第1章-第5節 『ムネーモシュネー』
――何が、起きてるんだ。
飛び交う声に取り残されそうになりながら、必死に耳を澄ませる。
なんとか聞き取れたのは、「白紙だ」とか「ありえない」とか、そんな言葉だった。
「審判長、これは異例の事態です」
老齢の女性の声が響く。
審判長はひとつ咳ばらいをすると、木槌を打った。
「皆、静粛に。……魂の観測者よ、命環の書に誤りはあるまいな?」
「はい、審判長。あの者の書に間違いありません」
後ろに控えていたモルティナが淡々と答える。
その表情には、なぜか一片の動揺も見当たらなかった。
「ふむ……致し方ない。これより、この者の記憶による審判を行う」
審判長が冷静な声で宣言する。
記憶による審判ってなんだ……? そもそも、なんで俺の記録がないんだよ。
書庫で見たときは、俺の人生が事細かに書かれていたじゃないか。俺は確かに中身を見たんだ。
それに、さっきのモルティナの表情――まさか、モルティナはこうなることをわかっていたのか?
「――汝、咎を背負う者なれば、その過ちをここに現せ」
審判長の声に、意識が思考の海から現実へ引き戻される。
掌が俺に向けられると、目の前に魔法陣が現れた。
一瞬、脳がぐらつくような感覚がしたかと思えば、拡大した魔法陣の中にぼんやりと映像らしきものが浮かび上がる。
しばらく真っ白なだけだった映像にノイズが走り、次第に色が付き始めた。
映っているのは黒い空と赤く燃え盛る炎。
音声がざらついているが、人々の悲鳴らしきものが聞こえる。
――「貴様、自分が何をしたかわかっているのか!?」
悲鳴に交じって、誰かの非難の声が響いた。
――「俺は――」
炎の奥に誰かが立っている。発せられた声は俺のものに酷似していた。
再びノイズが激しくなると、映像はそこで途切れ、真っ黒に塗りつぶされた。
審判長が手を下ろすと、魔法陣が消える。
再び法壇がざわつき始めた。
「この者の罪は明らかだ」「審議するまでもない」――審判官たちの口から、そんな言葉が次々と出てくる。
待ってくれ。さっきのが、俺の記憶だっていうのか?
知らない。こんな記憶――俺には、ない。
頭の奥がずきずきと痛む。心臓が嫌な速さで脈を打つ。
「違う……! こんなの、俺の記憶じゃない! 俺は……やってない! 誰かと間違えてるんだろ!?」
思わず叫ぶように言うが、まるで取り合ってはもらえなかった。
「魂に刻まれた記憶は偽ることはできない。貴方に否定の余地はありません」
誰の声かも分からない、冷ややかな声が響く。
「おかしいだろ……! こんなの……絶対何かの間違いだって……!」
必死の訴えに答えてくれるものはない。
やがて、審判長が立ち上がる。
「魂主、イチノセハジメ。これより汝の判決を下す」
審判長の声は、冷えた刃のように鋭く空間を切り裂いた。ざわついていた法廷が静まり返る。
「この魂に刻まれた記憶は、明確なる罪を示している。よって――この者の地獄への送致を決定する」
カン、と乾いた音が鳴り響く。
まるで、俺の心臓を直接打ち据えるような音だった。
次の瞬間、俺の足元に赤く輝く魔法陣が浮かび上がる。複雑な紋様が螺旋を描き、光の渦が回転を始めた。
「おい、待て……待ってくれよ! 本当に違うんだって! なんで誰も聞こうとしないんだよ!」
叫ぶ俺の声もむなしく、熱を帯びた赤い光は俺を飲み込もうとする。
もがこうとしても、身体が動かない。引きずりこまれる――
「モルティナ……ッ! 何とか言ってくれよ! お前は知ってるだろ!? 俺は、こんなこと……!」
縋るように叫ぶと、モルティナが一瞬だけ目を見開いた。
けれど、すぐにそのまつ毛を伏せ――小さく首を横に振る。
「すまない、創。私の役目は君の魂の行く先を見届けること……審判への干渉は認められていないんだ」
静かな声。けれども、それは何かを押し殺しているようにも聞こえた。
重力が反転する。身体が、世界から切り離されていく。
――ああ、またこれかよ。
駅のホームで、死の瞬間に感じた浮遊感と喪失感。全身がちぎれそうになった感覚。
あの時と同じだ。
いや、あれ以上に――これは、本当に“終わり”かもしれない。
音が、光が、遠ざかっていく。
世界が闇に閉ざされる寸前、モルティナと目が合った。
夜空のような瞳が淡く光る。
彼女の唇がほんのわずかに動いた。
意識が途切れていく最中、モルティナの声が聞こえた気がした。
「――これは終わりじゃない」
「――ここからが――君の物語の始まりだよ」
「――君の進む道に、幸あらんことを」