第1章-第7節 『サキュバス虎の穴』
どちらも地獄というのなら――自分の直感を信じてみるのも悪くはない。俺は運ゲーには強いのだ。
そんな根拠のない自信を胸に、右へと足を向ける。
道幅はやや狭く、人通りもまばらで、建物の陰が妙に濃い。
どことなく物静かな空気に包まれた通りを、慎重に進んでいく。
しばらく歩くと、道が折れ曲がっているのが見えた。
その角を曲がった瞬間――視界がぱっと開ける。
色とりどりの屋台がずらりと並ぶ通り。
呼び込みの声、談笑をする買い物客――さっきまでの通りとは打って変わって、そこは活気に満ちた市場だった。
どこからか漂ってきた香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
「う……腹、減ったな……」
タイミングを見計らったように、腹の虫がぐぅと鳴く。
そういえば、最後に口にしたのは書庫で出してもらったハーブティーと……あの遺物みたいなクッキーだけだった。
俺は先ほどの教訓を胸に、あまり近寄りすぎないように屋台を見てみることにした。
お金は持ってないから買えないけど。見るだけならタダだ。
運が良ければ試食という名のお恵みがあるかもしれない。
しかし、すぐに己の企みの甘さを知る。
「坊や、一つ食べてみるかい?」
「……い、いや、大丈夫デス」
――結論から言うと、地獄の食べ物は俺には早すぎたのだ。
第一関門「試食の声かけを受ける」は思っていたよりも簡単にクリアできた。
市場の人たちは思っていたよりも優しく、商店街のおばちゃんみたいなテンションで話しかけてきたからだ。
俺はここでまず「地獄って意外と良いところかも!」と目を輝かせた。
しかし、このミッションには第二関門が存在したのだ。
そもそもの“食材”である。
差し出されるのは、串に刺さったカサカサ動く黒いもの、毒々しい色の蒸しパンみたいなもの、蠢く触手らしきものがはみ出たタコス風の何か……など、少なくとも今の俺の価値観では、美味しそうに見える代物ではなかったのだ。
俺はここで「やっぱり地獄だ……」と目から光を失った。
同時に食欲も失ったのは言うまでもないだろう。
――もしかして、モルティナが出してくれたクッキーって実はすごくまともだったんじゃないだろうか。
地獄の食べ物の異様さに心を砕かれ、“化石クッキー”に思いを馳せる。
今思えば、一応クッキーの体裁は保っていたわけだし、味も抜群だった。
なんとも中毒性のある味で、あの時の俺は一瞬で皿の上のクッキーを平らげてしまったものだ。
――まさか、本当にヤバいモノが入っていたんじゃ……
悪そうな顔でふふふと笑うモルティナの顔が脳裏をよぎる。さながら、おとぎ話に出てくる魔女のようだ。
いやいや、特に体に異常はないし。杞憂だろう。
百パーセント善意で出してくれたであろうクッキーにそんな妄想をしてしまってごめん……。
だが、それはそれとして次に会ったら“化石クッキー”の原材料を聞こう。
そんなことを考えながら歩いているうちに、市場を離れて別の通りに入ってしまっていた。
「やべ、どこだここ……」
あたりを見回すと、主張の激しいピンク色の看板が目に入る。
「サキュバス虎の穴……」
それが、うっふ~んであっは~んな店であることは、俺でもわかった。
思わず目を逸らすが、どこを見ても同じような看板ばかりだ……どうやら歓楽街に迷い込んでしまったらしい。
どう考えても幼気な十八歳童貞が居ていい場所ではない。
さっさと退散するに限る、と踵を返そうとした時だった。
向こうから、派手な服装にサングラスの男二人が歩いてきた。
出来ればあまりお近づきになりたくないなぁ、のステレオタイプである。
俺はそっと壁際に身を寄せて息を殺した。なるべく目立たないように、空気になったつもりで。
彼らは俺に気づいてすらいない様子で、なにやらぶつぶつ言いながら真横を通り過ぎていく。
「……またあのイカサマ野郎かよ」
「舐めやがって……うちのがヘマしたなんて知れたら事だぜ。ボスにバレる前に始末しねえとな」
映画やドラマでしか聞いたことがないような物騒なワードに、自分のことでもないのに肝が冷えた。
男たちが路地裏に入っていったのを確認してから、ふう、と息を吐き出す。
イカサマ……ってことは、この辺に賭場かなんかがあるのか?
……これは、思っていた以上に治安が悪そうだ。
トラブルに巻き込まれる前に、ここを離れ――
「って、うおっ!?」
不意に腕をぐいっと引かれる感覚がして、思わず声が出る。
「お兄さん、遊んでかない?♡」
顔を向けると、やたらと露出度の高い女性が腕に抱きついていた。
角とコウモリみたいな羽まである……“そういう漫画”に出てくるサキュバスそのものだった。
しかも、気のせいでなければ腕に柔らかくて温かい何かが密着している。
「えっ、いや……遊ばな……あの、な、なんか当たってるんですけど……!」
「え~! もしかしてキミ純潔!? うっそ、超レア引いちゃった~♡」
明らかにボルテージが上がった様子の彼女は、今にも俺を店の中に引きずり込まんとする勢いだった。
「ちょ、ちょっと! 離し……力強ッ!?」
「遠慮しなくていいってば~! お姉さんが天国見せてあ・げ・る♡」
健全な日本男児としては何度も夢に見たシチュエーションなのだが、今はこんなことをしている場合ではないのだ。
「いや、俺は……」
あ、なんかすげーいい匂いがする。
もう……このまま流されちゃってもいいんじゃないか。
いや、ダメだろ。落ち着け俺。流されるな。
楽園の門の前で、俺と同じ顔をした愚者と賢者が争っている。
賢者は必死に説得を試みるが、軍配は今にも愚者に上がりそうである。
だんだんと頭の中が桃色に染まっていく。
――拝啓、田中。そっちで元気にしてますか?
俺は地獄でサキュバスのお姉さんと大人の階段を上りそうです。
どうやら俺たちのユートピアはここに――
「そこの人ーー! 助けてくださいーーッ!」
突如聞こえてきた叫び声に、戦友の田中へと書きかけた手紙は霧散した。