『君はクビだ』と言われた翌朝、国外ファンド社長になった幼なじみが取締役会ごとひっくり返した」
品川駅のコンコースを埋める人波を縫い、桜井結衣はいつものようにイヤホンを耳へ押し当てた。
「朝ご飯、ちゃんと食べた?」――わずかな遅延の向こうで、幼なじみの橘陸が笑う。
「リクこそ深夜でしょ」「結衣の声、カフェインより効くから」
そんな他愛ない会話こそ、平凡な経理OLの背中を押すエネルギーだった。今日も、昨日までと同じはずだった。
だが夕方――部長に呼び出された結衣は会議室で怒号を浴びる。為替レートを改竄した“最終確認済み”データが彼女のIDで登録され、四億円もの誤送金が確定したという。
「いいわけは聞かん。お前のミスで会社が吹き飛ぶ。君はクビだ」
書面を突きつけられ、同僚たちは目を伏せるか嘲笑を浮かべるだけ。結衣は声すら出なかった。帰り道、スマホは震えていたが、惨めな声をリクに聞かせたくなくて着信を切った。
眠れぬまま迎えた翌朝――受付フロアに黒塗りの車列が連なり、重役たちが慌ただしく整列していた。降り立ったのはダークスーツの橘陸。
「橘陸様を役員会議室へ!」
秘書の声に押し出される形で結衣も同席させられる。スクリーンに投影されたのは誤送金ログ。陸は流暢な英語で海外銀行と通話しながら、改竄されたタイムスタンプとVPN接続の位置情報を指摘した。
「結衣の端末は遠隔操作されていた。仕込んだのは御社システム管理責任者。証拠はこちらに」
顔面蒼白の先輩社員が震え出す。陸はプレゼン用リモコンを置き、重役席へ視線を向けた。
「当社――ヴァイオリン・パシフィック・ファンドはタチバナ・グループから独立した海外投資ファンドです。御社の海外事業に三十億円を投じる意向があります。ただし条件があります」
緊張で湿った空気が揺れる。
「不正に関与した役員と社員の解任、および結衣さんの即時復職。そして、社内ガバナンスの全面刷新。それが飲めないなら投資は撤回し、誤送金も然るべき法的手段で回収します」
取締役会は沈黙。やがて議長が椅子を鳴らして立ち上がり、「提案を受け入れます」と宣言した。決議はあっさり可決。昨日まで結衣を責めていた顔ぶれが、今や彼女へ深々と頭を下げる。
役員フロアを出ると、結衣は呆然と立ち尽くした。
「リク……国外ファンドの“社長”って」
「正式にはCEOだけど、肩書はどうでもいい。君を守る手札が欲しかっただけだ」
陸は胸ポケットからベルベットの小箱を取り出す。桜色の光がビル風に揺れる。
「高校の卒業式で告白するはずだった。でも家は“名家の令嬢以外は認めない”って。だから海外でMBAを取って、赤字子会社を黒字化して、ファンドを独立させて……当主たちを黙らせた。全部、今日のためだった」
ケースの蓋が開き、指輪が夕陽を映す。
「もう誰にも否定させない。――結衣、結婚しよう」
溢れた涙を袖でぬぐい、結衣は震える指で指輪を受け取った。
「はい。昨日クビって言われたけど、今日は一番欲しい肩書きをもらえたよ」
陸が笑い、そっと額に口づける。
数か月後、〈ミライトレード〉はヴァイオリン・パシフィックの資本参加で海外展開を加速し、結衣はガバナンス改革チームのリーダーに就任した。夜のオフィスを出ると、迎えの車から降りた陸が手を差し出す。
「今日も頑張ったね。これからは苦労も成功も、等分にシェアしよう」
結衣は指輪を掲げて頷く。東京の夜景に、二つの影が並び、重なり合って延びていった。
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