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ヨミガエリの失楽園-Lost Eden-(ヨミガエリのロストエデン)  作者: 朝日一晴
第1章 『地獄の沙汰も、縁次第』
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第1章-第2節 『プランクトン・デイドリーム』

「まもなく一番線に電車が参ります。危ないですから黄色い線の内側までお下がりください」


 小さなノイズとともに流れたアナウンスに、肩が跳ねる。

 イヤホン越しでもはっきりと聞こえたそれは、週に五日、毎朝聞く決まり文句だった。

 

「あぶね……一瞬寝てた」


 昨日、夜更かしをし過ぎたせいかもしれない。

 ほんの少し目を閉じていただけのはずなのに、なんだか変な夢まで見た気がする。

 誰かと何かを話していたような……けれども、それを思い出そうとすればするほどに記憶はぼやけていく。


 頭の中心のあたりがもやもやして気持ち悪い。

 そのむず痒さを少しでも紛らわせたくて、スマホの画面に指を滑らせる。

 気がつけばほぼ無意識に、ソシャゲのアイコンをタップしていた。

 

 毎日同じゲームにログインして、ぎゅうぎゅう詰めの電車に乗って、ただ何となく学校に行って――それが俺の“習慣”なのだ。

 そうしたいからしているというよりは、ネズミが回し車の上をただひたすら走っているのに近い。


 心のどこかで変化を望みながら、それでもこの循環から抜け出そうとしないのは、そこに一種の安心を得ているからだろうか。


 まぁ、自分で変えようとしなくても、どうせあと半年もしないうちにこの生活とはおさらばだ。

 せいぜい降りる駅が変わるだけかもしれないが。


 そんな青くさい持論を脳内でこねくり回していると、ふいに腰のあたりに何かがぶつかった。霧散した思考と一緒に、取り落としそうになったスマホを慌てて握り直す。


「ごめんなさい!」


 声の主は、小学校低学年くらいの男の子だった。

 余程急いでいるのだろう。こちらを振り返りもせず、叫ぶように謝って走っていく。

 転ぶなよーなんて思いながらその背中を見つめていると、ランドセルの横で揺れるマスコットが目に留まった。


 ふわふわの白い毛並みに、くるんとした角。赤いリボンと小さな金の鈴。

 特徴的な笑顔の、羊のぬいぐるみ。


 あ、懐かしい。ミルラムじゃん。

 俺が小学生のときに流行ってたキャラクターだ。今時そんなの持ってるなんて珍し――


 そこまで考えて、妙な感覚を覚える。


 ……あれ? これ前にもなかったか?

 似たような、というか全く同じ場面を経験したような気がしてしょうがない。


 子供がぶつかって、小さな鈴の音がして、あのマスコットを見て同じことを思って……。

 それは既視感というには、やけに生々しいものだった。

 

 ふと、視線をスマホに戻す。

 いつの間にか、明滅していた《NOW LOADING》の文字が消え、タイトル画面が表示されていた。


 ――今、俺は()()()()()()()、スマホを見たのか?

 水面に墨を落としたように、違和感がじわりと広がっていく。


 なんか変だ。


 思えば――あのアナウンスで目を開けた瞬間から、ずっとおかしいんだ。

 視界に映るものも、体の動きすらも、“今”の俺が選んでいる気がしない。

 結末が決まっている映像を、一人称視点で追わされているような――


 画面の中央に浮かぶ《START》に指がかかる。

 ……押すな。これ以上進めたら、だめだ。

 だって、俺はこのあと――


 これは“今”じゃない。思い出した。

 俺の記憶だ。“あの時”をなぞってるんだ。


 ――押すな押すな押すな。


 俺はこの先を知っている。


 ――止まれ止まれ止まれ。


 意志に反して、“俺”は迷いなく画面をタップした。


「今日もがんばっていきましょう、マスター!」


 ホーム画面でキャラクターが微笑んだ直後、電車の到着を知らせるメロディが鳴り響く。


 心臓が掴まれたように跳ねた。着実に“終点”へと向かっている。

 周囲の音が遠くなって、自分の呼吸音だけが大きく聞こえた。


 瞬間、背中に強い衝撃を感じて、よろけた体が前へと進む。


 一歩。二歩。

 スニーカーの靴底が、点字ブロックの凹凸をかすめた。


 すべてがスローモーションのように見える。見えるだけだ。

 ただただ見えるだけで、体はまるで反応してくれない。


 もう一度右足が前に出たときには、そこに地面はなかった。


 世界が傾く。

 風が頬を叩き、耳鳴りが弾ける。


 目前に迫る鉄の塊。その先頭の窓越しに、青ざめた運転士の顔がやけに鮮明に見えた気がした。

 視界がぐにゃりと歪んで、真っ暗な闇に覆われる――


 天地がひっくり返るような浮遊感とともに、景色が元の書庫に戻った。

 やっぱり、夢じゃない。

 

 胃の底の方から、熱いものが迫り上がってくる。口の中に広がる酸味。

 

「お゛ぇっ……ッ」

 

 びちゃ、と鈍い音を立てて透明の液体が床を汚した。

 喉の奥が焼けるように痛い。


 どうして忘れていた?

 俺は――あの時、確かに死んだじゃないか。


 自覚した途端に、体中の神経がそこに戻ったような錯覚を起こす。

 あの瞬間の、痛み。無力感。恐怖。全てが大きな波のように容赦なく押し寄せてくる。


 俺はただ肩で息をすることしかできなかった。

 俯いて、動けないままでいる俺の耳にモルティナの声が響く。


「思い出したみたいだね」


 その声は思ったよりも近くから聞こえた。

 すぐそばで微かに衣擦れの音がして、温かいものが背中に触れる。モルティナの手だった。

 彼女は何も言わなかったが、俺を落ち着かせようとしてくれていることはわかる。


 背中をゆっくりとさすられるのに合わせて、息を吸って吐く。

 それを繰り返しているうちに、ふと鼻をくすぐる香りに気づいた。

 古い紙と、金木犀のような――どこか懐かしさを覚える匂い。


 なんだろう、この匂いを嗅いでいるとなんとなく落ち着く気がする。

 まだ少し喉が引きつるが、呼吸は楽になってきた。


 しばらくの沈黙のあと、すっと立ち上がったモルティナが、おもむろに口を開く。

 

「……少しティータイムにしないかい? 喉が渇いた」

 

 淡々としていて、あくまで“自分のため”という口ぶり――けれども、その奥には彼女なりの気遣いがあるように感じた。


 俺が小さく頷くと、モルティナが指を鳴らす。

 瞬間、俺の足元の水たまりはまるで最初から何もなかったかのように消えた。


 思わず目を見開きかける――いや、そういうものなのかもしれない。

 ここは“あの世”なんだから。物理法則なんて、生きてた頃とは違って当然だ。

 半ば強引に、そう納得することにした。


 そんな俺を見ながら、モルティナは口元に手を当てて考えるようなそぶりをする。


「ふむ……今日はハーブティーが飲みたい気分だ」


 そう言って壁際の棚の方へ歩き出すと、彼女は突然振り返った。

 その目はじとりと細められている。


「……コーラがいいとか言わないでくれよ? この私お手製のハーブティーより、そんなジャンクな飲み物を選ぶようなら――君の来世はプランクトン確定だからね」


 俺には、彼女の言葉が本気なのか冗談なのかはわからなかった。

 けれども、神秘的な風貌にはどこか不釣り合いな言葉選びに肩の力が抜ける。


 おかげで、コーラの代償がでかすぎるだろ……と思えるくらいには俺の頭も冷静さを取り戻し始めた。


 当の本人はといえば、いつの間にかテーブルの上にティーセットを並べ、慣れた手つきでポットに不思議な色の乾燥した草のようなもの――ハーブティーというからには、きっとハーブなのだろう――を入れていく。


 ……本当に、ちゃんと淹れてくれるらしい。


 ほどなくして、湯気の立ち上る香りがふわりと広がり始める。

 甘さの奥に、草花のような爽やかさ含んだそれは、どこか季節の変わり目を思わせた。


 モルティナはお茶を注いだカップを無言のまま俺の前に置くと、一瞬だけ迷ったようにこちらを見つめ――それから、そっとカップの向きを回転させた。

 

 俺が持ちやすいように調整してくれたらしい。

 態度はぶっきらぼうな感じがするが、端々には気遣いが滲んでいる。俺の思い込みでなければだが。


「……ありがとう」

 

 小さく礼を言うと、モルティナは視線をそらしながら、少しだけ唇の端をゆがめた。

 

「礼なんていらないよ。人間の心というのは、繊細だからね。これも観測者の業務の一環さ」

 

 いわゆるツンデレのようにも聞こえるその言葉には突っ込まず、俺はそっとカップに口をつけた。

 口の中に、やわらかな甘みと草のようなほのかな苦味が広がる。知らないどこかを思い出すような味だ。

 喉を通るころには、張りつめていた胸の奥の何かがほぐれ始めていた。

 

「たしか……リラックスには糖分補給も有効なんだろう? これを食べるといい」

 

 そう言って、モルティナがそっと置いたのは、小皿に並べられた――色褪せた茶色の、歪な円形の“何か”。

 乾いた質感で、ところどころひび割れている。


 ……正直に言うと、何かの遺物にしか見えなかった。

 

「えっと……モルティナ、さん……? これは……」


「ん? どこからどう見てもクッキーだろう。さっき書庫の奥で発掘したんだ」


「いや、発掘って言い方がもう怖えよ! いつのだよ……化石じゃんこれ。食えるの?」


「む、失礼だな。ちゃんと食べられるよ……多分」

 

 彼女は少し口をとがらせると、目をそらした。

 

「“多分”で人に出すなよ! 腹壊したらどうすんだ」


「ふふ、面白い冗談だね。もう死んでるんだからお腹を壊すことはないよ」

 

 肩をすくめながら、モルティナがくすりと笑う。

 

「いやそういうことじゃなくてだな!?」


 ――ふと、自身の死を自然と受け入れている自分に気が付く。

 ほんの少し前まで、あれほど動揺していたのに。

 モルティナとのやり取りで、だいぶ気持ちが落ち着いてきているみたいだ。

 ……いや、麻痺してきただけかもしれないけど。


「大丈夫だから、食べてみなよ。美味しいよ?」

 

 その言葉に、覚悟を決めて“クッキー”を一つ手に取る。

 恐る恐る口に運べば、以外にも歯ごたえは軽く、サクッという音が口の中に響いた。

 香ばしさとほのかな甘みが広がる。ナッツと、ほんのりとしたスパイスの香り。

 なんだこれ、普通に……うまい。


「……え、うま」

 

 思わず呟いた俺を見て、モルティナは満足そうにカップを傾けた。

 なんだか、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 

「お前、意外と優しいんだな」

 

 そう口にした瞬間、モルティナの手がピタリと止まった。


「……勘違いしないでくれよ。魂というのは不安定だから、扱い方を間違えるとすぐ崩れるんだ。君みたいなやつは特にね。だから……ただの予防措置さ」

 

 ふいっと顔をそらすその横顔は、どこかぎこちない。

 さっきから表情はほとんど変わらないのに、その言葉の裏にある感情だけが、なんとなく伝わってくる。

 この人、やっぱり――不器用なだけで、ちゃんと優しいんじゃないか。


 何とも言えない気持ちになって、口角が緩む。



 少しして、こちらを向き直ったモルティナと目が合った。


「……ふふ。だいぶ落ち着いたみたいだね。顔色も、最初に比べればずいぶんマシになった」


 彼女はそっとカップを置くと、小さく息を吐いて続けた。


「じゃあ……そろそろ本題に入ろうか」

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