第2章-第3節 『守り人と還らずの森』
あ、死ぬかも――そう思った時には、少年の指が引き金を引いていた。
弾けるような音が耳を劈き、反射的にぎゅっと目を瞑る。
しかし、来るはずの痛みと衝撃はない。
俺が感じたのは、頬を掠めていく風圧と、一瞬瞼の向こうに走った閃光だけだった。
そして直後に響いた、液体が飛び散るような音。
「へ……」
間の抜けた声を漏らしながら薄っすらと目を開けると、少年が先ほどと変わらない表情でこちらを見ていた。いや――正確には、俺の向こう側を。
ゆっくりと背後を振り返った俺は、思わず口元を引きつらせる。
さっきレオにぶっ飛ばされたはずの蝿が、頭部を失ってひっくり返っていた。
節くれ立った脚がかすかに痙攣していて、ちょっと気持ち悪い。
さらには、溢れ出た体液が自身を溶かしているのか、地面に溜まった黒い液体が泡立ちながら異臭を放つ始末だ。
正直言って、かなりグロテスクかつショッキングな現場だが、悲鳴を上げる者はいない。
超絶虫嫌いの一名に関しては、“悲鳴すら上げられない”というのが正しいだろうが……。
「ありゃ……倒したと思ったんスけどね~」
同じように後ろを振り返ったレオが、“蝿だったもの”を見ながらあっけらかんと言う。
女の子ってこういうの苦手だと思ってたけど……俺の偏見か。
全く気に留める様子もなくへらりと笑う彼女のもとへ、銃を下ろした少年が近づいてくる。
彼はレオを見上げると、その額を指先で軽く小突いた。
「たーけ。“思った”じゃ意味ねえだろ。お前はいつも詰めが甘いでかんわ……やるなら確実に仕留めろ」
「へーい……」
少年に窘められたレオが、耳をしゅんと垂れさせる。
唇を尖らせながら爪先で地面を突っつく様子は、なんだか幼く見えた。子供というよりは、飼い主に叱られた大型犬っぽいけど。
そんなレオを見て小さく息を吐いた少年が、突然こちらに人差し指を向けた。
「ほんで、そこのお前!」
指の先が示すのは俺かカインの二択だが――
そう思って隣を見れば、目が合ったカインに無言で肩をすくめられる。
「え、俺……?」
「お前しかおらんがや」
自分を指差して小声で呟いてみると、すかさず鋭い声が飛んでくる。
少年は一歩距離を詰めると、下から俺を睨み付けた。
「人の妹にベタベタ触っとんじゃねえ!」
「はぁ!? いやいやいや、俺は触ってねーよ! 触ってきたのアンタの妹なんだけど!?」
見当違いもいいところな主張に、俺は異議を申し立てる。てか、お前が兄貴かよ。
今にも掴みかかられるんじゃないかというところで、レオが間に割って入ってきた。
「ちょっとおにい! そういうの恥ずかしいからやめてっていつも言ってるじゃないスか! だからみんなにシスコンって言われるんスよぉ……同じ日に生まれたのに、なんでそんな過保護なんスか……」
「同じ日だろうが兄貴には変わりねえがや。てかなんだ“シスコン”って。妹と連携する戦術か?」
「それ“シスターコンバット”……! 全然違うッス! シスコンっていうのは、シスター……シスターコン……コンプリート?」
「シスターコンプレックスな!?」
思わず大声で突っ込んでしまった俺に、兄妹が揃って「へぇ~」と感心したような声を上げた。
流石は双子と言うべきか、あまりにも息がぴったりで少し笑いそうになる。
「ったく……若者言葉ってのはなんでもかんでも省略したがるでいかん」
いかにも“今時の若者”らしい彼の口からそんな言葉が出てくることに、ギャップを感ぜざるを得ない。
独特の喋り方も相まって、硬派を通り越して頑固な爺さんみたいだと思ってしまう。
俺に向けられていた怒りの矛先は、いつの間にか逸れていたようだった。
「……まぁ、ええわ」
ひとしきり文句を言い終えた後、彼は溜め息交じりにそう言うと、俺の目の前に手を差し出した。
「……レイ・ルーガルだ」
かなりぶっきらぼうではあるが、挨拶の握手を求めてくるあたり意外と友好的なのかもしれない。
「一ノ瀬創。ハジメでいいぜ……っいでででで!?」
差し出された手を取った瞬間、骨が軋むほどの力で握り返され、思わず悲鳴を上げる。
俺の知ってる挨拶の握手と違うんですけど。友好ってなんだっけ。
「ふん。俺はまだ許しとらんでな」
どうやら、先ほどの件はチャラになっていなかったらしい。
チャラもなにも、元より俺は無実だ。潔白だ。
ぱっと手を放されたあとも、右手にじんじんと鈍い痛みが残っていた。
「あ、僕はカイン・レイエルです」
入れ替わるように、今度はカインが手を差し出す。
レイは一拍だけ間を置いてから「ん」と小さく頷くと、軽く握手を交わした。
「俺のときと違くない!?」
抗議の声を上げるも、取り合ってくれる様子はない。
……チクショウ、冤罪なのに。なんという理不尽か。
「はぁ、いいよもう……」
盛大に溜め息を吐きながら肩を落とせば、レイの左手に握られた“それ”が再び目に入る。
木製の銃床に、真っ直ぐ伸びた銃身。
あのときは咄嗟でよく見えなかったが――やっぱり見間違いじゃない。
本物なんて見たことはないが、これが銃であることは子供でもわかるだろう。
火薬と金属と人間の業が作り出した、物理兵器。
近代技術の産物ともいえるそれは、この世界においてあまりに異質だった。本来なら、ここにあるはずのないものだ。
俺の視線に気が付いたのか、レイが体の横でそれを軽く持ち上げた。
「なんだ、そんなにこいつが珍しいか?」
「いや……だってそれ、銃……だよな? ライフル的な……」
怪訝な顔をしたレイに問いかけられ、おずおずと質問を返した。
見りゃわかんだろ、と冷たくあしらわれるだろうか。
しかし、俺の予想に反して、彼は小さく首を傾けた。
「ジュウ? んだそりゃ。どう見てもただの杖だがや」
「ん゛~~俺の知ってる“杖”とだいぶ違うんだよなぁ……一応聞くけど、杖って魔法とか使うあれで合ってるよな?」
「それ以外に何があんだよ……まぁ、こいつはちっと特殊だでな。込めた魔力がここんとこの管を通って放出されるもんで、一点集中でどえらい威力と飛距離が出せんだわ。……あと、なんかここを覗くと狙いが定めやすい」
素っ気ない口ぶりとは裏腹に、レイは饒舌だった。
俺が興味を示したことが嬉しかったのだろうか。少し得意げにも見える。
彼の解説を聞けば聞くほど「どう聞いてもライフルだろそれ」としか思えなかったが、銃の概念がないのなら口に出しても話がややこしくなるだけだ。
本人が杖だと思っているならそれでいいか。
なぜこの世界にそんなものがあるのかという謎は残るが、ひとまずオーパーツ的なものだと思っておくことにする。
そんな思考の末、当たり障りなく「へぇ……」と相槌を打った俺に、レオが無邪気な笑顔を向けた。
「んへへ~、おにいの武器かっこいいッスよね~! うちの家に代々伝わる杖なんスよ! じいちゃんたちは穿雷の導杖って呼んでて――」
「おい、あんまベラベラ喋んな」
目を輝かせながら興奮した様子で話す彼女の口を、レイの手の平が塞ぐ。
「むむんぐ、むぐむぅ……」
レオが何か言いたげにくぐもった声を上げると、レイは眉間に皺を寄せた。
「……“おにいも結構喋ってた”だァ? 俺はお前と違って家のことまでは喋っとらん。余計なことばっか言いやがって……」
そんなことをぼやきながら、やれやれと言った様子でレイが手を離す。
ようやく解放されたレオは「ぷはっ」と音を立てて、息を吸い込んだ。
……俺にはむぐむぐ言ってるようにしか聞こえなかったけど。やっぱり、双子だから聞き取れるんだろうか。
ひとり感心していると、銃を担ぎ直したレイがこちらに鋭い瞳を向ける。
腕を組みながら小さく息を吐いた彼は、話を切り替えるように口を開いた。
「……で、お前らはここに何しに来た? どうせ遺跡目当てだろうが、一応聞いてやる」
「決めつけがすげえ。もはや聞く気ないだろお前……まぁ、その通りなんだけど」
なんだか、尋問でもされてるみたいだ。そうでなくても、義務的な口ぶりだった。
俺の返答を聞くや否や、レイは鼻を鳴らす。
「ふん、やっぱりな。こんなところに観光に来る物好きはまずおらん」
「おや。ということは、僕たち以外にも遺跡目当ての方が来たんですか?」
カインがすかさず問いかけると、レオが自信ありげに返事をする。
「うん! 今月だけでも結構見かけたッスよ! 両手じゃ足りないくらい!」
「そんなに……!?」
両手をぱっと広げたレオに向かって、思わず目を見開く。
カインが「儲け話がある」なんて言っていたから、知る人ぞ知る裏情報的な何かかと思っていたが――
「レオたちはあんまり街には行かないから、詳しいことはわかんないッスけど……噂でも広まってるんスかね~?」
「俺は遺跡の噂なんて全然知らなかったけど……。有名な話なのか?」
「どうでしょう? 僕も、たまたま賭場の客に聞いただけなのでなんとも……。もしかしたら、一部の界隈で広まってる話なのかもしれませんね」
「賭場で聞いたのかよ、あの話! まぁ、薄々そんな気はしてたけど……。どんだけ通ってんだお前」
「やだなぁ、賭場も立派な社交場ですよ? お金が動くところってのは、情報が集まりやすいんですってば。……あそこは聞き出す手段にも困りませんし」
もっともらしいことを言いながら、カインがへらりと笑う。
なんか最後にぼそっと不穏な言葉が聞こえた気がしたが、追及するのは怖いからやめておこう。
そんな俺たちのやり取りをよそに、レイがふいに眉をひそめて低く呟いた。
「ったく……誰が流した噂か知らんが、いい迷惑だ」
「迷惑……?」
思わず聞き返すと、彼はげんなりした顔で肩をすくめた。
「あぁ。俺らはこの森の“治安維持”を任されとるでな。入ってくる人間が増えて、モンスターどもも騒がしくなっとるし、巡回しとったらお前らみたいに遺跡を探しとるやつにようけ会うし……余計な仕事が増えて面倒くさい」
なるほど。それじゃあさっきの質問も、仕事の一環だったってわけか。
面倒くさいなんて言いながらもちゃんと対応しているあたり、見かけによらず真面目らしい。
それに――話し方こそ粗暴だが、兄貴の性分なのか、なんだかんだ面倒見がいい気がする。
とはいえ、愚痴を漏らしたくなるくらい噂が広まっているというのなら、一つ懸念が浮かぶ。
「そんなにたくさん人が来てるんじゃ、もう遺跡の中スッカスカかもしれねえな」
「……んや、それはないんじゃないッスかね? 多分、遺跡に行けた人ってレオたちが見た人数より少ないッス」
「どういうことだ?」
俺が尋ねると、レオは言葉を選ぶような間を置いてから、少し真面目な表情で口を開いた。
「う~ん……だって、この森広いッスから。迷う人もいっぱいいるし、モンスターに襲われちゃう人もいっぱいいるんス」
「……そもそも素質のねえやつは遺跡に辿り着くことすら出来んって話だ。その上、あそこに入って出てきたやつは見とらんでな」
「それって……」
口の中が渇くのを感じながら、言葉の意味を咀嚼する。
遺跡に“辿り着けない者”は、森から出ることが出来ず――
“辿り着いた者”は、その先で二度と姿を見せない。
どちらにしても、帰ってくる者はいないということだ。
もしそれが事実なら――俺たちは今、とんでもなくヤバい場所に向かおうとしてるんじゃないか。
そんな思考が頭をよぎった。