第2話 部外者
「―――花屋なのに、花が無い……?」
「ええ、ですが、ここは花屋です」
思わずついた呟きに、老人が振り返ってにっこりと微笑む。
花屋、と言うからには当然「花」を売っている場所だと思っていた。
だが、ここはどこをどう見てもただの事務所だ。それも、どこかの安っぽい探偵事務所のような。
なのに、老人はここを花屋だと言う。それはつまり。
ここは、普通の花屋じゃない、ということか。
「どうぞ、こちらにおかけになってお待ちください」
「―――ありがとうございます」
壁付けにされたソファを示して言われた言葉に、一葉は小さく首だけを下げた。
安っぽい事務所に似合わない、どっしりとした黒革張りのソファだ。
場所といい、この建物といい、全体像は安っぽい印象なのに、表の門松やこのソファなど、ディテールが微妙に不釣り合いな場所だ。お金のかけ方が変わっている。
そんな感想を抱きつつ腰を下ろすと、ソファは思いのほか深く体を呑み込んだ。見た目以上にソフトな座り心地らしい。少しばかり腰を浮かせて座り直す。ダウンジャケットは、なんとなく着たままだ。
老人は奥のパーテーションの向こうに消えると、淹れたばかりのお茶を乗せたトレーを手に戻ってきた。
「ちょうど、皆さん出払ってまして。今は私一人なんです。こちら、熱いのでお気をつけて」
「ああ、どうも」
丁寧に対されることに、あまり慣れていない。わざわざ膝を折ってお茶と茶菓子を出してくれる老人に、戸惑いつつ礼を言う。
そういえば、あの氷月怜という人――――ここの社長らしいが―――が、自分を入れて四人でやっていると言っていた。とすると、この老人を含めて、あと二人、この花屋には人員がいるということになるのか。
「それでは、私はこちらにおりますので、何か御用があればお申し付けください」
老人は微笑んで、腰を上げた。そのまま、不要なものの整理だろうか、元々していたのだろう作業に戻る。それを横目に見送って、一葉はそっと息をついた。
しんと静まり返った室内には、低く唸る暖房の音と、どこかで換気扇でも回っているのか、ファンの回る音が微かに響いている。その他は、時折老人の立てる作業の音が入るくらいで、あとは至って静かだ。
「手に取って見ていただいて構いませんよ」
はっと振り向くと、老人が顔をあげてこちらを見ていた。
「扱っている案件をまとめたものなんです」
言って、今しがた一葉が見ていたのと同じところに視線を向ける。
分厚いファイルがいくつも詰まった棚だ。ファイルの大きさはまちまちで、背表紙に名前が入っているものもあれば、無いものもある。
「乱雑でしょう。手の空いた時に整理しているところなんですが、どうにも追いつかず。ここにあるのはほんの一部で、収まりきらない小さなものも、まだまだたくさんあります」
「でも、こういうものは部外者が見ていいものじゃないですよね」
「ええ、それはそうでしょうね」
「それなら―――」
言いかけて、一葉はそこで言葉を止めた。
老人は相変わらずにこにこと穏やかな笑顔を浮かべている。
部外者なら。
それは、一葉がそうではない、と判じているということだろうか。
だが、自分がここに来た理由を、老人に説明した覚えはない。そもそも、あの氷月怜という人にだって、一葉は何も返事をしていないのだ。
そう、少しばかり怪訝に眉根を寄せたところで、
「ああ、戻ったようですね」
ふいに扉の外が賑やかになり、紐で本を括っていた老人が立ち上がった。そのまま、老人は入口に足を向ける。
だが、老人が真鍮のドアノブに手をかけるよりも前に、摺りガラスの向こうに立った影が外から先に扉を開けた。
「……ったく、こんなちまちましたことやってて意味あんのかよ」
「チラシ見て電話したってお客サマもいるでしょ」
「それがひと月に何人いると思ってんだよ。三人いればいい方じゃねえか。まだ正月も明けてねえってのに、無駄なことさせんなっての」
「うるさいわね、あんた突っ立ってただけで何もしてないでしょうが」
言いながら入ってきたのは、若い男と女性の二人だ。若い、と言っても、一葉よりは当然年上で、ともに二〇代前半に見える。
男の方は金髪に近い色に髪を染め、左右の耳にはいくつもピアスが空いている。真冬なのに膝の見えるジーンズを引きずる姿は、目つきが鋭いせいもあって、全体的にひどくガラが悪い。
女性の方はすらりとしたパンツルックで、目にも鮮やかな赤いコートが眩しい。それ程ヒールがあるようには見えないのに、歩くたびに靴がカツカツと小気味いい音を立てるのが不思議だ。
多分、この二人が、残りの二人だろう。
これが、あの人の言う「花屋」のメンバーか。
男と女性と、そして老人。
街中でそれぞれを見かければ、恐らくこの三人に関係性があると答えられる人間は誰もいないに違いない。見た目も年齢も雰囲気も、まるで異なる組み合わせだ。
彼らを見ただけでは、ここが何をしているところなのか、まったく見当もつかない。
「なに、お客サマ?」
手にしていたものをローテーブルに下ろしながら、こちらを一瞥した女性が老人に尋ねた。下ろしたのは、何かのチラシの束のようだ。
「ええ、社長を訪ねていらしたようです」
「ふーん」
女性は気の無い返事をすると、一葉に再び視線を戻すことも無く、そのまま離れていく。どうも、と首を下げる暇すら無い。
男の方に至っては、こちらを見ることさえしなかった。女性と同じようにチラシの束をローテーブルに放り出すと、「はあ、やってらんねえ」と吐きながら、デスクのイスにどっかりと腰かける。
一葉の存在に気付いてもいないのではないか、と真剣に思えてしまう程だ。
どこか、自分一人だけがボタンを掛け違えているような、妙な気分だ。
そう感じることさえおかしいのかと思える程、彼らは一葉に「無関心」だった。




