第6節 『腹の中の方舟』
カインの視線の先――扉の中心部に刻まれている、円環のようなモチーフ。
ぐるりと目で辿ってみると、その継ぎ目に頭と尾らしきものがあることに気づいた。
一匹の蛇が、円を描くように自らの尾を咥えている。
「なんだこれ……」
「何か意味ありげなモチーフですね。んー……昔どこかで見たような気もするんですけど……」
カインが眉間に指を添えて、小さく唸った。
扉全体に施された装飾のような模様に、中心の円環――
“どこかで見た”という言葉に触発されて、俺は命星の書庫で見た扉のことを思い出す。
審判の間へ続いていた石造りの扉……あれによく似ている気がした。
俺の記憶が正しければ、あの扉の中心にあったモチーフは円環と天秤で、蛇ではなかったが。
古代チックな石扉というのは大体こういうデザインなのか、それとも何か関連性があるのか……俺にはわからなかった。
「あぁ、だめだ……思い出せない」
隣から深い溜め息混じりの声が聞こえてきて、思わず視線を上げる。
カインが眉を寄せ、苦虫を噛み潰したような、困り果てたような、何とも言えない表情をしていた。
「だ、大丈夫か? すげえ顔してるけど」
「いや、はい。大丈夫なんですけど……すっごくもやもやするんですよ。わかりそうでわからないこの歯痒い感じ……!」
読んだ本の内容だって一言一句覚えていそうなこいつが、こんな風になるのは珍しい。
「……お前の記憶力でも思い出せないってことは、消えてる記憶のほうなんじゃねえの?」
「うーん……そうかもしれませんね……」
「んじゃあ、この先に進んでったらお前の記憶を取り戻す手掛かりも見つかるかもしれないな」
俺の言葉に、カインが意外そうに目を丸くした。
「行ってみようぜ。どっちみち“ここ”からは出られないっぽいし」
肩をすくめて、入口の石扉を親指で示す。
カインは片方の口角をくいっと持ち上げると、どこか得意げに口を開いた。
「“既知より未知を見よ、その先に道はある”ですね」
「……なんだそのダジャ――格言みたいなの」
飛び出しかけたツッコミを途中で飲み込み、言い直す。
カインは不思議そうに小首をかしげた。
「……? 『シェリン・フォードの事件簿』に出てくるシェリン探偵の名言ですよ?」
まるで「地球は丸い」くらいの常識を語るような口ぶりで、馴染みのない名前をさらっと出される。
今度は俺の眉間に皺が寄る番だった。
「何それ、誰それ?」
「えぇっ、知らない人はいないくらいの名著ですよ!?」
俺の問いに、カインは目を見開く。
「そんな……まさかハジメさんがいた世界にはないんですか……?」
一瞬、驚愕をあらわにしたかと思えば――その顔はみるみるうちに青ざめていった。
「この世の終わりみたいな顔すんなよ。そんなにショック受けることか?」
「受けますよ! そういう顔もしますよ! シェリン・フォードが存在しない世界なんて、僕にとっては紅茶のないティータイムと同じですから」
「そこまで!? え、参考までに聞くけど、どういう話……?」
「ざっくり言うと、霧の街で次々と難事件を解決する名探偵の物語です」
「……シャーロック・ホームズの話してる?」
「え、誰です……?」
「だーッ、収拾がつかねえ! ……いい、なんでもない! ホームズのことは忘れてくれ」
「……そうですか……?」
強引に話を畳んだ俺に、カインが再び小首をかしげる。
絶対に納得していないやつだ……きっとまだホームズのことが気になるのだろう。
――時々起きる、この“異世界すれ違いコント”みたいな現象はどうにかならないのか。
カインは少しの間、名残惜しそうな顔をしていたが、すぐにいつもの涼しい笑みを浮かべて続けた。
「……ともあれ。シェリン・フォードシリーズは読んでおいて損はありませんよ。事務所の本棚にありますから、良かったらハジメさんも読んでみてくださいね」
「事務所の本棚って……もしかして、あのずらーっと並んだ赤茶色の分厚い本のこと言ってますかねカインさん」
頬を引きつらせながらそう口にすれば、カインはこくりと頷く。
あれは……「読んでみてください」「そうかじゃあ読んでみよう」で気軽に読める代物ではないのではなかろうか。少なくとも、異世界で初めて読む本としては敷居が高いような……。
「かなりの長編シリーズにも関わらず、いまだに著者の名が不明というのも興味深くて……! あれはまさに僕にとっての聖典と言っても過言では――」
「あーわかったわかった! 今度読むから!」
うっとりとした顔で、聞いてもいないことまで熱く語り始めたカインを慌てて制止する。
放っておいたら、一時間でも二時間でも語り続けそうだ。
「……お前、意外とオタク気質だな」
「おた……?」
「なんでもない。ほら、先進むんだろ? こんなとこで油売ってても腹減るだけだ。さっさと行こうぜ」
俺は一歩踏み出し、薄暗がりの奥へと視線を向けた。
***
二人分の足音だけが、通路に淡く反響する。
壁に連なる燭台の明かりが、俺たちを奥へ奥へと導いているようだった。
「……にしても、なんだこれ。どこ見ても蛇ばっかりだな」
右を見ても、左を見ても石壁に彫られた蛇の紋様が目に入る。
ただの装飾にしては存在感が強いというか――妙に“見られている”ような気がする。
「入口の蛇といい、この遺跡にまつわる象徴的なものなんでしょうね」
「象徴ねぇ。……そもそもこの遺跡って何のためのものなんだ?」
「実際のところはわかりませんけど、“お宝が眠ってる”なんて言われるくらいですから……それはそれは偉大な御方の墓所かもしれません」
カインの言葉に、いつだったかテレビで見た古代遺跡の特集を思い出す。
墓所に残された装飾や壁画は、そこに眠る人物の地位や信仰、あるいは生前の愛好品を象徴しているものが多い、とかなんとか……。
「……もしそうなら、その“偉大な御方”ってのは無類の蛇好きか? もしくは、そいつ自体が蛇か? 蛇王か?」
「なんですか、蛇王って……。まぁ、どちらにせよ……ここが墓所なら、僕たちは墓荒らしってことになっちゃいますけどねぇ」
そんな軽口を交わしているうちに、俺たちは通路の終点へと辿り着いた。
目の前に立ちはだかる巨大な扉と、その手前に据えられた石造りの台。
「おー……なんか急にイベント発生の気配がしてきたんだけど」
「ええ。いかにも“謎を解いてください”と言わんばかりというか……」
石扉の中央には、入口と同じ蛇の意匠――言わずもがな、である。
俺は視線を扉から台の方へと落とした。
天板には何やらパズルめいたものがあるが、まず気になるのは台の前面に彫られた文字列だ。
恐らくこれがヒントなのだろう。脱出ゲームの基本だ。
しゃがみ込んで目を凝らす俺の頭上から、カインの声が降ってくる。
「これはまた……かなり古い文字ですね。ハジメさん、読めます? 僕が読みましょうか?」
「……おいおい愚問だぜ、カインさんよぉ。俺は地獄に来た初日からこの世界の言語に適応してんだぞ? 古代文字だろうが何だろうがお茶の子さいさい、TRUST MEだぜ」
「はぁ……なんですかそのキャラ……。なんか不安だなぁ」
俺はカインの不信感のこもった呟きを鼻で笑いながら、目の前の文字列を眺めた。
「……」
無機質な石の表面で、線と丸と三角が喧嘩している。
「…………?」
首をひねって黙り込んだ俺の背中に、カインの視線が刺さる。
これは本当に文字か?
ダメだ、全く読める気がしない……どう頑張ってもアートの一種にしか……
「――さ、カイン先生。出番ですよ、お願いします」
俺が揉み手全開で振り返ると、カインはじとりと目を細めた。
「……そんな気はしてましたよ。まったく、こういう時だけ都合が良いんですから……」
そうぼやきながら台の前に膝をついたカインは、軽く咳払いをして文字を読み上げ始める。
「――裁きの時は来たり。選ばれしは新たな世界へ至り、選ばれざるは滅びの海に沈む。舟は小なり、選定を為せ。然らば扉は開かれん――だそうです」
カインが読み上げ終えるのと同時に、胸の奥が、ちくりと刺されたように痛んだ。
「はぁ……裁きとか、選ばれる選ばれないとか、そんなんばっかりだな……」
「え?」
うっかり、声に出ていた。
ついこのあいだ“最後の審判”とやらで地獄行きを言い渡された身としては、笑えないワードチョイスだ。
「いや、こっちの話」
軽く首を振って誤魔化し、俺は台の上へと視線を戻した。
天板には、掌より少し大きい正方形の石版が六枚。
それぞれに人の姿らしきものと、またもや古代文字が彫られている。
「これは……肩書きみたいですね。皇帝、戦士、囚人、老人、子供、奴隷……ですか」
「何とも言えないラインナップだな」
そして、左右には石版四枚分ほどの窪みが二つ。
右側の窪みには太陽を思わせる円と光芒、左側には荒れ狂う波のような模様が刻まれていた。
「右は太陽……文脈からいくと新たな世界ってやつか? んで左が滅びの海、と」
「でしょうね。だとすると――」
カインは銀縁の眼鏡をくい、と押し上げた。
「この六人のうち、誰を生かし、誰を殺すか。そういう“選定”を、僕たちにやらせたいんでしょう」
「趣味悪……神様気取りしろってかよ」
思わず本音を漏らせば、カインが小さく笑う。
「同感です。とはいえ、何かしらの答えを出さないと、ここを通らせてはいただけないようですから――」
「へいへい、やるしかないってわけね」
俺はひとつ息を吐き、石版を見下ろす。
六人分の瞳がじっとこちらを見ている気がした。




