妃ではない私が、国王を断罪する ――その夜、すべてが始まった――
文章が重いので、少々読みにくいかもしれません。
「陛下、王妃陛下の……」
「あの女の事は必要ない」
夫婦だというのに、酷い言い様ね。
――どれほどのものか予め聞いてはいたけれど、想像以上だわ。
ご本人が直接顔を合わしたくない、という気持ちがよくわかる。「すまないわね、エメリーン」と謝られたけれど、横暴な夫相手では仕方がない。王妃陛下は私みたいな下級貴族の娘であっても、丁寧に接してくれる。
今日だって、本当に申し訳なさそうに、謝罪とともに送り出されたのだ。同僚たちも同様。だけど何人も連れ立って面会を申し込めば、姦しいと必要以上に不興を買うかもしれないからと、付き添いを断ったて単身乗り込んだ。
夕食後と就寝までの間は、国王の執務室を訪れる者がおらず人が少なくなるらしい。
だから入室しやすいだろう、と助言を得ていた。確かに人が多い時間帯であれば、執務室に足を踏み入れられなかっただろう。
夜の帳が下りた後の王宮は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
形ばかりの夫婦であっても、この国の国王夫妻ほど冷え切っているのは珍しい。私的な交流どころか公的な夫婦同伴が必要になる場面ですら、国王陛下は王妃を伴わないのだから。
――さぞやご苦労なさっただろう。
侍女という立場では、主人である王妃陛下の心労を減らすこともできなかった。
「国王陛下の手でなくては駄目な用件なのです」
主従のやりとりを傍から見ているだけでは埒が明かない。
私は控えていた扉のすぐ近くから歩み寄ると、執務机の上に一枚の書類を置いた。
王宮勤めの女たちが色めきたつほどの顔に用はない。見目が麗しくとも、中身までそうとは限らないと知った今、興味の欠片さえも湧かないのだ。
「署名をいただければ、直ぐにでも御前を辞します」
目を通していた書類の一番上に、持ってきた紙を置いた。
見えなかったなんて言えないように。
国王陛下は時間が止まったのでは、と思うほど見事に固まった。固まりながら強烈な殺気を全身から噴き出す。一瞬で変わった空気に室内の誰もが動けない。もちろん私も。
居心地の悪さを感じるけれど、身じろぎ一つできないほどの緊張感があった。
国王の醸し出す空気が夫婦の関係性を如実に表している。
「――これは?」
ものすごく低い声だった。地獄の底から這い出すような、怒りの混じった声。
「離縁の合意書にございます」
そんなものは見ればわかると言いそうな形相に変わった。
何せ最初の一行目に書かれているのだから。どういう意図をもって、と言いたいのはわかり切っている。だからと言って思考を読んで、先回りをして差し上げる気はないけれど。
次の瞬間、音を立てながら紙は二つに破られ床に捨てられた。
「控えもございます」
私はすかさず新しい離婚合意書を机においた。
こんなこともあろうかと、予備は用意している。
ほんの五十枚ほど。
二枚目も、一枚目同様に破られ床のゴミと化した。
私は三枚目も出しながら説明に入った。
「本来なら妻の意志のみで離縁できますわ。形だけでも円満な方が良かろうという配慮ですのに……」
目の前の男は国政に関しては有能かもしれない。
しかし家庭人としては最低だった。妻を一切顧みない夫。
愛妾と夜を共にする一方、王妃には指一本触れていない。初夜を含めて。
「そうか……」
白い結婚の申し立てによる離縁は結婚から三年間、夫婦の間に性的な交渉がないまま月日が流れることが条件。
仏頂面が、ニヤリと歪んだ。
「きゃあっ!!」
立ち上がると同時に腕を掴まれた。
抵抗するものの女の細腕が耐えられるものでもなかった。
「朝まで誰も入れるな!」
私を中に招き入れた歩哨に言い捨てると、私は力ずくで仮眠室に連れ込まれた。
違う、私は王妃陛下ではない。と言う余裕は欠片もなかった。
「イヤアァァァッ!!」
大声を上げて抵抗しながら人を呼ぶけれど、絶望的なまでに人はこなかった。
私は己の身に降りかかった災禍と破瓜の痛みに耐えかねて、意識を闇の中に落としたのだった……。
気付いたのは窓帷の隙間から陽射しが入り込む時間だった。
――朝?
ぼんやりとした頭が徐々に覚醒してくる。
見慣れない部屋に動揺した直後、昨日の事が思い出された。
王妃陛下のお願いにより離婚同意書を持参して国王陛下の執務室に入ったこと。
身動ぎした拍子に、下腹部に強い鈍痛が走った。
「うっ……」
経験したことのない種類の痛みに、思わず呻き声を上げた。
そして――。
私は大きな悲鳴を上げた。
直後にドタドタと複数の足音が近づき、大きくドアが叩かれる。
昨夜、何があったかを知っているのか、遠慮していきなり踏み込んでくることはなかった。
だけど……。
「入っても大丈夫だ」
国王自身が招き入れた。昨夜の、自分の所業を見せつけるように。
「これで離縁できなくなったな」
嫌な笑みを浮かべながら私を見下ろす。
「そんな……もう嫁にはいけませんのね」
「何を寝ぼけたことを……!」
国王の声は嘲りに満ちていた。既に結婚した身で何を言うか、といったところか。
「私は王妃陛下ではありません……。おわかりになっていらっしゃらないようですが」
「――っ!!」
室内に緊張が走った。
国王を始めとする誰もが、私を王妃陛下として扱っていたから。
「確かに私は背格好が似ておりますし、髪色も同じではございますが」
私は一言も自分が王妃だとは言っていなかった。
確かに国王夫妻は結婚式の後、一度も顔を合わせてはいなかった。ただの一度さえも。
婚姻前だって顔合わせはなかったという。王妃陛下の実家の権力の強さ故に、ほかに結婚相手はいなかった。国王の好悪の感は関係なく、また王妃陛下に結婚の自由はなかったから。
一応、形式ばかりに顔合わせの話はあったらしい。望めば交流することも可能だったと聞いている。
だけどその全てを国王は拒否したため、国王夫妻は結婚式の僅かな時間に、一度きりの顔合わせしかしていないのだ。
そんなお二人だったけれど、まさか自分の妻を間違えるとは……。
「まずは侍女を呼んでいただけますでしょうか」
寝具で身体を包み込んだまま、私は静かに要求した。
「何故、王妃を騙った?」
いきなりの言葉だった。
誰何されなかったところをみると、私の身元は既に確認が取れているのだろう。
あれから風呂で身を清めた後、医師の診察を受けた。国王の御前に出ても失礼がないように、しっかりと身支度も整えている。
十分な時間があったのだから当然かもしれない。
「騙るなど。私はただ『王妃陛下の用事でございます』としか言っておりません」
王族、しかも王妃の身分を詐称するなど、処刑してくれと言っているようなもの。そんな愚かな真似は王妃陛下の侍女に存在しない。背格好が似た王妃陛下と勝手に間違えた国王が一方的に悪いのだ。
「何故、王妃は離縁などという重要な話を使いなんかにやらせたのだ?」
「傷が大きく、子を産めない可能性があると言われました」
「――!!」
私は国王の問いに敢えて答えなかった。
でも怒りを向けることはない。というよりできなかった。
当然だ。一生を台無しにするほどの大きな傷を作ったのだから。
もしかしたら自分の残虐さに慄いただけという可能性もあるけれど。
「こういうことを懸念されたのです。嫌がらせのためだけに、無体な仕打ちをされるかもしれないと」
再びの驚愕。
感情が駄々洩れなのは、それほどまでに動揺が激しい証左。
アウウィン公爵家――王妃陛下の実家は権力欲が強く、祖父と父の親子二代に渡って国政を私している。兄も同様だとおっしゃるから、このままでは三代続いて、と言ったところか。
国王のお父上である先代も、随分と我慢を強いられたことだろう。
だからと言って、そのストレスを王妃陛下にぶつけられるのはどうかと思うけれど。
「それは……」
すまなかったと、謝罪の言葉を続けたかったのだろうか、あるいは自業自得だと開き直るか、どちらとも取れる言い方だった。
寝具には破瓜の血が沁み込んでいた。あまりの出血量に、手を貸してくれた侍女たちの顔が青くなったほど。
当然、国王の耳にも入っているだろう。
「王妃陛下はただ心穏やかに過ごすことだけをお望みでございます」
暗にそのための離縁だと言う。
国王に蔑ろにされる妃の立場なんて、どれほどなのか想像に難くない。妃の身内は王家とアウウィン公爵家の血を引く子がいれば良いのであって、妃その人が蔑ろにされようがどうだって良いのだから。むしろ気を引けない娘だと叱責するかもしれなかった。
だから私のような貧乏子爵家の娘なんかが侍女なのだ。
「お前…………君はどうしたい?」
「王妃陛下の安寧を。同意書に署名をお願いします」
言葉を改めたのは、罪悪感によるものか。
私は昨夜持参した書類を机に出すと、国王の前に差し出した。
「君自身の希望を知りたいのだが……?」
「ですから、私の希望は王妃陛下の幸せです。実家で不遇をかこっていた私を、助けてくださったのは王妃陛下でございます」
王宮の侍女になったのは、実家での扱いを見かねてのこと。自分と同じ境遇の令嬢がいないか気を配ってくださっていたおかげで、私は手を差し伸べられたのだ。
給金を家に入れると言えば、諸手を挙げて賛成された。貴族の令嬢が金に釣られて働くなど恥でしかなかったけれど、実家に比べれば天国だった。女性ばかりの職場は仕事に厳しくとも心安らげたから。
アウウィン公爵家でも私の実家の子爵家でも変わらない。徹底した男尊女卑の国なのだ。王族だって同じ。
だから国王は気に入らないという一点だけで、王妃陛下に冷たい仕打ちを行い、嫌がらせのためだけに身体を傷つけるような真似をした。
傷つけたのが侍女だったから動揺しているだけで、これが自分の妻であったならば、務めを果たせなくなった王妃など不要と言い捨てて、更に傷を増やしただろう。
国王は整った顔と相まって女性人気は高い。世間では人当たりの良い名君と称されてはいるけれど、実際はこんなものだ。
「見上げた忠義だな……」
私は無言でもって応えた。
何を言ったところで、嘘くさいだけだから。
室内が無音に支配された。
護衛や付き添いの侍女が口をひらくはずもなく、話し合いの当事者たる私と国王が黙れば、声の出る要素がなくなる。
「わかった……。離縁しよう。代りと言ってはなんだが君を妃に」
暫くして、根負けした国王が折れた。
だけどそれは私の望む言葉ではない。
「口封じでしょうか?」
王妃陛下の後釜だなんて、アウウィン公爵に殺してくれと言っているようなものだ。自分たちの血を引かない王の子供なんて、邪魔でしかない。
昨夜の出来事で万が一に子ができなかったとしても、妃であればいずれ生まれる可能性が高い。医者からは今後、妊娠しにくいだろうと言われたけれど、絶対にという話ではなかったのだから。
それがわからない国王ではないはずなのに。
「しかし――それでは君の名誉を守れない」
責任の取り方としてはあまりに凡庸、安直にも程がある。
国王の申し出は双方にとって良い話かもしれない。私が望んでいれば、ではあるが。
だけど――。
「今更でございます」
未婚の令嬢が肌を許した時点、否、仮眠室に連れ込まれた時点で、私の名誉は地に落ちている。
私は一呼吸おいて再び口を開いた。
「守っていただけなくて結構です。元々、宿下がりした後は望まぬ結婚から逃げるために、修道院へ駆け込む予定でした。俗世よりも平和な、安寧の地でございます」
静かに頭を下げれば、それ以上何も言わなかった。
* * *
「お久しぶりです、陛下」
私は一年の月日を経て王宮に戻った。
赤子を腕に抱いて。
あの夜と同じように、夕食と就寝までの執務の時間。
人の往来がほとんどない廊下は静かだった。
たった一度、歩いただけの廊下だったけれど、迷わずに執務室に辿り着いた。
あの夜と同じく、静かなものだった。
「その子は……?」
「あの時にできたようです」
子は眠っていたから瞳の色はわからないけれど、髪の毛は国王と同じ色。
それ以前に顔立ちが良く似ていて、誰の子か一目でわかる。
私は修道院で、自分が妊娠しているのを知った。
月の物が来ないから当然だけれど、覚悟していたから驚きはない。
身体を労りながら日々を過ごす。
そして……修道院で男児を出産したのだ。
「ただの一度でか……」
「――はい」
驚かなかったのは、やる事をやればたった一度きりであっても子ができると理解しているからだろう。
「それで?」
要求はなんだ、と言いたいのは最後まで言わずともわかる。
忠義を盾に我を押し通し、その日のうちに荷物をまとめて修道院に入った、俗世を捨てた筈の女が現れたのだ。目的があると考えて当然なのだ。
「退位を……」
「穏やかじゃないな」
国王の座を退けと言ってのけたのだから当然だ。
でも――。
「これが一番、穏やかなのです」
「反逆が穏やかとは笑わせる」
立ち上がり腰に佩いた剣を抜く。
否、抜こうとした。
私の背後から現れた人物に驚き、手が止まったが。
「久しぶりですね、異母兄上」
「兄と呼ぶな!」
部屋に入ってきたのは国王の異母弟にあたる、先代の第五王子シューゼル。多くの愛妾を寵愛した結果、子も多く生まれた。
しかし先代は別段、好色な王ではなかった。
国政に関わらせないよう、アウウィン公爵が女を宛てがい続けただけで。
己のままならなさをぶつけた結果なのか、女に耽溺した。少なくとも周囲からはそうみられていた。
シューゼルの母は没落した男爵家の令嬢だったらしい。借金に首が回らなくなり、いよいよ爵位返上といったときに声がかかったのだとか。
多額の金と引き換えに令嬢は王宮に上がり寵愛を受け、そして子を一人産んだ。
王妃こそ身分は高かったが、愛妾たちは後の火種にならないよう下級貴族の令嬢たちばかりだった。爵位も権力も金もない実家であれば、王妃を追い落とそうなどと大それた真似は仕出かさない。特にアウウィン公爵家に借金を弁済してもらったのならば、恩人の為にならない真似はできなかった。
「下賤の血を引くお前を、弟だと認めてはいない!」
国王は異母弟妹を嫌っている。王妃だった母の憂いの元だった彼らを。
即位と同時に、全員母親と一緒に実家に送ったくらいだ。王子や王女といった身分を剥奪して。
先代国王との関係は、愛妾自身が望んだ訳ではなかったから、温情としていくばくかの慰労金は出したらしい。
だから既に家族関係は清算したと言いたいのだろう。
しかし先代国王の血を引く弟妹がいる事実は消えない。
「あなたに存在を認めてもらう必要はないのですよ」
シューゼルの口調は穏やかだった。双眸に湛える光は剣呑そのものでも。
「国王の血を引く王子が手の中にあるのですから」
「――!!」
国王が愕然とする。嵌められたと思ったのだろう。
しかし――。
「陛下に私を襲わせたのではありません。そういう結果もあるだろうと覚悟はしていましたが」
一年前の出来事が謀でなかったと訂正する。
「もし、王妃陛下を進んで解放する、若しくは結婚直後から慈しんでいらっしゃれば、一緒にアウウィン公爵家を打倒しようと協力関係を築けたでしょう」
「――!!」
国王の驚愕は、妻が自分の実家を排するという事実に対してなのか。
それとも目の上の瘤でしかない存在を消せたかもしれない事実に対してなのか。
「ただ気に入らないというだけで、アウウィン公爵と同じように、女の身であるというだけで王妃陛下を蔑み蔑ろにした結果が『今』でございます。協力関係に値しないと判断させていただきました」
所詮、お前は政敵と同じなのだと言われて、どういう気持ちだろうか。
無意識に他人を蔑むのは、帝王教育の賜物。頂点として君臨するための学びは、しかし思考を偏重させ視野を著しく狭くしただけだった。
「王妃陛下はご実家で、非常に辛い思いをされて過ごされたようです。ご自分の親兄弟を弑するのに躊躇いはございません。もし本当に国を憂い行動したいのであれば、追いやるような真似をせず、御身の側に置き重用されればよろしかったのです。そうされなかったのは、口先だけであった証左でございますね」
お前には覚悟がなかった。酒を飲んで管を巻くだけだったから、破滅が待っていたのだと断じる。今までの傀儡の王と同じだと。
「それでも……アウウィン公爵家への牽制には役立ってくださいました」
一年間、娘と離縁した国王と、妃の実家の仲は険悪の一途を辿っていた。暗殺されなかったのは後継がいなかったから。修道院から一歩も出なかった私の妊娠は秘匿され、日々を神の祈りに費やしていると報告されていた。
いつまでも外戚による専横を許したくない国王は、細々とした策を弄してアウウィン公爵家を苛立たせた。お陰でシューゼルのような第三勢力の存在が今まで残れたのだった。
「外は面白いことになっておりますよ」
国王の背後にある窓を指し示す。
私の手の先にあるものを見ようと振りかえる。
そして……目にしたものに動きが止まった。
「これは……」
「明日にはアウウィン公爵家は消滅しておりますわ」
夜空に浮かび上がる幾つもの炎。
ひと際大きい炎がアウウィン公爵家の町屋敷だったモノ。
警備が厳しくて侵入できない屋敷は、時間をかけて使用人として入り込み内から火を放った。簡単に入れる屋敷には味方から暗殺者を。
まとめて排除してしまえば、反撃は食らわない。国政への影響は計り知れないが。
「こんなことをして……! 国の存続さえ怪しくなるぞ!!」
当然の言葉だった。
ただ私腹を肥やすだけであれば、あっという間に国が傾く。国力は年々落ちているものの亡国になるにはまだ猶予がある程度。
腹黒くはあるけれど無能ではなかったからこそだった。
「この国は帝国の庇護下に入りますよ」
隣の大国。
対等とは言わないまでも独立を維持できる程度ではあった。
「フロレンティナ様は皇太子妃となります。我が国の王族縁の姫として。後ろ盾となるのがこの国の存在意義となりましょう」
王妃陛下は離縁して公爵令嬢の立場に戻った。ただの出戻りであれば瑕疵となる。
しかし国王が一肌脱いで、王宮にて匿うために形だけ妃にしたとなれば話は違う。年齢が近すぎて養女とするには無理があったための措置と言い張り続ければ、いつしか嘘も真になる。
王妃の肩書を取り払ったフロレンティナ様は晴れ晴れとした顔だった。
唯一、私を犠牲にすることだけは反対していたし、目論見通りに傷つけられた後は、泣きそうな顔をしていたけれど。
でも――。
フロレンティナ様にとって最善を尽くすのは、助けられた私の希望。
その後の、国の行く方向は私たちの望んだとおり。
何かを得るには、何かを捨てなくてはいけない。
「取捨選択ですよ」
そう言った私を痛ましそうに見たけれど、もう迷いは見せなかった。
フロレンティア様は帝国で、私はこの国で戦いながら幸せになる道を模索するだけのこと。
「無茶苦茶だ」
驚愕から覚めぬまま、呻くような呟きを聞いて、思考を過去から現実に戻した。
「国が滅ぶような真似を、よくもできたものだ…………」
「生きていくためです。知っていますか、この国で女として生きることの辛さを?」
侮られ搾取され、襤褸雑巾のように捨てられて朽ちていく女の多さを。
私は嗜虐性のあると噂の老人に売り飛ばされる直前だった。
孫ほどの妻を次々と娶り、そのほとんどが物言わぬ死体となっていくような相手に嫁ぐ恐怖。
フロレンティナ様だって似たようなものだった。
実家では常に貶められ道具扱いしかされなかった。時として暴力も振るわれたらしい。嫁いでようやく息ができると思ったのも束の間、今度は夫からの冷遇が待っていた。
私の半歩後ろに立つシューゼルの母を始めとする先代国王の愛妾たちもみな同じ。借金を肩代わりしてもらうために王宮に上がったけれど、その借金はアウウィン公爵の計略で背負わされたもの。盾つかない、しかし貴族として最低限の教養を持つ令嬢であること、出しゃばらず従順で扱いやすい性格であることを元に選ばれた生贄だった。
「売国奴と未来で歴史学者に誹られないよう、全力で足掻きますよ」
シューゼルが陰惨な笑みを浮かべると、執務机の上に一振りの短剣を置いた。
「アウウィン公爵憎しで行った暴挙の責任を取って自害、という筋書きです、異母兄上」
「そんな訳あるか」
一瞬で我に返って反論するけれど、もう流れは止められない。
「アウウィン公爵家の返り討ちによって弑された、という筋書きでも構いませんよ。その場合、一撃でとはなりませんから、苦しみが増えます。一思いに首を掻き切るのがよろしいでしょう」
異母弟の言葉に、どうあっても自分の死は免れないと悟ったのか、少し前まで座っていた椅子に腰を下ろした。
「本当にお前は狙って子を産んだのではないのか?」
「流石に、好んで襲われたくはありません。襲われたからこの計画が発動しただけです。もし陛下がフロレンティナ様との離縁に合意され王宮から快く送り出された場合、私は影武者として王宮に留まりました。離縁に反対しながらも襲われなかった場合は、脱出後の囮です。どちらの場合もクーデター派には独自で頑張っていただく予定でしたが、結果がこうでしたので」
実際には襲われるように、国王に感情の起伏が激しくなり、思考が単純化しやすい薬と媚薬の類を盛っている。襲わせるのを目論んで。
更にフロレンティナ様と誤認するように、靴の踵の高さで身長を調整したり、似た雰囲気になるように化粧や髪型を合わせている。トドメとばかり同じ練り香水を使ったのだから、夜ならば見誤ってもおかしくなかった。人が少なくなる時間帯を狙っただけではなかったのだ。夕食後に訪問したのは。
でも己にそういった欲望があったと思い込ませた方が、より深く闇に堕ちていく。
絶望の淵に立たせるための、少々の嘘。
「そうか……すべては自分の蒔いた種、という訳だな」
深く溜息をつくと、短剣を手に取った。
「遺書に署名を」
国王の筆跡を真似た書類を差し出す。
すべての責任は自分にあるという供述書になっている。詳細な計画とともに志を同じくした実行者の名前も。アウウィン公爵とともに過激な思想のある家臣を排せば、多少は国も良くなるだろうという内容。同時に王であるのにこのような手段しか取れなかった自分の不甲斐なさへの後悔。
読めば国王への同情もいくばくかは集まりそうな力作である。
「そろそろ仕舞にしましょうか」
遠くから足音が聞こえた。室内に人が来る前に、国王には死んでいてもらわなくてはいけない。
「何処を斬るのが希望だ?」
自棄になりつつも、泰然としているように見えるのは、もしかしたらフロレンティナ様に思いを馳せているからだろうか。
自分の死は、後の皇帝妃となる自分の元妃の立場を、強固にするのに役立つと理解しているのかもしれない。
「首を。できるだけ派手に血を撒き散らせ、私たちが殺したのではないと知らしめてください」
絶対に自害だとは断定されない。でも血染めの足跡がなければ、殺害されたとは思われにくい。
ほんの気休め程度には。
「わかった」
言うと同時に一気に刃を首に当て後ろから前へ、流れるように走らせた。
迸る血が書類に降りかかる。
「陛下!」
兵士たちが執務室に入ってきたのは、国王の身体が傾ぎ、床に倒れた直後。
その後は狂瀾怒濤の展開だった。
私と子の二人はすぐに王宮の一室に保護されたから、詳しくはわからないけれど。
――馬鹿な人。
自分が死に追いやった国王を思い出す。
あの日、私を通して見ていたのは自分の妻。
本当は自分の王妃だったフロレンティナ様に恋をしていたのに、アウウィン公爵家の血が嫌いだからというだけで蔑ろにして。
ほかの男に取られたくなくて王宮の隅で囲い込んで。
――本当に愚かだわ。
王宮の片隅に追いやったところで、幽閉されていた訳ではない。
他人の目に触れる機会は少ないとはいえ、三年の間に何度もあった。まだ少年だったシューゼル様とも会って挨拶を交わしたことがある。
即位と同時に異母弟妹を追放されたのは、悋気が原因だと思っている。誰の目からもフロレンティナ様を隠したかったが故に、自由に王宮内を歩ける存在を減らしたかったのだと。
フロレンティナ様の無聊をお慰めするために、私たちは色々と手を尽くしていた。
この国を訪問中だった隣国の皇太子と出合ったのは、本当に偶然。でも親しくなったのは、偶然ではなかった。
皇太子と恋に落ちるのは必然だったのかもしれない。
――本当に愚か。
自分のことに置き換えて考えてみれば良かったのだ。
尊重されもせず放置されたらどう思うのか。
優しくしてくれる存在に心が傾くなんて普通のことなのに。
好きと言えなくても、せめてアウウィン公爵に対して守るように動くだけでも良かった。
実家で辛い思いをしていたのだから、優しく手を差し伸べられれば絆されることもあっただろうに。
だけど真逆の行動ばかり……。
結局、ほかの女を手籠めにして底辺まで評価を落とし、愛想を尽かされた。
素直になるのが難しかったとしても、粗略にさえしなければ良かったのに――――。
前作で失恋&破滅して失意のイケメンを書いたところ、想像以上にリアクションいただけたので調子に乗って2作目を書きました。後悔してません(キリッ)
今回は更に自分好みの、重い文章です。