第2章-第2節 『ボーイ・ミーツ・×××』
それは“巨大な蝿”――そう形容するしかない化け物だった。
平均より幾分か背の高い俺でさえ、見上げざるを得ない。恐らく、体長は三メートル近いだろう。
森なんだから、虫くらいいるだろうと思ってはいたが……こんな規格外な巨大昆虫がいるなんて聞いていない。
「……お、おいカイン……なんだこいつ」
喉の奥を引きつらせながら、俺は隣の相棒を振り返る。
しかし――
「はぁ!? どこ行った!?」
今の今まで隣にいたはずのカインが、忽然と姿を消していた。
慌てて周囲を見渡せば、数メートル先で跳ねるように揺れる濃紺のコート。
「逃げ足速ッ!」
その叫び声を号砲にするかのごとく、駆け出す俺の後ろで羽音が唸りを上げた。
濡れた土を蹴るたび、泥が足元で跳ねる。
逃げるカイン。カインを追う俺。そしてそれを追いかける蝿――最悪の三段ロケットだ。
「待てこら! 置いてくな!」
「ひぃっ、無理です! 無理無理無理無理!」
いつになく情けない声を上げたカインに、俺の中で仮説が確信に変わる。
そうかそうか、つまりお前は虫が苦手なんだな。それならしょうがない……と、なるわけがないだろう。そんな理由で見捨てられたんじゃ、魂がいくつあっても足りん。蜥蜴の尻尾か俺は。
やっとのことで追いついた薄情者の横顔に向かって声を荒げる。
「お前なぁ! 俺を置いて逃げるなよ! 相棒だろ? 一蓮托生だろ!?」
「一蓮托生でも、死なば諸共でもなんでもいいですけど、虫だけはダメなんですってば! 僕の魂が全力で拒否してます」
「拒否してる場合か! あー、あれだ……! お前、なんか魔法とか能力とかあるだろ、そういうの! 今使え、今すぐ使え!」
「あるにはありますけど……! こういうのには向いてないんですよぉ!」
「こんなときに役に立たねえって、なんのためにあるんだよ!」
「知りませんよそんなこと!」
息も絶え絶えに叫び合いながら、森を駆け抜ける。吸い込んだ空気が喉をひりつかせた。
徐々に大きくなる羽音に、振り返るまでもなく距離が縮まってきているのがわかる。
追いつかれるのも時間の問題だろう。
……クソ、何かないのか。この状況を脱する何か――
そのとき、ぬるい空気を切り裂くように、一筋の風が頬を撫でた。
木々の向こうに、わずかに赤い空が見える。
「……出口か!?」
顔を見合わせた俺たちは、希望に突き動かされるように加速した。
森の影がふっと引き、光が差す。
開けた視界の中で、俺は足を止めた。
「は……?」
そこは、森の終わりなんかじゃなかった。
「行き……止まり……?」
続いているはずの地面が、断ち切られたように唐突に終わっていたのだ。
下は深い霧に覆われていて、高さも距離も感覚がつかめない。
跳べるはずも、降りられるはずもなかった。
背後から迫る音が、鼓膜を破らんばかりに圧を増し、容赦なく絶望の底へ突き落としてくる。
俺たちはゆっくりと振り返った。
すぐ目の前でホバリングをする蝿が、濁った赤の複眼を鈍く光らせる。
前足を擦る様は、ご馳走を前に揉み手をしているようにも、舌なめずりをしているようにも見えた。
……蝿って、何食べるんだっけ。
全身が硬直する中で、唯一忙しなく動く脳が、場違いにそんなことを考え始める。
確か、花の蜜や果物を主食にしてるやつもいれば、死肉を食べるやつもいるとかなんとか――
ぶしゅ、と音を立てて、口器の先から粘ついた液体が滴り落ちる。
それが地面に触れると、青々と茂った草は一瞬で泡立ち、黒い泥へと変わっていった。
まるで、命の痕跡そのものを溶かしていくようだ。
――その様子を見れば、目の前の蝿が後者であることは明らかだった。
あれを浴びたら……皮膚が焼けて、筋肉が腐って、骨まで溶けるんじゃないか。
そうして形のなくなった俺を、あの口器で啜るに違いない。
思わず想像してしまった死に様がリアルすぎて、吐き気がしてきた。
「どうするよ、名探偵」
「はは……これは……正しく“詰み”ですね」
カインは、目の前の存在を直視しまいとしてか、あらぬ方向を見つめながら引きつった笑みを浮かべる。
完全にお手上げだった。もはや肩を並べて立ち尽すほかない。
ああ、俺たちはここで終わるのか――
そんな諦めにも似た感情が、喉元までせり上がった、まさにその瞬間だった。
「どっせえええいッ!!」
突如、謎の掛け声とともに横合いから何かが飛び出してきた。
正体を視認するよりも早く、その影は空中で身を捻り、蝿の横腹に拳を叩き込む。
鈍い音を立てて歪んだ黒い巨体は、木々を薙ぎ倒しながら地面を転がっていった。
あまりに衝撃的な光景に、安堵のため息が喉の奥へ引っ込む。
……一体どれだけの力で殴れば、あんな化け物が吹っ飛ぶんだ。
呆気に取られたまま、俺とカインは土煙の向こうに目を凝らした。
吹き抜けた風が、砂塵を晴らす。
姿を現したのは、くすんだ亜麻色のショートヘアに、ぴんと立った獣耳――猫? 犬? いや、狼だろうか――を揺らす少女だった。
「レオ・ルーガル! 推して参ったッス!!」
……それ、殴る前に言うやつじゃねえのかよ。
拳を突き出したまま高らかに名乗りを上げた彼女に、心の中で小さく突っ込む。
「いや~、間一髪だったッスね~!」
琥珀色の瞳と目が合ったと思ったのも束の間、彼女――レオは尻尾を揺らしながら、勢いよくこちらに駆け寄ってきた。
いや……デッカ。
目の前に立った彼女は、俺やカインに引けを取らないくらいの背丈だった。なんなら、俺より少し大きいんじゃないか。
年の頃は俺と同じくらいに見えるが、筋肉質なのも相まって圧がすごい。
丈の短いトップスから曝け出された腹筋に、俺の人並みの筋肉が頼りなく思えてくる。
「……大丈夫? ケガとかしてないッスか?」
そう言って俺の肩に触れたレオが、顔を覗き込んできた。
不意打ちの距離の近さに心臓も体温も跳ね上がる。
「ちょっ、近い近い近い」
思わずのけぞった俺を、彼女が不思議そうに見つめる。
「だっ、大丈夫、大丈夫だから! ケガしてないから……!」
視線を逸らしながら必死にそう返すと、彼女はようやく手を離した。
「ならよかったッス!」
親指をぐっと立てて笑う様子が眩しい。
鋭い犬歯が少し怖いが……それを上回るくらいの人懐こい笑顔だ。
なんというか、全体的に大型犬を彷彿とさせる。
過ぎ去った春嵐にそっと息を吐くと、隣から小さく笑う気配がした。
ちらりと横目を向ければ、カインが目を細めて揶揄うような笑みを浮かべている。
「ふっ……ハジメさん、顔赤いですよ」
「う、うるせー! 赤くねえよ!」
図星も図星な指摘に、余計に顔が熱くなる。
むきになって言い返した、その直後だった。
視界の外から、がさり、と草木の揺れる音が耳に入る。
まさか、また巨大昆虫じゃないだろうな――そう思ったのはカインも同じだったのだろう。さっきまでとは打って変わって、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
恐る恐る茂みへ顔を向ければ、そこにいたのは巨大――とは程遠い、至って普通の少年だった。
ミリタリージャケットのようなモスグリーンの上着を羽織った彼は、顔立ちも髪色も、特徴的な獣耳もレオに瓜二つだ。
年齢も同じくらいに見えるが、背丈からして弟……だろうか?
彼女とは違って、伸ばされた襟足と左耳に開いた二連のピアスが近寄りがたさを感じさせる。
なんか……学校にもいたな。こういう感じで、いつもギターケース背負ってるやつ。
名前も知らないクラスメイトの顔が、ふと頭をよぎる。
地獄に来て初めて、同年代っぽい奴らと出会えたのはちょっと嬉しい。なんて、呑気に思っていたのだが――
「……動くな」
低く鋭い声とともに、少年は流れるような動作で、肩から下ろした“それ”を構えた。
彼が手にしているのは、勿論ギターなどではない。
真っ直ぐに俺の方へ向けられた銃口。
「え……」
熱を持っていた頬が、一気に冷える。
――どうしてここに“銃”がある?
――どうして俺に向けてる?
そんな疑問が、物凄い速さで俺の頭の中を駆け巡った。