第1章-第4節 『最後の審判』
モルティナが静かに立ち上がり、すっと右手を掲げる。
次の瞬間、書庫全体が静かに震え出した。
床には光の紋様が現れ、星屑のような粒がふわりと舞う。
そして――
天にそびえる本棚が左右に開き、静かに道を作り出した。
それはまるで、“モーセの海割り”のように。
やがて、その道の果てに重厚な石造りの扉が現れた。
温かな光に満ちた書庫の中で、その扉だけが冷たく、異質なもののようだった。
「……あれが、審判の間へ続く扉さ」
扉に視線を向けたまま、モルティナが静かに告げる。
彼女はこちらに目配せをすると、扉に向かって歩き始めた。俺も慌てて立ち上がり、その後を追う。
遠くからでも威圧感があったが、目の前に立ってみると、それは想像以上に巨大で、どこか神殿の門のような荘厳さを湛えていた。
古めかしい装飾の両引きの扉――その中心には、環と天秤を模したような彫刻が施されている。
「――準備はいいかい?」
隣に立つ俺の目を真っすぐに見つめて、モルティナが問いかけた。
この先にあるものは、きっとただの裁きなんかじゃない。
俺の魂の行き先を決める、“最後の問い”。
それを受け止める覚悟が、俺にあるのだろうか。
握った拳に無意識に力がこもる。
俺は大きく息を吸って、頷いた。
モルティナが扉の中心に手をかざすと、重たい音を立てながら扉が開く。
足元を冷たい空気が掠めた。
「……この先が、審判の間か」
扉の向こうに広がっていたのは、暗く細い道だった。
「ああ。この回廊を抜けた先で君は君自身を問われることになる――なんてね。そんなに怖がることはないよ。形式的なものさ」
モルティナは先ほどまでと変わらない調子でそう言ったけれど、その表情はどこか張りつめているような気がした。
……なんだろう、この感じ。
俺は違和感の正体を知りたくて、思わず口を開いた。
「お前、なんか――」
「ほら、行くんだろう? 暗いから足元には気を付け給えよ。躓いて転んだら、流石に笑ってしまうからね」
俺が言い終わらないうちに、モルティナが言葉を継いだ。俺の“問い”をそっと押し戻すように。
大げさに肩をすくめる仕草はどこか取り繕っているようにも見えて、俺は言いかけた言葉のその先を飲み込む。
「……モルティナは、一緒に来ないのか?」
俺は一度扉の先に視線を向けてから、代わりに別の“問い”を投げかけた。
彼女は一瞬驚いたように少しだけ眉を上げる。
そして、先ほどよりも幾分か和らいだ表情で、今度は俺の問いかけに答えてくれた。
「行くとも。君の行く先を見届けるのが“魂の観測者”たる私の役目だからね。ただ……」
そこまで言って、モルティナは困った顔でこちらを見る。
その顔はなんだかわざとらしく作ったもののようにも見えて、俺は思わず怪訝な顔で続きを促す。
「ただ……なんだよ?」
「……この扉は、“審判を受ける者”しか通れない決まりでね……寂しがり屋の君には申し訳ないが、審判の間までは一人で行ってくれ」
「誰が寂しがり屋だよ!」
先程までの神妙さはどこへやら、モルティナが口をとがらせてふざけた声色で言うものだから、思わずいつもの調子で突っ込む。
彼女の言葉はどこまでが本気でどこまでが冗談なのかわかりづらい。
この短時間で、一体何度モルティナのペースに巻き込まれているだろうか。
ふと、不安になる。
「……ほんとに、ちゃんと向こうで会えるんだよな? ここ以外に扉なさそうだけど……」
「おや? やはり寂しがり屋じゃないか。心配しなくても、嘘はついてないとも。秘密の近道があるのさ。観測者特権ってやつだね」
目を細めて人差し指をぴっと立てた彼女が、得意げな顔をした。
「さぁ、そろそろ時間だ。私は少し準備があるから、先に行き給え」
モルティナはそう促しながら俺の後ろに立つ。肩にそっと両手が置かれて、温かい温度がじわりと伝わってきた。
「……久しぶりに楽しい時間だったよ。審判が終わったら、君とはしばらく会うことはないだろう……というか、そんなにすぐ会いに来られても困るけど」
くすりと笑いながらそう言ったモルティナが、小さく息を吐く。
肩に置かれた手に、ぐっと力が入った。
「私はいつでも君を見ている。前を向いて進めよ、一ノ瀬創」
「……うん。ありがとな。――んじゃ、いってきます!」
モルティナの言葉に背中を押された気がして、俺は扉の向こうへと足を踏み出す。
「いってらっしゃい」
背後で温かな声が響く。
これは出発なんだ。一度終わった俺の人生の、再出発。
一歩、二歩――もう、振り返ることはできない。進むしかないんだ。
ゆっくりと扉が閉じていく音がする。
書庫から差し込んでいた柔らかな光が消えていくのと同時に、空気も変わっていくような気がした。
しんと静まり返った回廊に、俺の足音だけがやけに大きく響く。
まるで、この空間そのものに見張られているような感覚に、冷たい汗が頬を伝った。
巨大な柱が等間隔に並ぶ薄暗い一本道を、慎重に歩く。
その時間は短いようでもあり、長いようでもあった。
あまりにも静かで、時間の感覚が曖昧になる。
しばらくして、視線の奥に青白い光が見えてきた。出口だ。
小さかった光が、視界いっぱいに広がって反射的に目を細める。
そこには写真やテレビの映像でしか見たことがないような、ヨーロッパの大聖堂を思わせる荘厳な空間が広がっていた。
ただひとつ明確に違うのは、そこが法廷のようなつくりをしていることだ。
ホールの中央には証言台らしき円形の壇があり、さらにそれを取り囲むように半円状に法壇が配置されている。
入口に立っていた案内人に促されるままに、中央の台へと登る。
見上げるほどの高さの法壇には、既に審判官らしき者たちが着座していた。
皆一様に仮面のようなものを着けており、表情はわからない。
なんだか不気味だ。
彼らは同じような黒衣に身を包んで、こちらをじっと見下ろしている。
正面の一際高い位置に座している人物だけが赤衣を身に纏っていた――恐らくあれが審判長なのだろう。
その斜め後ろには、モルティナの姿もあった。
扉の前で交わした言葉通り、ちゃんとモルティナがこの場にいることに、俺は少しの安堵を覚える。
相変わらず無表情だったが、書庫で見た時よりも緊張した面持ちのように見えた。
カン、と乾いた音がひとつ鳴る。
「これより、魂主イチノセハジメの審判を始める」
審判長の声が法廷に響き渡る。
その声は低く、老年の男のもののようだった。
「この者の命環の書をここに」
彼の言葉に、奥に控えていたモルティナがすっと前へ歩み出る。
彼女は一冊の本を丁重に手渡すと、再び一歩後ろへ下がった。
黒革の表紙に銀色の文字が刻まれた――命環の書。
見るのは二度目だが、やっぱり見慣れない。
俺のものだとわかっているのに、どこか他人のもののような気がしてならない。
審判長はそれを受け取ると、表紙に手をかざした。
魔法陣のようなものが浮かび上がり、ページが勝手にめくられていく。
紙がめくれる音が響くにつれ、法壇がざわめき始める。
審判官たちの表情は読み取れないが、皆顔を見合わせて口々に何かを囁いていた。
――何かが起きている。
「……何か、あったのか?」
呟いた瞬間、壇上から誰かの低い声が聞こえた。
「記録が――存在しない……?」
それは思いもよらない言葉だった。
「は……?」
思わず漏らした声は、ざわめきの渦に紛れて消えていった。