第1話 その場所
驚台という街は、どこにでもある普通の街だ。
駅前には大型商業施設やレジャー施設がそこそこに揃い、週末になれば家族連れやカップルなど、それなりの人出で賑わう。
駅を離れれば、驚台の大部分は住宅街になっているが、広がっているのは「洗練された都会的な街並み」というようなものではなく、こじんまりとしたアパートや一軒家が延々と続く、昔ながらの街並みだ。
ただ、他と一つ違う点があるとすれば、それは、古い時代の遺物が手を付けられないまま残されているという点にある。
女子中高生が集まる人気のカフェやショップが並ぶ一方で、一本路地を入れば、何に使われていたのかも分からないような廃れたビルがそのまま残されている、ということも珍しくない。
近年になって盛んに推し進められてきた都市開発化の網から逃れ出たものか、はたまた、誰かの手によって意図的に残されているものか―――、そんな路地裏に漂っているのは、電柱の影で怪しい取引が行われていてもおかしくないような、薄暗い雰囲気だ。
どこにでもある普通の街、だが、どこか歪な気配を残した場所―――、それが、驚台という街である。
年が明けて数日。
―――と言っても、世間的にはまだまだ正月という頃。大型商業施設が集まる駅前も、例に漏れず正月休みの家族連れやカップルで大いに賑わっている。
その駅前の踏切で足を止めて、一葉はダウンジャケットから名刺を取り出した。
花屋 氷月怜―――。
それを裏返して、そこに手書きされた住所をもう一度確認する。
少し右上がりの整った字だ。その下に、適当な線だけが大雑把に引かれた絵図がある。
三つ程組んだ十字の一角を黒く塗りつぶし、「ココ!」と書かれたそれは、大人が書いたとは思えない、子どもの落書きのような図だ。
―――ああ、それね、分かりやすいように書いておいたから。
住所ではなく、絵図の方を示して笑った男を思い出し、一葉は短く息をついた。
変わった人だと思う。それも、かなり。
社会経験のほとんど無い高卒の未成年者。
それが、この社会から見た自分の姿である。
そんな自分に、たまたまそこに居合わせたというだけで声をかけてきたあの人は、変わり者以外の何者でもないだろう。
あの夜持ちかけられた「提案」にしても、正直懐疑的な部分が無いではない。
しかし、そうは思うが、とはいえ―――。
一般的な大卒者に比べて、自分のような身分の人間が安定した職を見つけるのは難しい。職探しをしている間に、瞬く間に生活が立ち行かなくなるのが実情なのだ。
だから、向こうから勝手に転がってきた話を断る理由は、どこにも無い。
電車の通過を告げる警報がやみ、遮断機がゆっくりと上がり始める。ぐらぐらと動きの覚束ないバーが完全に上がり切るのを待ってから、一葉は目指すべき反対側へと歩き始めた。
この街に住み始めて、もうすぐ一年になる。そう詳しいわけではないが、住所が示している辺りの雰囲気についてはなんとなく知っていた。
人で賑わう駅前でも、一本路地を入れば陰鬱な空気に包まれた場所が広がっている、というのが驚台という街の特徴だ。怪しい営業をしている店が網の目をすり抜けるように存在していたとして、何もおかしくはない。
事実、そういう店が点在するエリアは確かにあるのだ。
氷月怜という人物から受け取った名刺に書かれていた住所は、まさにそういう一帯に片足を突っ込んだような場所にあった。
「申し訳ありません。社長は只今不在にしておりまして―――」
周りも同じようなビルに囲まれた中の、ひと際古びた雑居ビル。
その最上階に位置する四階のドアを開けて、出てきた老人が申し訳なさそうに言った。
「社長とはお約束か何かで?」
「いえ、特にそういうわけでは……」
その気になったらいつでもおいで、とは言われたが、約束しているかと言われると、それは怪しい。
老人が押さえているのは、摺りガラスに『花屋』と書かれただけのドアだ。外にも内にも真鍮のドアノブがついており、ガラスの曇り具合と相まって、どことなく錆びついた印象を受ける。
こんなところで花屋なんてやって、客は来るんだろうか―――と、一〇〇人いたら恐らく一〇〇人全員が同じ感想を抱くだろう店構えだ。
あの人「社長」だったのか……、と思いながら答えた一葉は、どうするかな、と気持ち少しだけ後ろに下がった。
花屋の入口脇には大きな門松が置かれており、下がった視界にそれが入る。
置かれているのは、かなり豪勢な門松だ。見るところで見れば立派なものだろうが、こんな場所で見れば、それもただの悪趣味な異物にしか思えない。
ビルの廊下には塗装が剥がれかけた亀裂が幾筋も走り、所々に設けられた窓には、いつから積もっているのかも分からないホコリがこびりついている。
「中でお待ちになりますか?」
「ああ、ええと、そうですね……。社長―――さんは、いつ頃お戻りに?」
社長、というワードに口が慣れていない。とりあえず敬称のようなものをつけておいてから、違ったか、と軽く後悔する。
老人はそんなことなど気にした風もなく、「そうですねえ……、」と後ろを振り返った。その先に時計があるのだろう。
「自由な方ですから何とも言えませんが、昼までにはならないかとは思いますよ」
「そうですか……」
老人はそのまま、にこにことこちらの返事を待っている。
丸眼鏡の奥に穏やかな瞳が笑う、好々爺然とした老人だ。顔に刻まれた皺の割に恰幅がよく、見た目から年齢は読み取れない。だが、人が良さそうなことだけはうかがえる。
「あの、それじゃあ、邪魔じゃなければ待たせてもらってもいいですか?」
「ええ、それはもちろん。大丈夫ですよ」
にっこりと微笑んで、老人が後ろに下がる。半開きだった花屋のドアを全開にし、「どうぞ」と中に招き入れてくれた。
中は、さして広くはないつくりだ。
入って左側には棚の列が並び、何が綴じられているのか、分厚いファイルがいくつも詰まっている。右側は応接スペースのようになっていて、黒革張りのソファと白いクロスのかけられたローテーブルが置かれていた。
応接スペースの向こうにはグレーのデスクが並んでおり、左奥はパーテーションで区切られたエリアになっているようだ。その衝立の向こうがどうなっているのかは、入口のここからでは分からない。
一番奥、入口から見るとつきあたりの正面は、大きな四枚張りの窓になっており、中央の二枚には、外から見てそう読めるように、窓ガラス一枚ずつの全面を使って『花』『屋』とデカデカと書かれていた。
中に入って数歩、一葉の足はすぐに止まった。
ぐるりと見まわして、思わず呟く。
「―――花屋なのに、花が無い……?」
そう名乗るからには、それがあるのが当たり前で、むしろ、それがあるからこそそう名乗れるとも言えるものだろう。
その肝心の「花」が、この場所には無かった。
驚台という場所は架空の街ですが、ちょこっとだけ東京の自由が丘をイメージしています。
オシャレなお店も多いですが、庶民的な下町感もあって、その真逆の混在感が好きです。




