第1章-第9節 『真実はいつもひとつなのか』
「え! お前探偵なの!?」
ボロアパートの廊下に、俺の間抜けな声が響き渡った。
――そう。あのあと、俺はこの青年に着いて行くことを選んだ。
得体の知れない男ではあるが、悪いやつだとは思えなかったし……
巻き込まれたとはいえ、結果的には俺もこいつに助けられたようなもんだ。
それに、言っちゃ悪いがこの青年……典型的な“もやし”である。
万が一の場合には、ボクシングゲームで鍛えた右ストレートをお見舞いして逃げ出してやるぜ、と思っていたのだが――
青年に連れられてたどり着いた先は、レンガ造りのかなり年季の入ったアパートメント。
彼が立ち止まった部屋のドアには《レイエル探偵事務所》と書かれたプレートが掲げられていた。
やや斜めに傾いているし、埃も被っているが、それでも俺を驚かせるには十分だった。
「え! お前探偵なの!?」
「ええ、まぁ。副業もしてますけどね! さ、どうぞ」
その言葉に、俺の頭の中では「副業」と「ギャンブル」がイコールで結びついたが、ひとまず促されるまま室内へ入る。
次の瞬間、目の前に広がった光景に思わず頬が引きつった。
壁際の本棚には難しそうな本、デスクには書類の山……ここまでは良かった。探偵事務所と聞いて想像するものの範囲内だったからだ。
問題は他にあった。というか、その他すべてが問題なのだ。
ローテーブルを挟んで対に置かれたソファには、服が脱ぎっぱなしで、床にも本やらなんやらが散乱していた。
加えて、壁に貼られた未解決事件のメモらしきものには、「あとで考える」とか「犯人は○○? 多分」とか「真実はいつもひとつ……なのか?」とか、若干不安になる文言の数々が添えられている――俺は開口一番にこう言った。
「……ほんとに探偵やってんだよな?」
「い、今部屋を見て言いましたね!? これでも名探偵ですよ!」
「迷探偵の間違いじゃねえの……?」
「うわっ、失礼な人……とりあえずそこに座っててください! お茶淹れますから」
“そこ”と示されたソファは、言うまでもなく服や本で占領されている。
……どうやって座れと。
俺が聞く前に、家主は部屋の奥へと消えてしまった。
とりあえず近くにあったかごに服を放り込み、本はテーブルの端に積み上げる。
俺は一応客人じゃないのか? なんで招かれた家で片付けをしてるんだろう。
なんだか拍子抜けした。俺の右ストレートの出番はないかもしれない。
少しして、柑橘系の香りとともにティーセットを持った青年が戻ってきた。
「お待たせしまし……って、わぁ! ここ片付けてくれたんですね!」
彼はティーセットをテーブルに置くと、両手を合わせて大層感激した様子で礼を述べた。
そこまで感謝されると、悪い気はしない。我ながら単純だな、とは思う。
「いやぁ、助かります。昔からどうも片付けが苦手で……あ、砂糖いくつ入れます?」
「いや、無しでいいよ」
「え、入れないんですか? 砂糖なしで紅茶飲む人、初めて見ました……」
青年は一瞬目を見開くと、不思議そうな顔をしながら片方のティーカップを俺の前に差し出した。
紅茶に砂糖入れないのってそんなに驚かれることか? 日本だと結構入れない人多いけどな。
一方、彼はシュガーポットから角砂糖を一つ、二つ、三つ……おいおい、まだ入れるのか?
それはもう、じゃりじゃりの飽和水溶液になってしまうのではないかと怖くなるほどの角砂糖を、慣れた手つきでカップの中に落としていく。
彼はそれをティースプーンでかき混ぜると、恍惚とした表情で飲み始めた。
あれだけ砂糖をぶち込んだ紅茶――もはや“紅茶”と呼んでいいのかすらわからない――をよくそんなに美味しそうに飲めるな、と思う。
正直、見ているだけで胸やけを起こしそうだ。
そんな俺の視線に気が付いたのか、カップを下ろした青年がこちらを見ながら少し顔を傾ける。
それは暗に「飲まないんですか?」と言っているようで、慌ててカップの中で揺れる飴色に目を落とした。
こんなとっ散らかった部屋の主が淹れたものなんて飲んで大丈夫なんだろうか……と一抹の不安を覚えたが、出されたものを一口も飲まないのは流石に失礼すぎるだろ、と思い直し、カップに口をつける。
……あ、美味い。正直、生きてる間に飲んだどの紅茶よりも美味しい。
「美味しいでしょう? 紅茶を淹れるのだけは得意なので」
顔に出ていたのだろうか、青年が満足気に微笑む。
ていうか今、“だけは”っつったな。だけはって。自覚あるんだ。
「砂糖を入れるともっと美味しいんですけどねぇ……」
青年は惜しむような目でシュガーポットを見つめながら、ぼそりと呟いた。
百歩譲って砂糖を入れて飲むにしても、お前のような致死量を入れるやつはいないと思うが。
げんなりとした俺を置いて、彼は突然思いだしたかのように「あ」と声を漏らす。
「そういえば……まだ自己紹介をしてませんでしたね。僕はカイン・レイエル。見ての通り探偵をしています」
見ての通り……? と引っ掛かりつつも、カインに倣って名を名乗る。
「俺は、一ノ瀬創。ここには今日来たばかり……だと思う」
明言できないのは、あのゴミ溜めでどれくらい気絶していたかがわからないからだ。
けれども、カインはそこには特段突っ込まず、妙に納得した様子で俺の知らない単語を口にした。
「ああ、やっぱり“ノーヴァ”でしたか」
「……ノーヴァ?」
「地獄にきたばかりの人のことです。ノーヴァだってバレるとカモにされますから、ここに慣れるまでは気を付けてくださいね」
「ふーん……」
その口ぶりからして、“ヘルヴェ”というのは地獄のことだろうと理解する。
無意識に相槌を打ったところで、先ほどのカインの言い方になんだか引っ掛かる部分があったことに気が付く。
「……ん? さっき“やっぱり”って言ったよな? 俺がノーヴァだって気付いてたのか?」
「まぁ、探偵の勘みたいなものですよ。そんなことより……イチノセ・ハジメって、どっちが家名でどっちが名前ですか?」
カインは俺の問いに答えるよりも、名前のことが気になって仕方がないという様子だった。その顔には純粋な興味が押し出されている。
……なんだかはぐらかされたような気もするけど、実際のところはわからない。
「あー、ハジメの方が名前だけど」
「ふむ、ハジメさん……」
カインは、その響きを舌に馴染ませるように、ゆっくりと繰り返した。
「……ハジメさんはどちらの出身なんですか?」
その問いかけはどこか“探り”めいていた。
自分でもそれに気づいたのか、カインは慌てたように笑って付け足す。
「あ、すみません。あまり耳馴染みのない響きだったので、気になってしまって……」
それが彼の職業病であることがわかって、俺は小さく笑みをもらしながら答える。
「日本だよ」
「ニホン……?」
俺の言葉に、カインが目を丸くした。
「え、日本知らない? ジャパンだよジャパン」
「うーん……初めて聞きましたね。国名、ですか?」
「……本気で言ってる? 冗談じゃなくて?」
いくら小さな島国と言えど、一度くらい聞いたことがあるだろう。
言いようのない不安感に襲われて、心臓の鼓動が早くなる。
「ちょっと待っててくださいね」
そう言うと、カインはおもむろに立ち上がった。
何かを探すようにデスクの引き出しを物色すると、色褪せた羊皮紙のようなものを携えて戻ってくる。
「これ、下界……いわゆる生者が暮らしている世界の地図なんですが――
――ニホン、という国は見たことがなくて……」
俺は慌てて、テーブルに広げられた世界地図に目を落とす。
確かに、端から端まで探してみても日本列島は見当たらなかった。
いや、それどころかこの地図には俺の知っている国が一つも載っていない。
というか、そもそも大陸の作り自体が違う――
「……ちょっと待てよ、じゃあやっぱり異世界転生だったってことか……?」