第9話 花屋の仕事
「これが、花屋の仕事だ」
表の通りに停めた車に戻りながらの言葉だ。
昨夜、この辺りで騒いだ酔っ払いがいたのかもしれない。怜は大金の入った茶封筒を脇に抱えたまま、側溝に入りそこねた吐瀉物をよっ、と飛び越えた。それに、音弥があからさまに顔をしかめる。
「うちは、花を持たない花屋だ。でも、売ってるのが「花」であることに変わりはない。うちが扱ってるのは、「用途の花」だよ」
「用途の花?」
「そう、用途。つまり、使い道だね。うちの仕事は、その使い道に合わせた花を手配することで、言い方を変えれば、依頼のあった花が「この世に存在できるような状況をつくる」ことにある。一葉くん、うちのチラシ見たことあるかな?」
「チラシですか?」
言われて、少し前に見た、実態とそぐわないポップな色合いが蘇った。チラシといえば、あれのことか。
「願いを叶える花屋―――」
呟くと、「ああ、それそれ」と怜は笑った。
「なかなかいいキャッチコピーでしょ。一回見たら忘れられないものがいいと思って、結構考えたんだよね」
「確かに忘れられませんけど、でも、意味は分からないです」
一葉が思ったところを言うと、「はは、正直でいいね」という明るい返事が返ってきた。怜は、脇に抱えた茶封筒を反対側に持ち替える。
「まずはそうやって疑問を持ってもらうことが大事なんだ。意識の端にでも引っ掛かれば、その後興味を持ってもらえるきっかけになる。願いを叶える、しかも花屋が、だ。どんな花屋だよ、て普通なるでしょ」
「そういうもんですか」
首を傾げるが、確かにその通りかもしれない。
「興味を持ってもらえればこっちのもんだ。うちの仕事は、意外とどんな依頼にも応用できる。「花」は人々の生活に結びついてるからね」
歩く通りの両側には、小さなスナックが軒を連ねている。店先の看板に灯が点る時間はまだまだ先だ。ぴったりと閉ざされた店の周りには、人の気配は無い。
代わりに、物陰から飛び出てきた猫が、たまたま通りがかったこちらの足に驚いて、元いた壁の影に隠れるのが見えた。怜はその猫をちらと見やっただけで、何も無かったように軽快な足取りのまま歩き続ける。音弥にいたっては、気付いているのかも分からない。
「花が人の生活に結びついているというのは分からなくもないです。実際、花を目にする機会は意外に多い。自分で買いに行ったりしなくても、どこかの店先や、建物の入口なんかで見かけることはよくあるし、季節的な行事や節目のイベントなんかで花が必要になる場面もわりとある。でも、それが願いを叶えるということにどう繋がるのか、それが分かりません」
一葉が口にした疑問に、うーん、と茶封筒を脇に挟んだまま怜が腕を組む。「どう言ったら分かりやすいかなあ……」と続いたあとで、
「簡単なところで言えば「お祝い」かな。例えばさっきの「開店祝いの花」。花に与えられた用途は「開店祝い」だ。そもそも開店する店が無ければ成立しない使い道だよね。うちの仕事は、花が必要とされるそういう「状況」を前もってつくることにある。扱ってるのが「用途の花」っていうのは、そういう意味だよ」
怜はそのまま先程の案件について説明する。
「あのパン屋のオーナーの身の上を一から調べたのも、そのためだ。依頼されたのは「開店祝いの花」だからね。彼女に店を開く気になってもらわなきゃ、まず始まらない」
調べて、そこから糸口を見つけ、店を開くという事象を実現させるために裏で画策したのが、今回の花屋の実質的な仕事だった、と怜は話した。
「実際のところ、こんな人気エリアの店舗がたまたま前を通った時にテナント募集の張り紙をしてるなんてことあり得ないし、そんな人気エリアに、なけなしの貯金と少しばかりの工面で何とかできそうな金額で出店できるわけがない。どちらも、うちが裏で画策した結果だ。あそうだ、リフォーム業者の話もね。モニター募集なんて、話をそういうことにしただけで、最初からうちがリフォーム会社に「発注」をかけてた状態だっただけなんだ」
あくまで軽い口調だが、それはどれも、先程怜から聞いたオーナーが店を開くまでの道筋だ。そして、そのままの流れで、「言っちゃえば、彼女が前の職場を急にクビになったってところから花屋が一枚噛んでる」と、怜は何でもない顔で暴露した。
要するに、あのオーナーが職を失うところから既に始まっていたということだ。どうやってそれをやったのか、ただ話を聞いているだけのこの場では、そこまでは出てこない。
「そのままでは叶えられない花を手配すること。願いを叶えるっていうのは、そういう意味だよ。どう? 分かってくれたかな?」
路地から表の通りに出ると、一気に人の気配が増した。降り注ぐ陽の量が違うのかと思う程、辺りの色が一段明るくなったようにも感じる。
思わず、目が眩んだ。道行く人の中に初詣客の姿を認め、そうだ今はまだ正月だった、と当たり前のことを思い出す。
振り返って笑う怜に、一葉は目を細めた。
世の中には、とんでもないことを考える人がいるものだ。
依頼を受ける花は「用途の花」。願いを叶える花屋、か。
―――しかし、そんなもの、現実的に考えて本当に成立するのだろうか。
それを言うと、「そうだね。でも、成立するからうちがある」という極めて自明の心理のような答えが返ってきた。
「客は―――まあ、さっきみたいな人もいるけど―――、皆が皆、あんな振り切った人ばかりじゃないよ。ほとんどが普通の人だ。依頼も「植木鉢に植える花」とか、そういう庶民的なものがほとんどで、実際の仕事も、割れた植木鉢を修理するくらいで応えられるような、簡単なものがほとんどだ」
それを聞いて、今日花屋に現れた怜が抱えていた、割れた植木鉢を思い出す。
そういえば、受け取った万年青が「こちらは植木の依頼ですか」と言っていた。考えてみれば、割れた植木鉢に対して「植木の依頼」というのもおかしな話だ。あれはつまり、そういうことだったのだろう。しかし、それは。
「要するに、便利屋みたいなもの、てことですか?」
用途の花、と言ってはいるが、そう表現した方が分かりやすい。やっていることはつまり、実質そういうことじゃないか。
至極単純な言葉にまとめた一葉を、しかし怜は穏やかながらもはっきりとした口調で否定した。
「それは違うよ。うちはあくまでも花屋だ。花のために必要なことをしてるだけで、その過程、つまり状況をつくること自体を依頼として受けてるわけじゃない。依頼の主体は花であって、その過程はただのオマケだよ」
無事にオープンを迎えたパン屋の前を離れて、車は近くの駐車場に停めてあった。
駐車場を囲うフェンスが見える中に、いつの間にか大きく西に傾き始めた冬の陽が眩しい光を放っている。その中を歩く怜の背は、逆光で影になっていて暗い。だが、右手にある茶封筒ははっきり見える。
半分に折り畳まれた封筒は、見た目にもよれてくたびれている。中身が何かを考えればとんでもなくぞんざいな扱い方だ。何も知らなければ、そこに大金が入っているなど誰も思いもしないだろう。
音弥も、そんな怜の様子を気にしている風はない。大金がそう扱われることが、花屋では多分普通のことなのだ。
「それじゃあ、帰るか」
持っていた封筒をひょいと左手に移し、空いた右手でガサゴソと上着のポケットを探る。
「あったあった」
キーをくるりと回して車に向けた怜は、そこでふと動きを止めた。
「ああ、その前に銀行に寄らなきゃな」
「銀行?」
「こんな大金を持ち歩いてるなんて、いくらなんでも危ないでしょ。このご時世、いつ何どき、何が起きるか分かんないんだから」
大金、と言ってはいるが、その軽い様子に、中身の重さは全く感じられない。
堅実的な言葉がこれ程似合わない状況があるのか、と感心でも納得でもなく、一葉はその時何とも言えない心境になった。




