プロローグ
ちゃりん―――、
夜も更け、時刻は日付が変わろうかという頃。
等間隔、とは言えない程にまばらに配された電柱の街灯だけが、濡れて暗い路地裏を弱く照らしている。
夕方から重たい色をしていた空は、この時間になってついに堪え切れなくなったらしい。ぽつ、ぽつ、と冷たく頬にあたるそれを半ばうっとおしく思いながら、由良一葉はダウンジャケットのフードを目深に被り直した。
急げば本降りになるまでに安アパートに帰れる。下手してずぶ濡れになったりしたら、あとが面倒だ。
自然と、足の方も速度が上がる。そこに。
ちゃりん、と小銭が落ちる音が聞こえた。
暗い中をそのまま転がってきた小銭は、弧を描いて数歩先の濡れたアスファルトの上にぱたりと倒れる。一〇円玉だ。
「おっと、ごめんね」
言いながらかけ寄ってきたのは一人の男だ。片手は上着のポケットに突っ込んだまま、もう片方の手で謝るような仕草をしつつこちらにかけ寄ってくる。
すぐそばには自販機があり、一番近くの街灯よりも遥かに白い光を放っていた。
軽く腰を曲げ、数歩先の一〇円玉に手を伸ばす。男が拾うより、その方が数段早い。
転がってきた一〇円玉を拾い上げ、一葉は体を起こした。
濡れた一〇円玉は、地面の冷たさを映したようにきんと冷えている。
「悪いね」
「いえ」
互いに吐く息は白い。差し出した手も同じように冷えている。
一二月三一日、大晦日―――。
あと三〇分もすれば年が変わるという夜だ。冷え込みも格別である。
底抜けの闇から降り出したものには、僅かに白いものが混じり始めていた。
「ああ、降ってきたね」
受け取った形のまま手を止めた男が、夜を見上げて呟いた。
そうですね、と思わずそれに返してしまったのは、男の呟きがこちらに投げかけられたもののように感じたからだ。だが、それはもしかしたら気のせいで、単なる独り言だったのかもしれない。
底抜けの闇からこちらに戻った相手の瞳が、人懐っこい笑みに変わる。
「やむまで、ちょっと入っていったら?」
男は言うと、手招きするように自販機のそばに戻っていく。
そこは何かの店の軒先のような場所で、そばにはくたびれた灰皿が置かれていた。足元に転がった空き缶には吸い殻が突っ込まれたものもあり、水を含んだ残骸がバラけて散っている。
どうやらこの場所は、簡易的な喫煙所になっているようだ。
「便利だよね、冷える夜にあったかいものが飲みたいと思ったら、こうしてすぐに飲める状況にあるんだから」
自販機に向かった男がピッとボタンを押すと、ガコンと落ちる音が続いた。最後に投入されたのは、一葉が先程拾った一〇円玉だ。
「あれ、入らない?」
男が振り返って言う。
既に足を止めてしまった以上、このまま通り過ぎるのもなんとなく座りが悪い。一葉は「それじゃあ―――」と首だけ軽く下げて軒下に入った。
「年越しに雪なんて風情があるよね。どおりで冷えるわけだ。ねえ?」
取り出し口から缶コーヒーを取り上げながら、男がこちらを向く。その、自販機の薄明かりに照らされた顔に、見覚えがあった。
フードを脱ぎ、ダウンジャケットに残った水滴を適当に払い落としながら、「――霙です」と一葉は答えていた。
「え?」
「雪じゃなくて、多分霙です。こんな風に、雨みたいに重い感じで降ってくるのは」
話す声が平坦なものになったのは、別にわざとではない。
気象表現的には、霙も雪と同じものとして分類されるらしい。が、雪と雨が混ざってできた霙はあくまで霙であって、真っ白な雪とは別のものだ。少なくとも、一葉はそう思っている。
「あ、そうなの? これ、雪じゃないんだ」
霙かあ。男はそう呟いて、落ちてくるそれを追うように身を屈めた。そのまましばらく、地面に落ちては消えていく霙を眺める。思わず、声をかけていた。
「―――何か、用ですか」
「うん?」
背を向けたまま、男が答える。
「何か用って、なんで?」
そりゃ、何も思わない方がおかしいでしょう、この状況で。
先程、一葉は仕事をクビになったばかりだった。働いていた居酒屋で、酔った客にとんでもない難癖をつけられ、そのままの流れでクビになってしまったのだ。
その騒動の中で、目の前の男も客としてそこにいたのを覚えている。
一葉が次の言葉を言う前に、「―――はは、なんてね」と先に口を開いたのは相手の方だった。しゃがんでいた腰を上げて、男が振り返る。
「そりゃあ、変に思わない方がおかしいか。何て言ったって、さっきの今だもんね」
男は、「実は、」と言いながら軽く首を傾ける。
「仕事を失ったばかりの君に、ちょっとした提案があってね」
「提案?」
一葉は片眉を寄せた。決して低いわけではない一葉の、そのさらに少し上から視線を注ぐ顔には、不思議な笑みが浮かべられている。
男は懐から一枚の紙片を取り出すと、こちらに差し出してきた。
「よかったら、うちに来ない?」
間近に突き出されたそれを、ほぼ条件反射的に受け取ってしまって、見下ろす。
花屋 氷月怜―――
印字された面には、ただそれだけが書かれていた。差し出されたのは、名刺だ。
「うち、駅前で花屋をやっててね。俺を入れて四人でやってる小さなとこなんだけど、まあ、君さえよければ」
外はつとつとと霙が降るばかりで、薄暗い通りには人の気配は無い。その分、話す男の声がやけに際立つ。
「年明けも休みなくやってるから、もしその気になったらいつでもおいで。うちはいつでもウエルカムだから」
男が笑みの形で言う。それを照らすのは、横で小さく唸り声を上げる自販機だけだ。
ふいに、向こうの大通りの方で歓声が上がるのが聞こえた。どうやら、男と話している間に日が変わり、年が明けたらしい。
毎年のことだが、針が一つ先に進むだけの変化をよくこれだけ騒げるな、と不思議に思わずにはいられない。
「あ、やんじゃったね」
男はそんなことなど全く気にしていないように、再び上着のポケットに手を突っ込み、軒の外に首だけを伸ばして暗い空を見上げている。
「雪の降りは儚いなあ。あ、霙か」
ね、と言われて、はあ、と返す。
街灯の明かりも頼りなく、死んだように静かな暗い路地裏。
この年、明けて最初に一葉が誰かと交わした会話は、そんなものになった。




