さすがにやり過ぎじゃない?」
並べ終えた店先から一歩引いて、それを眺めて言い合う。
ワゴン車から降ろされた「開店祝いの花」は、一〇台近く。しかも、どれもかなり豪勢なものだ。
そこまで大きな店というわけではなく、どちらかというとこじんまりとした印象の強い店に対して、その豪華さは不釣り合いという感じが否めない。
案の定、花は店先をはみ出して、通りのギリギリまでその大きな花を広げている。
「仕方ねえだろ。言われた予算だとこれくらいになっちまうんだよ」
「やり過ぎなのは、あっちのオッサンだろ。店のキャパ考えて注文しろっての」
「うわ、音弥、そんな風に言ってるの聞かれたらハチの巣にされちゃうよ」
言いつつ、怜が通りの向こうに視線をやる。
冬の陽を反射してまぶしく黒光りする一台のセダン。その中に乗っているらしい上客を指して言われた言葉のようだが、それにしてもハチの巣とは穏やかではない。
「開店まで、あと一時間ちょっとか」
店内の壁に配された時計を窓越しに確認した怜は、ふいに「―――あっと、こうしちゃいられない!」と声をあげた。
「オープンしたらゆっくり選んでる暇もなくなるからね。客が入る前に買っておこう」
そんなことができるのか分からないが、怜はそのまま中へ入っていってしまった。




