第1章-第8節 『バタフライ・エフェクト』
「そこの人ーー!助けてくださいーーッ!」
ふいに、歓楽街の喧騒を突き破るような叫び声が響いた。
その声は、今まさにサキュバスのお姉さんと楽園の門をくぐろうとしていた俺を現実へと引き戻す。
反射的に顔を向ければ、フードを深く被った青年がこちらに向かって全力疾走しているところだった。
フードの陰から瞳がのぞく。
その双眸に、俺は地獄に来て初めての青空を見た。
一瞬、時間が止まったような錯覚を覚える。
――今、目が合った。
思わず後ずさると、踵が硬い看板に当たって、我に返った。
カツン、という音とともに喧騒が戻ってくる。
“そこの人”って――
「え、俺?」
思わず自分を指差せば、青年はぶんぶんと首を縦に振った。
その後ろには、鬼のような形相をした黒服の男たち。
「いやいやいや、無理だろ! 怖すぎるわ!」
「なんだァ、あいつも仲間か!? まとめて身包み剝いじまえ!」
黒服集団の一人がとんでもないことを叫んだ。
――完全にとばっちりである。
「待て待て! 俺関係ない! 無関係! 知らない人です!」
両手をぶんぶん振って必死に否定するが、聞き入れてもらえるわけもなく。
その間にも青年と黒服御一行はすぐそばまで迫ってきていた。
「話の通じる方たちじゃありませんよ! 死にたくなかったら走って!」
青年は息を切らしながらそう言うと、俺の手をガシッと掴む。
「え、ちょっ!」
彼に引っ張られるがまま、俺は走り出す。
いつの間にか、サキュバスのお姉さんの姿も消えていた。
初日にこれって、ハードモードすぎるだろ! なんだこのイベント!
心の中で悲痛な叫びがこだまする。
――かくして、地獄の逃走劇は幕を開けたのだった。
「おぉい! お前のせいで巻き込まれちゃったじゃねーか!」
黒服を背にしながら、隣を走る青年に抗議する。
「す、すみません! 助けてくれそうだったので!」
「どこを! どう見て!?」
風を切る音がやけに大きく耳に響く。
街が、人が、輪郭を捉える前に流れていく。
こんなに全力で走ったの、いつぶりだろう。
青年は迷いなく右に曲がり、また左に折れる。
まるで、この街の地図が全部頭に入っているみたいだ。
「待てこらぁぁぁ!」
「待てと言われて待つ馬鹿はいませんよ!」
黒服の怒号に、青年が叫び返す。
「うおお、やめろお前、煽るな!」
角をいくつか曲がった直後、青年が急停止した。
「こっちです!」
そう言うや否や、彼は脇道に体を滑り込ませる。
「ちょ、急になんだよ……!」
俺も慌ててそのあとを追い、細い路地裏へと駆け込んだ。
すると、青年は迷いなく壁際に積まれた木箱の陰へとしゃがみ込む。
それに倣って隣で身を縮めると、彼は指先を唇に当てる仕草をして「静かに」と目配せした。
すぐ近くで複数の重たい足音が響く。
――頼むからこのまま通り過ぎてくれ……
握った拳にぐっと力が入る。
数秒の時間が、何分にも感じた。
天に願いが届いたのか、足音は一つ、また一つと遠ざかっていく。
男たちの気配が完全になくなったのを確認すると、吐き出した息とともに全身の緊張が一気に緩んだ。
「はぁ……どうにかやり過ごせたか?」
小声でそう呟いて、隣に目をやる。
青年はフードを脱ぐと、それを肩に落とした。
その拍子に、癖のある柔らかな銀髪がふわりと揺れる。
あらわになった彼の容姿には、どこか人間離れした印象を受けた。
――なんか、作り物みたいだ。
いわゆる“美少年”とはまた少し違う、異質さ。
整った横顔にひっかかっている細い銀縁の眼鏡だけが、人間らしさを演出しているようだった。
少なくとも、街中ですれ違うタイプじゃないが……なんだろう、この違和感。
瞬間、わけもなく背筋に冷たいものが走った。
まるで“人間とは別のカテゴリに属しているもの”を、うっかり見てしまったような――そんな感覚。
そう思った、その矢先。
「ありがとうございますぅ! 命の恩人です!」
青年はへにゃり、という言葉が合いそうな笑顔を浮かべると、俺の手を両手で握ってぶんぶん振る。
さっきまでの印象を打ち壊すようなテンションに、思わず拍子抜けした。
「……いや、俺お前に巻き込まれただけなんだけど!?」
「いえいえ! ほら、バタフライ・エフェクトって言うでしょう? 君と出会わなかったら僕は死んでたかも……君と出会ったことで、僕の運命が変わったに違いありません」
彼は人差し指をぴっと立てて、聞いているこっちが恥ずかしくなりそうなほどの力説をする。
……なんか違う気がするし、そんな大層なものじゃないだろう。
こいつが走ってきたところに、たまたま俺がいただけの話だ。
そもそも、この男はなぜ追いかけられていたのだろうか。話している感じ、人畜無害そうだが。
「……てか、お前なんで追いかけられてたんだよ。なんか金がどうとか聞こえたけど」
「いや~……ちょっと賭け事で運が良すぎたというか、勝ちすぎてしまったと言いますか……あはは……」
「……それ、イカサマって言うんじゃ――」
「ち、違いますよ! 人聞きの悪いことを言わないでください! ちょっと頭を有効活用しただけですってば!」
あの時すれ違った二人組が言ってた“イカサマ野郎”って、こいつのことなんじゃ……
あー、しまったな。俺、なんかとんでもない悪党に手を貸しちゃったんじゃないか? 何もしてないけど。一緒に逃げただけだけど。
「……とりあえず! ここで話してても危ないですし、僕の家に来ませんか?」
青年は、自身の居心地の悪さを打開しようとしたのか、取ってつけたように話を切り替えた。
意図せず低い声が出る。
「おい、今の話の流れでYESって言うと思うか?」
「う、おっしゃる通りです……が! あなたも僕の仲間だと思われてるわけですし、ここで単独行動をするのは如何なものかと……」
「それは、そうかもしんねぇけど……」
なんだか、こいつの口車に乗せられている気がする。
どうしたものかと考えあぐねていると、ふいに青年がすんすんと鼻を鳴らした。
「……それに、うちに来ればシャワーもお貸しできますよ?」
「え、何でシャワー……?」
「……だって……ゴミ山でお腹の上にドブネズミでも乗せていたような臭いがしますけど……」
件の、“ゴミ山スポーン~目覚めのドブネズミ添え~”の情景がありありと思い出される。
「えっなんで知ってんの!? てか俺ずっと臭かった!?」
「いや、知りませんけど……そういう臭いだったからそう言っただけで。あと、多分ほかの人は気づいてないと思いますよ。僕は職業柄少し鼻が利くのでわかりましたけど」
俺は慌てて自分の“ニオイ”を嗅いでみたが、確かに自分ではそこまでの悪臭は感じられなかった。
さっきまでごたごたし過ぎて忘れていたが、一度思い出してしまうと気になるものである。
「……どうします? 恩人さん」
腹が立つほど綺麗な顔で、目の前の男が微笑んだ。
俺は今、大きな選択を迫られている――そんな気がした。